GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

RPG関連の記事に言及していただく際のお願い

 一度こういうものを書いて置いた方がいいかなと思ったので、書いておきます。

 僕のBlogエントリに対しては、さまざまな方から、さまざまなコメント・批判・提案を戴きます。
 もちろん、論説に対して批判が来ることはとてもありがたいものであり、それによって自分独りで考えるだけでは思い至らなかったさまざまな点を、代わりに発見して頂けることもしばしばです。
 ただ、僕はここで文章をひたすら直しているわけでもありません。僕から提示できるものには、どうしたって限りがあります。そもそも僕には、「RPGの論説って、たった一人に意見を集約して取りまとめられるような、独善的なものではありえないでしょう?」という感覚が根強くあります。
 なので、「高橋さん、これが足りてないよ……」と言われると、「えっ、そういうのはたまたま今回僕が採り上げなかった(あるいは書く能力がなかった)だけで、みんなでガンガン採り上げて行けばいいじゃない。協力しますし、書いてくれたら記事の紹介もしますよ」としかいいようがなかったりするのです。
 僕は、そういう共同作業を興す際の、共有可能なアイディアを(批判されること、未だ不足分があることも考慮に入れて)提出しているに過ぎません。
 もちろん、必要な修正は順次加えていくつもりですが、一度出したエントリから時期がズレて訂正せざるを得ないこともしばしばです。僕一人が意見改訂に努めるだけでは、会話型RPGを論じる言葉が豊かになるとはとても思えません。
 僕のBlogは、あくまで僕の現時点での思考を切り出す場であって、「会話型RPGの解説書をつくるための、みんなの企画会議wiki」とかでは今のところありません(そういうのがもし完成したら嬉しいですが、その仕事は僕だけの仕事ではありえません)。新しい記事についての意見を貰っても、「それは自分が今書けるエントリではないなあ(時間ないし、能力足りないし)」と言うことが多い。また、「主張として納得したけど、僕から応答できることはあまりない」ということもありますので、その点はご諒承ください。
 ともあれ、「高橋の論説にはこうした点が足りない」と感じる時は、もちろんあると思います。そしてそういう点は、僕に「足りないから、書いてね」というより、各々ご自分でもう書いてしまって「どうだ! こういう言い方をした方がずっとスマートやで!」って言ってくれた方が、僕の出番がどんどん減って、とても助かります(笑)。
 そういう動きが出てようやく、お互いにとって強度のある言説というものが作れるようになるのではないでしょうか。

 こんなところで。

戴いたコメント紹介

 週末『モノトーン・ミュージアム』のセッションなので、そのシナリオ作成をやっています。
 とはいえ、朝は余裕があるので軽く返信をば。
 主に今月の22日(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822)に掲載した、複数の記事についての反応を返事しました。

主張を図解する(紅茶檸檬さん)

 「〈プレイング〉の内実」での要約を、紅茶檸檬さんが整理してくれました。

http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20100826/p1

 ありがとうございます。とてもわかりやすい整理だと思います。また、基本的にこういう発想から出発している、ひとまずの結論が「ロールプレイング・ゲームにおいては両方大事です!」という風になってることは、その通りだと思います。
 この要約から漏れることも色々と考えてはいたのですが(たとえば、「かしこさ:16」で、これが行為判定との関連上「とても賢い」くらいの意味を持つのに、行為判定で関連するテストに失敗し続けた結果、「かしこいけど、おっちょこちょい」という設定が徐々に生成・共有されていくことになった……という場合の、量的/質的の越境はどういう風に起きているのか? など)、まずこういう図式を共有できてないと、何言ってるんだかさっぱりわからないですよね。不親切でした。
 というか、僕の想定している発想って、その都度Keynoteとかで書いてここに貼り付けた方がいいんですかね……。

用語の定義について(鏡さん)

RPG日本 卓上RPGを考える』の鏡さんからこんなコメントを戴きました。

「定義」の目的は、複数の者の間で、共通認識(コモンセンス、常識)を築くことにある、と私は考えます。何らかの議論(ディスカッション、意見交換)を行うなら、議論への参加者同士で。一緒に卓上RPGを遊ぶなら、その卓を囲む者同士で。同じ地域で生活するなら、住民同士で。ある定義を共有する者の集まりが、定義された内容の有効範囲となります。日本人にとっての常識(共通認識)が、外国人には必ずしも通じないように。

「定義」をこのように「定義」すれば、「定義」は誰もが自由に、独自の用語で決めてよい、ということになります。特に、自分の体験と考察から生まれた論考を述べる際には、その論旨とまったく同じ用語が既に無ければ、あるいは近いものはあってもその定義が不明瞭であれば、独自用語を作った方が、むしろ誤解を避けることができましょう。このように考えた上で、私もしばしば自分なりの独自用語を定義し、使っているのです。

もちろん、自分勝手な定義は避けるべし、という意見があることも承知しております。例えば学問の世界には、学派やら学閥やらがありますから、その中で既に共有されている認識に従わなくてはなりません。さもなくば、不毛な議論を生む、分かり難い、○○先生に逆らう気か、などと非難されてしまいますので。つまり、そういう者の集まりでは、「定義」の「定義」が違うわけです。

鏡,「定義は独自に決めてよい、という意見」(http://www.rpgjapan.com/kagami/2010/08/post-221.html

 ありがとうございます。
 会話型RPGは、“少なくとも日本においては”学問としての用語の整理というものが全然進んでませんし、それを主宰するような代表も特にいません。
 そうした状況では、「その語がどれだけネーミングとして適切か」というのは、各々独自に議論を組み立てようとする人にある程度委ねるしかありません。
 また、語を定義する側(今回の私)も、それほど「定義した語の名辞それ自体」が大事だとは思っていません。そういうのは単なるタグです。僕が「(=○○の定義)」として書いたさまざまな記述は、人の好みによって○○の部分を入れ替えて言ってしまっても問題がないよう、十分内容をパラフレーズしたつもりです。
 極端な話、〈量的情報〉がズンドコベロンチョ、〈質的情報〉がアッチョンブリケと言い直しても、まあ意味が伝わるようになるべく書いてるわけですね(そんな言い換えする人がいるかどうかはともかく)。そんな言い換えでも、パラフレーズした部分を参照すれば意味が通るように書いたわけです。頭の中で適宜ズンドコベロンチョとかアッチョンブリケとか置き換えて読んでみてください。そんなに破綻しないよう書いたつもりではあります(やらないか)。
 その上で、「高橋のネーミングは問題だけれども、ここで定義された区分自体はなんとなく理解できなくもないので、別の言い方で応用してしまおう」ということをやっても、別に僕は何の問題もないと思います。もし僕が数ヶ月後に「あ、やっぱこういう言い方に換えた方が伝わりやすいかも」と換えた時に、指摘した側の労力自体がもったいなくなってしまうような、そういう程度のものだと思っています。それよりも、定義された方の(=定義語をパラフレーズした)記述がどの程度使えるか、その分類にどの程度の認識利得があるのか。その点を批判していただいた方が、よほど僕にとっても、それを読んだ人にとっても重要な指摘になるかと思います。
 その上で、鏡さんも指摘されている通り、「村の人口とかが、行為判定とかと関係をもててないにしても量的データに含まれませんか」という指摘はその通りで、まだ配慮が足りなかったと思っています。僕が今回定義した〈量的情報〉は、行為判定と直接関連づけられた尺度をもつ情報でなければ〈量的情報〉にはならないんです(だから後でindexical dataとも言い換えた)。でも、それは「量的情報」というネーミングではあまりうまく伝わりませんね。
 Vampire.Sさんとのチャットの中で、量的/質的はindexical/symbolicという言い方に置換するという提案もしていますが(これもタグづけみたいなもので、伝えたかった意味はほとんど変わっていない)、そちらの方がより適切かもしれません。これについては、また整理できたらお伝えしたいと思います。

「なりきり」には「パフォーマンス/没入」の二側面があって……(acceleratorさん)

 一度切り分けた「なりきり」および「没入(immersion)」についてコメント戴きました。ありがとうございます。

http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100827/p1

 これ、基本的には、僕もほぼ同じ意見を言ったと考えているんですよ。
 ただ、「不必要性を強調した」という自覚はまったくないため、どういう風に伝わってしまったのか、というところで、僕のスタンスについての見解の相違があるのかなと、読んで思いました。
 僕は“演技”(=口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、という行い)が、会話型RPGにおいて「不必要」では決してありえないからこそ「選択的」と言ったのであって、それは(「“演技”の非・選択(not否定)」というところにも留保がある通り)演技のパフォーマンスとしての効用を否定するものではないのです。
 どちらかというと僕の記事は、「最初からそのプレイングができなくてもゲームは出来るのだから、無理に“演技”を意識して敷居をあげる必要はない」という立場に立って書いてます。さらにその前提には「“演技”まで意識して会話型RPGに参加するというのは、敷居の高いものである」という考えが前提にあります。そこには好悪の別はぜんぜんなく、単に「プレイングの課題としても複雑な構成をもっているのに、その上でウケ狙いまで意識するのは、最初はちょっと大変だよね」っていうくらいの話です。
 さらに、「『直接話法で話した方が効率的である・感情移入を促進する・プレイの味付けとなる』というような理由で、台詞を代弁するということは、慣れたプレーヤーなら誰でもある程度は行います」と書いている通り、慣れた人のテクニックとして楽しめばいい、その上でなら相互評価もとても面白いものになる*1
 こういう風に穏当な、ある意味では「弱い」主張として最初から書いているつもりではあります。
 その上で、

コミュニケーションの遊びなのにあんまり内没されると困るって事情から、なりきりを困った行為と捉えるむきがあるのは分かりますが、セッションで一番心に残ったのがあるパフォーマンスだったということもあると思うので、ポジティブな側面も併記して欲しいと思った次第です。

 という件については、「『ウォーハンマー』のリプレイについてのワークフローを通じて、“演技”の効用についてある程度述べたつもりです」という風になります。実際、Web掲載のリプレイ(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)では、楽しくなりきってる(この場合、台詞を自分で考案してウケを取ろうとしている)部分も多々あるわけで、そういう点を参考にして頂ければと思います。
 そもそも僕はなりきり“それ自体”が「困った側面」とは、今回の文中で一言も書いていませんし、そのような主張も廃しています*2。あくまで「なりきり」については「ベタに面白さを解析するのはむずかしい」ということをであって、それでも追求するのは長期的には価値がある、とすら述べています。さらに、ゲーム中に“演技”的な要素を取り入れても、それがより魅力的な提案・パフォーマンスとなるようなワークフローも書いています。ポジティヴな面については、『ウォーハンマー』のRPGリプレイに言及してすらいるわけで……これ以上何をすれば僕が「ポジティヴな面について語った」ことになるのか、ちょっと思案してしまいます。

*1:国産RPGで言えば、『天羅万象』や『異界戦記カオスフレア』は、そういう相互評価の曖昧性を、戦闘の資源管理ゲームと両立させつつうまく取り入れたメカニズムだと思ってます。

*2:これは何度でも言いますが、10年来「なりきり」が問題とされてきたのは、「なりきり」自体が悪いからではありません。「なりきり」を重視するあまり、ほかのゲーム的要素を運用から廃すると、会話型RPGにおいて楽しめるさまざまな要素がスポイルされる。この場合のみ、「なりきり」が問題となるだけです。そうした極端な状況を作らなければ、「なりきり」は問題なくRPGの楽しみの一つとなります。つまり、ゲーム全体の中で構造的に「なりきり」が有効に機能していれば、特に問題にはならないわけです。そして、「なりきり」のみを主軸とする必然性があるRPGシステムというものは、2010年現在、システムの指示通り運用する限り、それほど多くない。だいたいのシステムが、それ以外のさまざまな要素をも考慮しなければならないように出来ています。このことは、何度も確認してきたつもりです。その上で、訓練や評価が困難な要素であり、その巧拙を論じるには長期の視点が必要だということを述べたに留まります。これが「なりきり否定」となるでしょうか? 僕はそうは思っていません。むしろ僕は、「なりきり」のoptionalな面白さを常に担保する為にこそ、ゲームデザイン論による会話型RPGの基礎づけが重要だと考えているのです。

Vampire.S氏とのディスカッション

 先日の「会話型RPGTRPG)における〈プレイング〉の内実(改訂版)」(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395)について、Vampire.S氏からコメントを戴きました。ありがとうございます。
 以下は、ご本人より掲載許可を戴いたSkype上でのディスカッションの記録となります。元のテキストでは詰め切れなかった部分も含めて話していますので、先日のテキストを読まれた方はどうぞ参考になさってください。
 参考までに:Vanoure.S氏は情報科学を、高橋は理論社会学(ミクロ)をそれぞれdisciplineとしています。またVampire.S氏は、『ルーンクエスト』シリーズのデザイナーとして有名なグレッグ・スタフォードのグローランサ世界を遊ぶ為の同人TRPGRune=Wars』のメカニズム・デザインを手がけている方でもあります。詳しくは「ルーン・ウォーズへの招待」(http://www.dunharrow.org/pukiwiki/runewars/index.php?Rune%20Wars%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8B%9B%E5%BE%85)や「定義集」(http://www.dunharrow.org/pukiwiki/runewars/index.php?definitions)などをご覧下さい。高橋は今回のチャットにおいても、R=W由来の術語について何度か言及しています。

ログ(100824Tue-25Wed)

Vampire.S: どうも、ご無沙汰をしております。Vampire.Sです。夜分遅くに申し訳ありません。
高橋志臣: こんばんは。お疲れさまです。
Vampire.S: どうもお疲れ様です。
Vampire.S: ところで、実は、志臣氏の文章を拝見して疑問に思ったのですが
高橋: はい。
Vampire.S: 元の文章である『[RPGs]会話型RPGTRPG)における〈プレイング〉の内実(改訂版)』における主張というのは、結局の所何なのでしょう? 「TRPGにおいては、量的情報と質的情報が両方存在することが本質的である」 という主張なんでしょうか。
高橋: うーんと、本質的、というほど強い主張ではないですし、たぶん語用も十分ではなかったかな、と思います。
高橋: 「意味が(おおむね)一対一対応するようなパラメータの定義」と「意味が一対一対応にはならない、さまざまな定量的・定性的情報」の両方を参照しつつ、架空の状況で起きた出来事を処理することが会話型RPGの特徴であるという感じです。R=Wで以前まりおんさんがまとめていた形式言語自然言語の往復のイメージを意識していましたが、違う言葉づかいになりました。

 で、もちろん以前おっしゃられた「対ドラゴンブレスセービングスロー」問題*1のように、実際、対ドラゴンブレスSTの意味が対象の適用によって拡張することは往々にしてあるので、あらゆる〈量的情報〉が“始めから終わりまで、ずっと”一対一対応というのは、ちょっとありえない。GMとPLの運用に向けた話し合いの中で、どうしても色んな対象とヒモづけられていく。ですが、初期の変数定義においては少なくともそういう発想ということでいいのではないか、と思っていました。
Vampire.S: ちょっと、具体例についての質問をよろしいでしょうか。
高橋: はい。
Vampire.S: 今、「意味が一意に定まる≒アプリオリに定義を有する述語」と、「意味が多義に渡る≒ポステリオリにのみ意味が定まる、即ち文脈がある述語」の両方があることが、TRPGの本質である、と主張するとします。
Vampire.S: たぶん、そちらの仰っていることは、概ね上述の内容と等価と思いますが、どうでしょう?
高橋: その通りになります(今、すでに自己批判の内容も思いつきましたが、今回のテクストは上の主張通りです)
Vampire.S: そうしますと、主張として等価に、「両方の述語が登場しない限り、『TRPG』にはならない」となるかと思いますが、いかがでしょう。つまるところ、「本質的である」という言葉の定義問題ですが。
高橋: そうですね。「本質的」という言葉は、(今回のテキストでも、註釈としても)両方避けて通ったのですが、「多くのRPGセッションの場では、両方が参照されることが多い」という風には考えています。
Vampire.S: すると、例外を認めるんでしょうか?
高橋: この場合、例外は3つありますよね。

  • 〈量的情報〉のみで閉じる・完結するセッション
  • 〈質的情報〉のみで閉じる・完結するセッション
  • 〈量的情報〉も〈質的情報〉も参照しないセッション

Vampire.S: なるほど、そもそも、TRPG」という述語は、セッションの集合を元に定義されているんですね。
高橋: ああ、はい、そうです。

この三者が一同に会する場(ルーンウォーズで近い術語で言えば〈テーブル〉での発話の集合)における、情報の性格を分類したものにあたります。>〈量的情報〉&〈質的情報〉
Vampire.S: その分類により、どのようなコトが新しく主張できるようになるのでしょう? といいますのも、量的だから、あるいは質的だから、どうした、という結論の部分が分からないからなのですが。それと、今、そもそも議論中に例外を認めているため、断定的な議論にはそもそもならないと思うのですが、その場合その議論の当否を決定しているような証拠は、どのようなものなのでしょうか?
高橋: あるデータ(これは量的でも質的でもよい)を、質的/量的 というタームで分けることは、パラフレーズすればそれなりに意味は通ってるものの、自分の文意を伝えるのにあまり適したネーミングではなかったように思います。

 R=Wに対する僕なりの理解で今回の話を具体的に述べると、たとえば「4R2」 を「44人」と変換しうるメカニズムがあったとしても*2、もともとのグローランサの情報「44人の村人」という情報が「4R2」と“常に”等価であるとは限らない。4R2が、今回述べた〈量的情報〉にあたり、44人が、〈質的情報〉にあたります。
 ここで言う「44人」もまた人数のvariable(=変数)ですから、そもそも「質的情報」と呼ぶのは若干誤解を生みかねないところではあるのですが、本テキストでは、敢えてそのようなタームを使ってみました。そもそも、本論で変数をparameterと訳しているのは、単なる設定情報としてのvariableと、ゲームの数理的構造や行為判定メカニズムに埋め込まれた、一対一対応の変数と区別するためでした。*3

  • ある単一の論理構造において一意の意味をもつ定量的情報(indexical data)
  • 定量的情報ではあるが、さまざまな解釈が可能なもの、および自然言語による情報(symbolic data)

 最終的には、今書いている〈量的情報〉をindexical dataに、〈質的情報〉をsymbolic dataに、置き換えて考えられるといいと思っていたのですが、このindexical/symbolicの区別は、社会科学一般のタームからも唐突ですので、今回避けた次第です。
Vampire.S: そうすると、文中において全ての“情報”という述語は、背景に論理的であることが仮定されているのでしょうか? あるいは、同じ事ですが、“情報”は常に何らかの意味で背景に形式性を要求するんでしょうか。
高橋: データは、量的だろうと質的だろうとデータですが、「ひとまず一対一対応であると(その時点で見なす)」のがindexical data,定量的だろうと定性的だろうと、将来どのようなindexical dataにも置き換えうるような情報を、symbolic data という風に区分しました。
Vampire.S: この場合の「データ」とは、どのように定義される述語でしょうか? 一般には、何らかの分類的背景を仮定するような情報のことを、データと称しますよね。
高橋: indexical dataについては、その通り、考えています。indexical dataは、そのdataの背景に、〈行為判定〉の際に参照する、というような前提(多くは、確率の付与)を持ちます。これはだいぶstaticです。

 データは、そうですね。「会話型RPGのセッション内発話において、特定の内容の記述を行う為に参照されることを念頭に置いて加工された情報(自然言語であることもあれば、数値や数式、確率分布等の形式的言語を含むこともある)」と、さしあたり考えています。
Vampire.S: そうしますと、元の主張を修文すると、「TRPGにおいては、行為判定に参照される前提となるような述語と、そうでないことを前提としているような述語の二つが登場することが、本質的である」となりましょうか?
高橋: いいえ、もう少し修正させてください。

「会話型RPGにおいては、行為判定において直接、既存のルール内で参照される前提となるような述語と、“潜在的に既存の形式言語的処理”に取り込みうるような(しかし、そのままではさまざまな取り込み方が想定可能な)述語の2つが登場し、その両方がセッションの参加者の解釈によって相互乗り入れすることが、特徴的である」

というほどになります。
Vampire.S: そうしますと、「潜在的に既存の形式言語的処理”に取り込みうるような(しかし、そのままではさまざまな取り込み方が想定可能な)述語」からなる会話は、TRPGの範疇には入らないんでしょうか。
高橋: いいえ。以前、Sさんが「〔〈ポリシー〉に対する〕〈メカニズム〉は、別に数学的構造だけとは限らない。自然言語によって記述された情報もメカニズムである」ということを言っていましたが、セッションにおいて、数値・数式・確率などの形式的処理を経ずとも、参加者間の合意が持続する限りは、それもまたTRPGの範疇に入る、と理解しています。むしろ、「合意」さえればそれは形式言語だろうと自然言語だろうと、どっちでも構わない、といえば、近いのでしょうか。
Vampire.S: 一方、純粋に「既存のルール内で参照される前提となるような術語」のみからなるゲーム行為は、TRPGに入らないんでしょうか?
例えば、将棋のような。
高橋: うーん、そうですね。将棋は、RPGに入らないかな、と現行では考えていますが、
たとえば、ルーンバウンドは「既存のルール内で直接参照される前提となるような術語」のみで構成されたTRPGではないか――そのように反論されれば、「そう解釈する余地はある」と考えます。
Vampire.S: そうすると、「会話型RPGにおいては、行為判定において直接、既存のルール内で参照される前提となるような述語と、“潜在的に既存の形式言語的処理”に取り込みうるような(しかし、そのままではさまざまな取り込み方が想定可能な)述語の2つが登場し、その両方がセッションの参加者の解釈によって相互乗り入れすることが、特徴的である」とは、結局どういう主張になるのでしょうか?

 今、「特徴的である」という主張にも関わらず、結局の所TRPGの集合を区分するメルクマールとしては意味をなしていないと思うのですが。
高橋: うーん、そうですね。
 僕はまず、「TRPGは物語を楽しむ遊びである」という主張と、「TRPGはゲーム(ウォーゲームの流れを汲むような、数値的データに親しむゲーム)である」というような二分法のどちらか一方に、TRPGのプレイングは偏りがちである、という背景をまず、前提としていました。

 しかしそこで僕は、むしろ「既存のルール内で参照される前提となるような述語」によって構成された構造と、「“潜在的に既存の形式言語的処理”に取り込みうるような(しかし、そのままではさまざまな取り込み方が想定可能な)述語」によって大まかに想起・期待されるようなナレーションとの齟齬を、参加者間で調整していくこと自体が課題となるようなゲーム、それが多くの会話型RPGの特徴だ……そのくらいのことを伝えようとして書いたものなんですね。
Vampire.S: 「多い」という観察を伝える情報であれば、それを主張すべきは統計であって論理ではないですよね。まあ、とにかく話を元に戻しますと。実は、今回のエントリを拝見して、一読して意味が分からなかったのでして。大体今おつきあい頂いた対話で、概要は掴めたとは思うのですが。しかるに、あれだけ文章を書いているのに結論が少ないなあ、というのが率直な感想です。
高橋: TRPGにおけるセッションの全体をもれなく定義するような論理になっていない、というのは、そうみたいですね。そして、もれなく定義できない以上は、統計的アプローチで整理したほうがよくて、わざわざああしたアプローチ(=論理的アプローチ)で書く必要はないと。
Vampire.S: 確実に、そうなるかと。
 セッションを単位としてTRPGを検討するのであれば、リプレイはセッションの記録ですから、既存リプレイ等を分類して頻度分布をとったりする方が単なる主張の根拠として良いと思います。
高橋: 加工は入っているものの、近似は掴めると。
Vampire.S: どうせ、例外を認める議論は全て近似に過ぎませんので。
高橋: 論理的にRPGという営みを定義できればいいのですが、どうもうまくいかないようです。今回のものも、それができたとはあまり自分自身思ってはいないですし。
Vampire.S: 話を戻しますと、仮にリプレイを分析した結果を統計として積み重ねるのであれば、必要なのはリプレイのテクスト中に出現する述語がindexicalであるか、それともsymbolicであるかのメルクマール〔=判断の指標〕ですよね。外形標準的な。
高橋: そうですね。
Vampire.S: ところで、そういったメルクマールってあるんでしょうか?
高橋: 厳密に区切るのは、相当にむずかしいですね。
Vampire.S: というか、実は、そこの議論がトートロジー臭いな、というのが率直な感想です。
高橋:

  • 「プレーヤーとして発話している」
  • 「プレーヤーキャラクターとして発話している」
  • 「プレイ外の生活者として発話している」

という区分なら、いくぶん区切りやすくはなりそうですが。
Vampire.S: それも区分可能かなあ?
高橋: うーん、不可能だというほどでもないですが、排他的にやるとなると、厳しいですね。 そもそもみんな生活してるものの一部としてゲームやってるわけで。ちなみにこの辺の話は、Salen and Zimmerman*4 が ordinary world/temporal worldという区別をひとまず提示してました。こっちも甘めな議論でしたが。
Vampire.S: そもそも、叙述トリックって、読者と登場人物を錯覚させるような叙述法を用いた文学手法ですよね。
高橋: そうですね。
Vampire.S: すると、叙述トリックをシナリオ中に実装すれば、構成的に、区分不能な例を作れる気がするんですが。特に、Call of Cthulhuとかでプレイヤーと同じ名前のキャラクターを生成させた場合とか。〔あるいは〕蓬莱学園RPGで、TRPGサークルに属するPCを生成させたときとか。
高橋: その通りかと思います。テクニックとしてそういうのが考えられる以上、先ほどの区切りにも無理があることを認めます。曖昧な認知枠組の転換(keying)はおそらくあるのでしょうが、それが排他的に「どの役割」「どの言語体系」に相互排他的に属しているかという指標を定めるのは、限りなくむずかしいでしょうね。
Vampire.S: 極論、It came from late, late, late show! みたいな、RPG内部でメタRPGを実施することを以て中核とするようなメカニズムが実在するんですよね。
高橋: そうですね。
Vampire.S: なので、たぶんそういう場所で適当に捻ってやると、論理が簡単に破綻すると思うのです。
高橋: AマホでPL自身をプレイさせて、コンベンション会場で火事が起きる所からゲームをスタートさせるとかも、そうですね。
Vampire.S: あと、シナリオってPCに対する脚本では「ない」ですよね。
高橋: ないですね。
Vampire.S: なので、例えば「AマホでPL自身をプレイさせて、コンベンション会場で火事が起きる所からゲームをスタートさせ、その後、遠隔操作でGMがコンベンション会場の火災報知器を鳴らす」というシナリオとかどうでしょうか。演出として、こういう行為が認められて射るんじゃないかなあ、一般のRPGって。
高橋: その遠隔操作とは、ゲーム内の状況におけるGM(というNPC)のことですか?
Vampire.S: うんにゃ。ホントに「GMが」火災報知器を押すのです。
高橋: ああ、なるほど。リアルワールドのGM
Vampire.S: そうした方が、面白いでしょうし。ちなみに、ほとんど同種の話が『ガラスの仮面』とかに出てきますよね。『奇跡の人』ヘレン・ケラー役のオーディションの時のイベントですね。
高橋: うーん、記憶が遠い……。あ、あれか。レストランのテーブルの下に隠れたりするオーディション。3-4場までありましたね。最後に非常ベルがなっても、我に返らないマヤとあゆみの二人が勝つ、って話だった。
Vampire.S: 確かそれですね。あゆみさんのお母さんと一緒にやるはなし。
 ところで、話を戻しますと、主張したい目標が不明瞭だなあ、というのが一点。
 もう一点は、全体的に、例えばシナリオの定義を「シナリオとは、プレーヤーの繰るPCたちが、おおむねどのような状況に置かれており、どのような人・モノ・事件とめぐりあい、どのような課題を解決するのか……といった、一連のゲーム的仕掛けを記した手続き書のこと」とすることにより、GMがどのようにPLに対してプロットを提示するか、といった要素を捨象してしまっていて、現実のシナリオ定義とはかけ離れていると言った感じの、地に足が着いていない議論が気になりました。
 それこそ、「このシナリオはサブマスターを使用します」とかいうGMに対する指示事項が、このシナリオ定義からは落ちていまして
高橋: ああ、そうですね。確かに。GMのメカニズム選択/シナリオ作成/セッション運営の3項については、今回の議論から抜けてしまっています。
Vampire.S: 例えば、『トーキョーN◎VA』のようなGM/PLに対するゲーム的操作が許されているゲームだと、標準既成シナリオもこのシナリオ定義の中に入らなくなります。
高橋: 同時に説明しようとすると、いきおいメカニズムデザイナーとゲームマスターの職務の話までしなければならないのではないかと思い、今回はプレイングのみに的を絞ってしまいました。少なくとも、GMの側からの提案もプレイングの話の内に含めないと、適用範囲が狭まってしまいますね。
Vampire.S: Wローズとかだと、そもそもPL側も同級の権能を持ちますからねぇ。たぶん、件のシナリオに対する定義は、弱すぎて議論対象として不適切です。
高橋: その指摘については、後々「ゲームマスターが可能なこと」をまとめて、それに合わせて適宜プレイングの記述もしたほうがいいかと思いました。
Vampire.S: たぶん、そうして拡張した体系は、元々の議論が持っていた結論を引き継げないですよ。したがって、ごく狭い領域に対する弱い結論のみを主張するために、定義を狭めているという形になります。そういう風に、結論に合わせて定義を細工することをすると、学術的には価値がどんどん低くなります。
高橋: そうですね。
Vampire.S: 仮に、「indexical/symblic述語の交代性」を主題に述べたいのであれば、まずは上述の定義問題から初めて、少なくとも幾つかのリプレイ・テクストに対しては複数人が同じ程度の分類ができるところまで詰めておかない限り、学術にはならないでしょうね。
高橋: そうですね。その実証がどうしても必要ですね。
Vampire.S: とりあえず、もう少し簡単なところ、実証可能が容易な議論から始めないと、議論にならんのではないかなあ。この場合、「簡単」というのは簡素とは別の意味ですが。その際、多少の人工的定義になることを避けて通ることは出来ないでしょう。
高橋: そうですね。現状では、実証が容易な立論にはなっていないというのはその通りだと思います。
 ただ、今回提案されたような方向に一度進路を切り替えても、indexical/symbolicの仮説を見ようとするのは、僕にとっては少なからずやる価値はあるかな、とは改めて感じました。
Vampire.S: その上で、何を人工的とし、何を本質的として残すかについては、一種の哲学ですから、好みの問題が顔を出すでしょうけれども。
ところで、その場合どうやってindexical/symbolicの区別を創設するおつもりですか?
高橋: 最初は、排他的に2区分を見いだすのではなく、indexicalなものと思われていたものから背景設定が演繹される契機と、symbolicなものと思われていたものに一対一対応の数値が付与される契機との、この2つのタイミングを抽出することで、「その前後」を切り出せないものか、とは、考えています。
Vampire.S: ちなみに、そもそも、indexical/symbolicの区分を導入した先行研究は、どうやって分類していたんですか? もしそれが高度に理念的なら、ハッキリ申しまして、捨てた方が身のためだと思います。ご自分で使えない道具立てを使って、未知のモノを分析するということは、当初の問題を難しくしているだけですので。
高橋: これはパース記号論の三肢性についての論ですね。僕はかなり「使える」と思ってはいるのですが、高度に理念的かどうかと言われれば、確かに抽象度の高い話になっているかと思います。
Vampire.S: RPGは具象ですのでねぇ。特に、セッションを単位として区切った場合、検証客体が容易に発生するので。個人的に、RPGを扱う上で一番難しいのって、そういう検証可能な枠組みをどこに設定するかであると思っています。で、それに失敗する限り、もう以降の議論に価値はないんですよ。
高橋: そうですね。今回の文章は、RPGという営みを科学的に検証する、というよりは、ひとまず経験則を言語化した文章になっていますね。そういう意味で、学術的価値はそれほど高くないと思います。仮説を作るとしても、一度実証のサイクルを経てもう一度仮説の再構築に戻ってこられないと科学的営みとはいえませんね。今パース記号論にかなりコミットしているのですが、実証に行きにくいという点では、RPGに適用しすぎるのは危険(実証にいつまでもたどり着けない)という指摘は、ごもっともだと思います。
Vampire.S: 記号論とかより先に、たぶん心理学とかインタビューやアンケートの手法の議論が先に立つでしょうなあ。
 ところで、私はFineの議論*5は一文字も読んでないのですが、彼は、そういう議論をしてなかったんでしたっけ? というのは、確か彼の先行研究に属する系統の実証心理学や文学に近い部門が、精力的に行っていたのが「録画・録音してしまったとき、人は“自然な”振る舞いにならない」というものだったと記憶しているのです。というか、Goffmanの主要研究ってそういう話じゃなかったっけ? なので、その主張からほぼ自動的に、リプレイというテクストを信用することの危険性が導かれると思うんですよね。
高橋: 彼は、Goffmanのflaming(認知枠組の構築と切替え)仮説を利用して先ほど述べたplayer, player-character, person の3つの立場が、混淆して(しかし、概ねスタティックに)切り替わっている、というような話をしています。Vampire.Sさんのおっしゃられたその話は、Goffmanというより、トマス&ズナニエツキの「状況の定義(definition of the situation)」の話ですね。
Vampire.S: で、まあ私はその分野の専門性は欠片もないのでアレですが、たぶん、そういう「見られていることを意識している」ということに自覚的な体系の方が、分析の対象として安全なんですよ。
高橋: そうですね。
Vampire.S: なので、恐らく生のTRPG研究するより、VIP板のスレを研究した方が生産的だと思うのですな。
高橋: そこでVIP板ですか(笑)まとめられることを念頭においたパフォーマンス、ですか?
Vampire.S: 「観察されている」「ログが残る」と参加者が思っているのだけれど、その上で、「架空の状況について、その場を構成しているメンバーによるアドリブ感を重視した言語ベースの“ゲーム”」となれば、これはキャラネタ板かVIPか、となるかと。なので、その辺を使って例えばindexical/symbolicの区分が成立するのかどうかを検証するとよいかと。
Vampire.S: といっても、私は成立しないと思ってますけどね。
高橋: うーん、まあ、その対象選択でも、成立は難しそうですね。indexicalなものってその場合そもそも何だ(テンプレ的やりとりとか)? とかになっちゃいますしね。
Vampire.S: AAとか。AAやコピペほど形式的で、その結果としてその場の空気によって意味が変わるものないんですよ。
高橋: そうですね。同一の表現なのに、コンテクストによって意味づけが全然違いますね。
Vampire.S: というか、一般に形式に対して意味を見いだそうとする場は、形式をそういう、非常に「能弁な」ものとみなそうとするんではないかと。武道における対戦を、「コミュニケーション」と主張してはばからない人々が多いわけですし。
高橋: なるほど。
Vampire.S: 全般的に、こんなところかなあ。あんまり参考にならず、申し訳なかったです。
高橋: ああ、いえいえ、とんでもない。ありがとうございます。むしろ、実証研究に向けた思考まで先取りした、とても建設的なコメントを戴け、感謝しています。
 書いた時に見た風景とかはそれほど間違ってはいない、という信念は持っているんですが(笑)、それが改めて会話型RPGの学術的仮説として有用かは、また別の話ですね。思考の練度と筆力が、まだ足りてない。また、「ゲーマーとしての自分の技巧の言語化手段」「会話型RPGに学術として貢献するための技」とを区別して、別々に達成させるための姿勢づくりがまだ不分明なのかなあと反省させられました。両方やらなきゃいけないと感じているので。
Vampire.S: まあ、とりあえず、実証可能な議論から始めるのがお勧めですなあ。計数と記載が物事の基本ですので。役人としては。
高橋: そっちの議論で面白いと思ってくれる人がまだ研究計画として見えないのがなんともですが。「RPGについての、実証可能で面白い立論」というものがちゃんと見いだせるならいいんですけど、それはまだまだしんどいですね。
Vampire.S: たぶん、無いんじゃないかな。
高橋: そこでその結論ですか(笑)
Vampire.S: いや、ホントの所、「RPGには議論可能な要素が無い」ということなら、構成的に証明可能なんだと思います。
高橋: ふむ。それが論理的に証明されてしまえば、経験科学にしようとする試みのほとんどは無為になっちゃいますね。
Vampire.S: うーん? まあ、実証心理学程度には実証性があるとは思いますよ。ただ、実証真理学って結局、心理学的実験結果の多くは心理学的実験手続きによって任意に創出できることを発見しちゃって、終わっちゃいましたけど。
高橋: そうっすね。僕が構築主義以降のパラダイムを模索する社会心理学研究室にいるのも、概ねそういうのがあんまり面白いと思わなかったためなんで。ただ今度は、現代思想からどうやってもう一度実証可能な研究アプローチを作るかというところで泥沼の格闘がありますけれども。それで社会表象理論やパース記号論から今思考を整理していますが、なかなか難儀しますね。そもそも大学院の研究ではTPRG研究はまったくメインではないんですけれども、ぶつかる壁(方法論とそれによる実証までの達成)の厚みは、あんまり変わらないっぽいですね。
Vampire.S: まあ、計算機屋はその点少し楽してるので、他の分野の方々には「頑張ってくださいね」としか言えませんなあ。
高橋: (笑)。大変ですが、まあ楽しいですよ。仮説形成だけで力尽きちゃって総スカン喰らいかねないところがあれですけれども、仮説のための先行研究整理と、実証に向けて一歩一歩進んでいくのは、個人的に苦痛ではないので。
 また今回の件については、Vampire.Sさんが今述べてくれたようなかたちでの批判が欲しかったので、ようやく安心したところでした。まっとうな指摘を頂けて、書いた甲斐がありました。どうもありがとうございます。
Vampire.S: それは良かった。また、何か面白いことを書かれたら、拝見できれば幸いです。
高橋: いえいえ。今回の主張が不分明であまり楽しませられなかったかもしれず、申し訳ない。
Vampire.S: というわけで、夜遅くまでおつきあい頂き本当にありがとうございました。
高橋: こちらこそ、ありがとうございました。
Vampire.S: なんか本チャットが役に立つようなら、自由に使ってやってください。
高橋: あ、了解です。
Vampire.S: それでは、おやすみなさい。
高橋: おやすみなさい。

*1:高橋志臣,2008,「仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する」(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080915/1221483369

*2:ここで述べられた「4R2」とは、『ルーンウォーズ』のメカニズムにおいて、現象の規模を表す為に20進法で記述される特殊な数値のこと。R1は20を、R2は40と、R3は60と等価であると見なし、端数をRの左側に記述する。こうすると、44は「R2+4」で「4R2」と記述できる。個人のアトリビュートはRではなく「w」(ないし「山」を用いる。5w1の「怪力」は、25の力を持つ怪力ということになる。)

*3:どうしてparameterという語を選んだのかというと、「母数がわかっている時に適用可能な、有限個数の変数を用いた検定」のことを、統計学用語でparametric testと呼ぶことから。一方で、母数を前提とできない検定のことをnon-parametric testと言う。TRPGにおいて、変数が定義されていない以上、尺度もその都度即席で当てはめていくしかないものは、non-parametricな設定情報である。名義尺度や順序尺度などでしか表されていない設定情報は、これに該当しやすい。ただし、ファンタジーRPGにおけるクラスなどは、実質「比例尺度で表現可能なパラメータのパッケージ」として分析可能であることが多く、名義尺度ではないこともしばしばである。

*4:Salen, Katie and Eric Zimmerman, 2004, Rules of Play: Game Design Fundamentals, Mit Pr.

*5:Fine, Gary Alan, 1983, Shared Fantasy: Role-Playing Games as Social Worlds, Chicago and London: The University of Chicago Press.

会話型RPG(TRPG)における〈プレイング〉の内実(改訂版)

はじめに――会話型RPGという手続きの基礎

 会話型RPGというゲームを、純粋に「手続き・やりとり」の観点から眺めた時、それは

 この2つの情報提示のサイクルによって進行するもの、と見なすことができます。
 そして、会話型ロールプレイング・ゲームにおける「プレイング」とは、ゲームマスターから提示される状況提示と、状況の描写のために運用されるゲームメカニズム(以下、単に「メカニズム」)を参照情報(references)としながら、プレーヤー自身(以下、単に「PL」)がプレーヤーキャラクター(以下、単に「PC」)の行動を逐次決定してゆくことです(=本記事における「プレイングの定義」)。
 このことを確認した上で、会話型RPGにおいて扱われる情報と「プレイング」の関係について、詳しく論じます。
 架空の状況についてコミュニケーションするのは、日常生活を送る私たちにとって、通常、大きな情報負荷を与えます。したがって、会話型RPGというゲームは、「架空の状況について想いを馳せることを楽しむ遊び」ではありません。もちろん、その要素はありますが、それだけでは、会話型RPGを特徴づける条件が足りていないことになります(「架空の状況について想いを馳せることを楽しむ遊び」というのは、会話型RPGの必要条件ではあるかもしれませんが、十分条件ではありません)。
 では、会話型RPGを会話型RPG足らしめている要素は、ほかになにがあるのでしょうか。
 ホビーの一種として定着したものとしての会話型RPGは、それがつらい作業ではなく、一時の娯楽(エンターテイメント)として成立するように、日常会話から抽出しうる二種類の情報を“抽象化”しています。それは、

  • 量的情報(quantitative information,あるいは「定量的情報」)
  • 質的情報(qualitative information,あるいは「定性的情報」)

 です。

量的情報とその設計――変数定義と行為判定(系)

 〈量的情報〉とは、ある架空の状況に、数値化可能な尺度を与えることによって、その世界に所属する要素の一部を「変数(parameter)」として扱えるよう抽象化した設定情報のことです。(=〈量的情報〉の定義)
 たとえば、世界でもっともメジャーな会話型RPGとされる『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)では、「筋力」「敏捷」「回避」「武器の強さ」といった、ファンタジー的世界の戦闘において考えうる要素を抽象化し、パラメータ化しています。D&Dでは「筋力:18」のキャラクターは、筋骨隆々とした剛腕の持ち主であり、「敏捷:07」の魔法使いはすばやさの点において劣っており、「武器の強さ:3d6」を持つキャラクターは、期待値10.5以上のダメージを敵に対して与えられる潜在能力(potential)を持っている、という風に解釈されます。
 しかし、なんとなく状況にありそうな要素を数値に置き換えたからといって、ゲームとして遊べるわけではありません。会話型RPGにおける数値付与が、単なる数字の羅列で終わらない為には、一貫した乱数処理のメカニズム、すなわち行為判定の系(system)が必要になります。D&Dでは、正20面体のサイコロ(ゲームデザイン用語で、「d20」と表記する)と、能力や技能に応じた修正値を足し合わせて、「必要な難易度以上の数値が出る」と、PCの行為は成功となります(これを「1d20による上方ロール」と言います)。その基準を満たさなければ、失敗です。こうした乱数処理をPCに対して与えるようなルールを実装すること・またはそのルールを、慣例で「(一般)行為判定」と呼びます(=〈行為判定〉の定義)

 つまり、会話型RPGにおける情報を抽象化する際、〈量的情報〉にするということは、

  • 「再現したい架空の状況の各要素を、有限個のパラメータ(変数)に置き換えられるよう、個々の変数を定義すること」(変数定義)
  • 「その定義された変数の組み合せによって、何らかの一般行為判定(=乱数処理の基本的な指針)ができるようなルールを提案すること」(行為判定)

 この2つの条件を同時に満たすような加工を行う、ということを意味します。変数があるだけではダメで、「行為判定系に放り込めるように調整されている変数」であることが、〈量的情報〉での条件です(100826Thu追記:普通の定量的情報、たとえば「村人の人数」とか「水利施設の数」などでは、ここで言うところの〈量的情報〉と呼ぶには不十分です。〈量的情報〉の条件的定義は、そうした数値化可能な情報よりさらに強い意味をもたせています)
 素朴な自然言語によって記述できる物語的描写を、“量的情報化”(それは同時に、“量化=抽象化”*1を意味します)することによって、会話型RPGは、遊び手にとって適度な知的刺激を提供する、テーブルゲームの一種として扱えるようになります。実際、会話型RPGと称して売られているルールブックの大半は、再現したい架空の状況に応じて、適切かつ構造的欠陥の少ない*2“量化=抽象化”を与え、それによってよりシンプルに「(物語的)状況の描写とその感覚の共有」を体験させることができるわけです。

質的情報とその設計――ギミック・マニュアルと、そのための世界記述の集まり

 しかし、会話型RPGのメカニズムは、量的情報だけで成り立つものというわけでもありません。一方で、〈質的情報〉というものがありうることも説明しましょう。
 会話型RPGには、「キャンペーン(campaign)」という言葉があります。これは、「同一のキャラクターや背景世界を用いて、会話型RPGを連続してプレイすること」というくらいの意味で使われています。そして、そのセッション(=会話型RPGにおいて、ひとまとまりのゲームを成立させること)の中で採用されるひとまとまりの世界とその設定のことを、「キャンペーン設定(campaign setting)」とか「背景世界(campaign world)」などと呼びます。そして、会話型RPGの書籍は、先ほど述べた〈量的情報〉とは別に、ほとんど自然言語(つまり散文)による記述が続く「キャンペーン・ガイド」「ワールド・ガイド」という種類の書籍が販売されます。時には、ゲームと関係なく“架空世界の博物誌”として読めてしまうような出来のものも、多く出版されてきました。
 こうしたキャンペーン・ワールドについての情報は、先ほど述べた量的情報ほどには、それほど“抽象化”とは関係ないように思われます。むしろ、考えずに済ませたい情報をむやみに増やしているのではないかとすら思われかねないところもあります。
 ところが会話型RPGでは、こうしたキャンペーン・セッティングについての情報を提供することも、情報処理の負荷を軽減する訳に立つのです。より精確に言えば、キャンペーン・セッティングは、現場のゲームデザインを担うゲームマスターにとっての情報処理を劇的に改善してくれるのです。
 会話型RPGにおけるゲームデザインの花形は、ゲームマスターが駆動・管理する「シナリオ」にあります。シナリオとは、プレーヤーの繰るPCたちが、おおむねどのような状況に置かれており、どのような人・モノ・事件とめぐりあい、どのような課題を解決するのか……といった、一連のゲーム的仕掛けを記した手続き書のことです(=「シナリオ」の定義)。なお、このシナリオのゲームデザイン的加工の面を強調する為、筆者は〈ギミック・マニュアル〉と呼んでいます(以後は「シナリオ」を指し示す語として、「ギミック・マニュアル」を用いることにします)。
 このギミック・マニュアルを設計するにあたって、先ほど述べた量的情報は、実のところ、それほど決定的な役割を持ちません。確かに量的情報は、特定の物語的状況で活躍するPCの行為を判定できる基準を提供してくれます。ところが、その基準だけでは、具体的な状況の描写には至りません。会話型RPGのギミック・マニュアルには、データだけでなく、パラメータの後ろの側で無数に動いている(と仮定される)、「自然言語によって表現可能な出来事の継起」もまた、沢山必要なのです。
 ファンタジー世界においてある課題が焦点化され、プレーヤーたちにその解決を求める時も、プレーヤーの繰るPCたちの回りには、“その世界における生活”が蠢いています(少なくとも、そのように仮定することが可能です)。現代のコンピュータAIであっても、その全てをそれらしくシミュレートすることはまだまだ困難であるとされています。ましてや、テーブルゲームの審判の一人でしかないゲームマスターに、その厳密な処理を委ねるのは、一種の拷問ですらあります。
 そんな要らぬ苦労をゲームマスターに負わせることがないよう、特定のゲームメカニズムで遊ばれる世界には、特定の(その判定系を適用することが想定された)キャンペーン・セッティングが商品として提供されていることが多いのです。

  • 「街aの人口は10000人余りである」
  • 「地域bの植生は以下のようである」
  • 「種族cのデータは、概ね以下のように数値化することがこの世界では一般的であるが、例外もある。部族単位で行動する場合の傾向は……」
  • 「魔法的次元dにおける魔力の移ろいはルールでも規定されているが、我々の住む世界における現象に引きつけて考えるなら、電話のアナロジーで理解するとよい:すなわち……」
  • 「悪らつな宗教カルトeと魔女狩り集団fは、どちらもその地域の住人からは嫌われているが、同時に反目しあってもいる。二組織の活動範囲は……」

 ……こうした情報のいずれかを、ギミックマニュアル設計時に適宜参照できるように編纂されていれば、ゲームマスターは毎週末までに安心してプレーヤー達にゲームを提供することができるようになります。処理すべき自然言語のデータ量が増えているように一見みえますが、実のところ、「ゲームマスターが自力で考え出さなければならない自然言語処理の量は劇的に減っている」のです。
 このようなわけで、会話型RPGにおけるゲームマスターとプレーヤーは、ゲームのプレイを通じて〈質的情報〉をも共有することになります。改めて質的情報とは何かを定義すれば、それは架空の状況・世界についての整合性の高い記述の束でありながら、同時にいつでも、その背景世界のために設計された特定の会話型RPGの変数定義・行為判定によってある程度まで表現・処理が可能なよう記述が工夫された、主に自然言語によって提供される情報のことになるでしょう(=〈質的情報〉の定義)

改めて、〈ロールプレイング〉とは何か?

 ここまで、会話型RPGの手続きと、それを観察する際のおおまかな道具立てについて説明してきました。
 まず、会話型RPGは、ゲームマスターと呼ばれるホスト役(アマチュアのゲームデザイナー兼審判役,GM)が、架空の状況で行動する人格(=プレーヤーキャラクター,PC)をそれぞれ管理するプレーヤーたちと質疑応答を重ねながら、ある特定の状況を共有・体験していく営みであることを述べました。
 そして、そうしたGMとPL間のやりとりは、「素朴な日常言語によって営まれる空想遊び」と規定するだけでは、(決して誤りとは言いきれないものの)かなりの不備があることを述べました。むしろ会話型RPGは、〈量的情報〉〈質的情報〉と僕が述べた“情報の抽象化”アプローチを利用することによって、架空の状況を処理する際の負荷を下げ、それによってより自発的・制度的に営める遊びであるということを確認してきました*3
 さて、会話型RPGにおいて、量的情報と質的情報の2つの抽象化手段があることによって何が嬉しいのでしょうか。筆者は、こうした基本的な理解が、会話型RPGにおけるベスト・プレイングを目指すための基本的な視座(=パースペクティヴ)として有効に機能すると考えています。

 筆者は、幾つかの先行するTRPG批評の見地を踏まえて、会話型RPGにおけるプレイングを、以下のように規定しています。

■会話型RPGにおける「プレイング」の四大目標

  • ギミック・マニュアルにおいて明示/暗示された課題・目標の解決に、少しでも近づくこと。(課題の解決)
  • 量的情報から考えられる最善の指し手を、プレーヤーたち全員で協力し、資源管理し、意思決定すること。(量的ロールプレイング)
  • 「課題の解決」や「量的ロールプレイング」と矛盾しない範囲で、キャンペーン・セッティングと矛盾しない「それらしい」行動基準を各々の担当PCに付与し、破綻のない行動をその都度考案すること。(質的ロールプレイング)
  • 以上三点の、しばしば矛盾しそうな課題を突破することによって、そのメカニズムデザイナー、ゲームマスター、プレーヤーたちが持ち寄った「ゲームの狙い」を、“ゲームデザイン”の観点から味わい、出来るだけ多くの楽しみを獲得・共有・拡張しようとすること。(共同ゲームデザイン

 この4点のうち、2つめと3つめに掲げられた目標が、どちらも「ロールプレイング」と呼ばれていることに留意してください。会話型RPGにおいて、「役割を分担しつつ目標をよりよく達成すること」(役割分担)と、「散文的記述によってあらかじめ定められた条件から逸脱せず、それらしい行動をPCにさせること」(キャラクターの行為描写)とは、どちらも平等に「プレイング」の課題であり、「ロールプレイング・ゲーム」の肝にあたる部分なのです。この“二重のロールプレイング”をバランスよく軽やかにこなす、ということがわかれば、実のところ会話型RPGは、ゲーム的にとても挑戦しがいのある要素を多く含んでいることが、よくみえてきます。
 量的ロールプレイングを理解する為には、ゲームメカニズムによって指示されたさまざまなルール、データへの理解と、仲間であるプレーヤー達の持ち寄る管理資源(resources)に対する知見や配慮が必要不可欠です。こうした情報は筆者が本論の前半で述べた〈量的情報〉そのものです。
 ゲームマスターのギミック・マニュアル設計のために必要な〈質的情報〉もまた、プレーヤーたちが自分のキャラクターをより魅力的な「行為の人」として構築してゆくために、役に立つものが多いでしょう。ゲームマスター独自の情報を咀嚼して、新しい設定を逆に提示してみせるというような行いは、そのキャンペーンでの楽しみをより増させるものとなるでしょう。

事例:『ウォーハンマーFRP』におけるプレイング・ワークフロー

 これまでの話を、筆者が参加した『ウォーハンマーFRP(第二版)』リプレイの第二回(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)を事例に、ワークフローの例を紹介します。
 実際には、これを数秒から数分の間考えて、どういう風にゲームマスターや他プレーヤーに伝えていくかを考えてゆきます。ですが、大事なのは順番に行うことではなく、先ほど述べた4つの目標を無理なく満たした発言ができているかということです。
 魔術師エックハルトが、家庭教師先の屋敷で標的を尾行しようとする際のプレイングです。この部分では“演技”(後述)も最後に付け加わっていますが、特に思いつかない場合は省いても何の問題もありません。

TRPGにおける〈プレイング〉の認知的プロセス─高橋によるエックハルト〈意志決定〉事例(改訂版)

  • 当座の目標を考える:「よし、エックハルトには、黄金の学府の連中を屋敷の中から探し出してもらおう。」
  • 〈課題の解決〉:「坊ちゃんをどうにか遠ざけて、なるべく隠密に情報を集める必要がある。」
  • 〈量的ロールプレイング〉:「エックハルトは〈姿隠し〉が得意だ。これを使って穏便に済ませよう。」
  • 〈質的ロールプレイング〉:「よし、お馬鹿な坊ちゃんをしごき倒して、自発的に部屋から逃がしてしまえば設定とも整合してなかなか面白い。我ながら酷いね。うんうん」
  • 〈共同ゲームデザイン〉:「ふだん貴族に言いように使われている魔術師が、ここぞとばかりにこそこそ屋敷の中を嗅ぎまわる。『オールドワールド』の世界らしい振る舞いだ」
  • 上記4点を考慮した〈意志決定〉の吟味
    • 〈葛藤〉:「バレたら命の危険があるかもしれないが、今ここで何もしないのも解決にならない」
    • 〈アカウンタリビティ〉:「行動の叙述については、〈質的ロールプレイング〉の内容をキッチリ伝えれば納得してもらえるはずだ」
    • 〈選択肢〉:「動くか、動かざるか」
    • 〈決断〉:「よし、考えたとおりに動こう」
  • 〈行動申請〉(必須):『エックハルトは坊ちゃんをしごき倒して、彼が逃げた隙に呪文を発動。屋敷の中にいるはずの黄金学府の者を探そうとするよ』
  • 口頭によるエックハルトの台詞描写(optional。効果的でない場合は特に必要ない):〈行動申請〉を終えた後、以下のような台詞をもっともらしく喋り、GMの反応を待つ。「エーデルライヒ坊ちゃま、唐突ですが今日は積分のお勉強を始めましょう*4
  • 〈ゲームマスター〉による裁定→「げー、幸運点を使ってもバレてしまった!(笑)」
  • 〈結果に対する責任〉:「パーティに巧く情報を伝えたいし、死にたくもない。ここは社交判定でとぼけるしかないぞ!」
  • (はじめに戻る)

 具体的にどんな流れでこのようなプレイングをしたかは、ぜひリプレイ本文に当たって頂ければと思います。

(この後、当時書いた補論は、趣旨が異なるため、別エントリに切り離しました。)

*1:何らかのありのままの情報を量的表現に移し替えるということは、それがどれだけ科学的な知見に基づいていたとしても、知識の加工・抽象化になる、と筆者は考えています。「ゲームデザインとは、畢竟抽象化である」という格言を目にしたこともありますが、これは現象の量化を考える際に、とても興味深いフレーズです。

*2:後述する質的情報の扱いづらさにより、多くのルールブックは、それが傑作か駄作かという評価を超えて、「完璧な状況描写」というものが難しくなっている。会話型RPGのメカニズム面での不足を埋めるのは、常にテーブル(=GMとPLによって構築される共同討議の場)である。そこまで加味すれば、「あらゆるルールブックには欠陥などありえない」という過激な主張も可能だろう。

*3:筆者は、会話型RPGのこうした営みの特徴を示すものとして「共同ゲームデザイン」や「イマジナリィ・ボードゲーム」と言った呼称を何度か提案してきた。さらには、Vampire.S氏によるポリシー/メカニズムの区別から、本論で述べた量的情報化と質的情報化、この2つの処理を施した架空のキャンペーン・セッティングに対する表現系のことを(ポリシーの期待する応答を実現するものとしての)「メカニズム」とも呼んでいる。メカニズムは、自然言語形式言語のどちらか一方で記述されるわけではなく、その雑駁な総合によって、会話型RPGにおける応答性を発揮している。

*4:リプレイには収録されていないが、このような発言をした。ちなみにエーデルライヒ坊ちゃんはとてつもなくおバカさんという設定。

『ヒーローウォーズ』を遊びました

 3年前から毎年一回のペースで開催している「東京ルーンクエスト会(略称:東京RQ会)」が今年もありました。
 今年は渋谷のカフェで提供している会議室スペースを借りて二卓、立ちました。Mongoose版RuneQuest 2nd Edition(mallionさんの紹介:http://d.hatena.ne.jp/mallion/20100709/p2 ,alley cat さんのMRQ2eレビュー:http://www.purple.dti.ne.jp/alley-cats/glorantha/mrq2/mrq2_00.html)と、『ヒーロー・ウォーズ』の二卓です。
 僕は『ヒーローウォーズ』の鮎方さんの卓に参加しました。現在RuneQuestの製品には、Mongoose版のRQ以外に、Issaries.Inc(=グレッグ・スタフォードによる版権会社)から版権を引き受け、Moon Design Publicationsによって制作されている HeroQuest 2nd Edition があります。今回遊んだ『ヒーローウォーズ』は、そのHQシリーズの最初の流れに位置するゲームです。日本語版は2001年11月30日に翻訳出版されました(翻訳チームは桂令夫&グレイ・ローズ)。HW・HQ系列のメカニズムは、BRP(Basic Roleplaying)ベースのRuneQuestよりもよりヒロイックな活躍ができるよう、パラメータの作り方がより自然言語の側に寄ったもので、今遊んでも新鮮なアイディアがたくさん含まれています。

ヒーローウォーズ―英雄戦争 (TRPG series)

ヒーローウォーズ―英雄戦争 (TRPG series)

 今回は、ナレーター(=HWにおける〈ゲームマスター〉)の鮎方さんが、10年前に制作したという詳細なキャラクター作成サマリーを頒布して下さり、最初の導入がとてもスムーズに進みました。特にこの鮎方さんのサマリーは、HWにおける各カルトの「相」と「下位カルト」をクロス・テーブルで整理するという方法を取っており、「そうか、こういう風にHWのキャラクター作成ルールを要約すればよかったのか!」と学ばせてもらいました。当時は主神格であるオーランスとアーナールダの2つについてのみを整理したということでしたが、これは複雑なグローランサ世界の下位カルトを一覧として提示する時にも有効だと思いました。

 ゲームとしては、オーランス(♂)ヴォガース(♂)、ミンリスター(♀)の三人が、集落を襲う集中豪雨を解決しに出向き、その旅先の森中で英雄的異界探索(hero quest)へ巻き込まれる……という話でした。
 僕は、酒造の神ミンリスターをアーナールダの下位カルトとして採って遊びました。グローランサ世界は基本的にローマ帝国など、中世より昔の欧州をモチーフにしている部分が多いイメージでいるのですが、このミンリスターの持っている《醸造》魔法の中には、《冷えたビール醸造》とか《酒蒸留》とか、「おいおい、それ19世紀までメジャーな酒造りじゃなかったじゃん!(笑)」*1 *2みたいな面白さを“信仰魔法”として楽しみました。
 数値システムとしては、[x山y]*3という20面ダイス処理の段階的スケールアップと、継続判定時のAP(アクション・ポイント)の削りあいという2つのメカニズムを楽しみました。
 HWからHQの流れは、個人的には、T&T*4以来久しぶりに登場した、海外発の「難易度単純化カニズム」と思っています。その日本での系譜は『Aの魔法陣*5や『Rune=Wars』*6(特にR=Wは直系)、『CuteSisterRPG』*7や『ファミリーズ!』*8などにも見られますが、その中でもHWというのはかなり色んな点で先駆けているなあという感想を新たにしました。
 HQ2と現在のHWがどういう点で異なっているかはまだよく解っていないのですが、今後も付きあってゆきたいTRPGシステムだなと感じました。
 グローランサおよびHW系列のシステム理解にブレイクスルーをもたらしてくれたGMの鮎方さんと、会の取りまとめを引き受けて下さった村雨さんに感謝です。

*1:解釈次第だが、筆者は「冷えたビール」という時、「下面発酵によるラガービール」を想像した。そして、ラガービールは、1840年代のチェコで生まれた。参考URL:http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/europe/german5.html

*2:蒸留酒自体は中世の頃から「ウシュク・ベーハー」と呼ばれるウイスキーの原型、また「アクアヴィテ」という蒸留薬草酒の原型が存在しており、蒸留技術自体は8世紀から15世紀のあいだに各地で発見されたと言われている。しかし、少なくともローマ時代には、スピリッツ一般にあたる技術が今のところ存在したという報告がない。

*3:「山」ないし「w」グローランサ世界のルーン文字の代替。「マスタリー」と呼ばれる

*4:『トンネルズ&トロールズ』は、あらゆる判定を「セービング・ロール(SR)」と「モンスター・レーティング(MR)」に、シナリオ課題の難易度を二元化していると見なすことができる。

*5:TRPG的な発想でデザインできるあらゆる課題を「難易度」と「成功要素」によって二元化したTRPGシステム。書籍『アルファシステムサーガ』(2004年,樹想社)の巻末付録として提示された。そののちにデザイナーの芝村裕吏による度重なるネット上でのサポート・ルール拡張の末、冒険企画局の河嶋淘一朗がディヴェロップメントに関わったことで、『Aの魔法陣 第三版』(2006.05.24,エンターブレイン)以降の現在のデザインが整った(2.5版以降と採る場合もありうる)。

*6:日本のRQユーザの一人であるVampire.Sが、HW・HQ系列のグローランサRPGの設計を見直し、数学的処理を厳密化したもの。日本で編まれた国内ハウスルールの一種と見ることもできるが、独自色が強く、イサリーズ社からフォークした別の設計思想のゲームであると捉えた方がわかりやすい。HW・HQにみられたような難易度単純化の根本思想が、マスタリー[x山y]の記法(事象の強度)にあると仮定した上で、「ルーン強度(記法:[xRy])」というルールを追加、20進法的にグローランサ世界の事象を記述し直した。用語集:http://www.dunharrow.org/pukiwiki/runewars/index.php?definitions

*7:「お兄ちゃん」を射止める「妹」達の争奪戦をテーマとした、2003年発表の同人TRPGシステム。表現される内容の過激さと共に、「お兄ちゃんのヒットポイント」を唯一の課題設定とした実装は、00年代の国産TRPGシステムを考える際に興味深い。先行する考察は伊藤悠,2006,「TRPGでの情報の展開/削りと埋め」(http://d.hatena.ne.jp/ityou/20061113

*8:浅川河畔スタジオが2010年夏のコミック・マーケットで発表した同人TRPGシステム。さまざまな形で主婦/夫業に従事する生活者をPCとする。「衣/食/住/外」の4つのスート(=トランプのマーク)が“奇跡的に”街の事件を解決する役に立ってしまうというメカニズムを有しており、あらゆるシナリオは、各スートの総和によって表される。PCの演じうる役割を絞り込み、難易度をトランプに四元化することによって、難易度一元化デザインの問題だった「ディティールの空白を埋める」という工夫が為されている。

WHリプレイ『魔力の風を追う者たち』第二回、Webで無料掲載

 一昨年にプレーヤーとして関わった『GAME JAPAN』誌上の『ウォーハンマーFRP(第二版)』の4ページリプレイの、第二回分がupされたそうです。エラッタ修正も反映されています。

http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html

 掲載当時の僕からの報告記事は、以下にまとまっています。

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080801/1217617808

個人的にこの連載は、岡和田さん独特のリプレイ編集スタイルが、“ちゃんとプレーヤーとして考えてる感”を拾ってくれていて、とても気に入っています。「君のやってるTRPGって何?」という時に、ひとまず薦めやすい佇まいになっています。まあ、一方で『ウォーハンマー』なので、グロテスクな展開があり、その辺は躊躇するところもあるのですが……(笑)。

 さて、この第二回の頃、「キャラクタープレイ」と絡めて記事を書きました。当時と主張内容は大してかわっていないのですが、今読むと文意が整理されきれておらず、くどい部分があるなと率直に感じます。
 2010年08月段階の語彙で言い直すとどうなるかということを、以下にリライトしておきます。WHリプレイの具体的な記述はばっさり消えてしまいましたが、構造的には以前より言いっぱなしになっていないと思います。

会話型RPGと演技に関するメモ:演技・immersion・LARP

 この文章は、「会話型RPGTRPG)におけるプレイングの内実」執筆時に書いた2つの補稿を、一度原文から切り離し、1つのエントリにまとめたものです。
 筆者の考える〈プレイング〉自体の話からは外れたもので、読者の混乱を招きかねないものだったため、別個に読んでもらえるよう分割しました。*1

会話型RPGにおける“演技”の実際について

 会話型RPGを紹介する際に大多数の方々に誤解されるのが、「でも、会話型RPGに参加するということは、(あまりやりたくない)演技をしなければならないのではないか?」ということです。
 実のところ、国産TRPGシステムを含めても、(それを禁止してはいないものの)「必ず(私たちが考えるような)演技・芝居をしなければならない」というようなメカニズムは、随分少なくなっています(少なくとも、ゲーム的な工夫もなく演技を“強要する”メカニズムは、市場からほぼ自然淘汰されたかたちです)。
 会話型RPGの基礎は、本論の前半部でも述べた通り、本来ことばや絵、映像などでも表現可能かもしれないものを、あえて「ゲームデザイン」という表現形式(art form)によって表現し、より簡単に複数人間で共同管理できるようにするという点にあります。そしてその中に、“演技”という評価基準の曖昧なものを数値化する要素は希薄です(どうしても人間のナマの思考が要ります)。なお、ここで言う“演技”とは、口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、というものです。会話型RPGにおいて、そうしたパフォーマンスは(演劇を知る者同士にとってさえも)必須のものとは思われてはいません。
 ただし、プレイの最中に、「直接話法で話した方が効率的である・感情移入を促進する・プレイの味付けとなる」というような理由で、台詞を代弁するということは、慣れたプレーヤーなら誰でもある程度は行います*2。しかしそれは、「身体的パフォーマンスを観客に見られている俳優」ほどには緊張感をもったものではありませんし、どちらかといえば“新作映画の企画会議における、脚本家チームの台詞提案”に近いものがあります。それくらいのフラットな感覚でなら、つい台詞っぽく提案することも、不自然ではありませんし、異性キャラクターの発言を代弁することもさほど問題ありません。「演技支援型のTRPG」と呼ばれるメカニズムも、どちらかといえばこの“提案”の妙味を中軸に据えていると考えた方が遊びやすいものが多いと思います。
 と、ここまで言ってしまえば、「会話型RPGにおける、巷説としての演技派」へのコメントは終わってしまいます。要するに、「会話型RPGの担い手は別に演技を取り立てて推奨することはないし、そのように見える商品も、実のところは狭義の“演技”的志向を持たずとも問題なく遊ぶことができる」。つまり、ゲーム文化としての“演技”は選択的(optional)であり、後はプレイグループの希望によってフィーチャーしてもいいし、しなくてもいい(そして大多数はそれを中核には据えなくなっている)、という言い方になります。
(さらに言えば、“演技”というものをかなり意図的に排除したゲームにおいてもなお、前節で述べた“二重のロールプレイング”は重要な位置を占めます。身体的テクニックによって表現される“演技”と、質的ロールプレイングとはまったく重ならない概念であり、そして“演技”の非・選択(not否定)が質的ロールプレイングの重要性に何ら影響を及ぼさないことは、強調してもしすぎるということはありません。)

GNS理論におけるimmersionの扱い

 ところが一方、学術的につっこんでいくと、そう単純な話でもないよ、ということも言えます。以下はその話もしておきましょう。
 「会話型を含めたRPGの本質は、自分ではないだれかになりきること、ひたすら対象に没入する(immersion)ことだ」という立場は、RPG成立移行、多くの場所で繰り返し主張されてきた立場のひとつです。それは会話型RPGに限った話だけでなく、コンピュータRPGMMORPG、さらにはライヴRPGといったあらゆるRPG文化の中で何度も採り上げられてきました*3
 海外のライヴRPGを論じたものの中に、「GNS理論」というものがあります。これは、海外のインディーズRPGデザイナーのRon Edwardsが論じたRPGゲーマーの分類論で、それぞれGamism, Narrativism, Situationismの頭文字を採ったものです。

 詳しい解説については、ひとまず英語版WikipediaのGNS理論(http://en.wikipedia.org/wiki/GNS_Theory)を見て戴くとして、なりきりというのは、実のところ「その世界の再現性・疑似体験性」をRPGにおいて追求しようとする、S=Situationismからも離れた、特に先鋭的な立場ではないかと思います。GNS理論それ自体は、これらのうちどれが最も正しいといった結論ありきの分類ではないのですが、「なりきり」という立場をはぴったりとどの派に属するということは言いきれません。
 ただ、ゲーム文化の全体から排除するような言説は、さすがに採れなくなっています*4。その事例として、日本ではあまり知られていないRPG研究の潮流を挙げておきましょう。ヨーロッパや北欧では、ライヴTRPGのホビー化が進んでおり、毎年欧州のどこかでライヴTRPGについての研究大会*5が開かれるほど、学術研究も盛んになっているそうです。その中で、immersionを至高とする学派が一時期「“なりきり派”宣言」とでも言うべき論文を提出し、一時期大きな勢力を保っていたそうです。ところが、最近は当初の過激路線を諦めてしまったようです。*6
「なりきり派」がなぜ転向してしまったのかについては、まだ英語論文*7を追跡していないのでわからないのですが、筆者が思うに、「何をもってうまくimmaseできたか」という判断基準が、この世には存在しないからじゃないか、と予測しています。「ここではないどこかの世界の誰かとどれだけ一体化できるか」という問いは、この世界にいる誰かが判定してもしょうがない。自分の感覚でわかっていくしかない。どこかで“合一体験”というか、世界各地の宗教に見られる神秘主義の一現象に思わぬところから踏み出しているという面があるかなとは思います。もちろん、そういう点で、なりきり、immersionを追求することは、文化的に深遠な側面があり、そこで(ライヴRPG含む)RPGゲーマーを惹きつけてやまないのかもしれません。
 ともあれ、「没入する」という形而上学的な目標に較べて、「面白いゲームデザインを目指す」や「みんなで面白い物語を構築・共有する」という課題は、まだしも議論として標準化しやすい部分があり、議論が進みやすいのも事実です。GNS理論の分類に優劣はないものの、「まあ、この辺は押さえといてもいいよね」的な、ポジティヴな議論の積み重ねは、ゲームデザイン論やプロット設計技術の応用がある程度先行していくというのが、順当な見方になると思います。世界をまるごと体験する・没入するという表現は、理論化するとしても、もっとその先の長期課題として検討されるべきなのでしょう。
 筆者が先ほど述べた「プレイング」の四大目標は、まだまだ議論の蓄積が必要なRPGデザイン論において、現時点での無難な落ち着きどころをさがしたものにもなっています。

immersionの魅力を再発見できる(かもしれない)ライヴRPG(LARP)とその新体性について

 Live Action Role-Playing(LARP)というジャンルが、北欧で学問的に研究されていたりするほどメジャーな娯楽として浸透しているという話があります。
 LARPは、会話型ロールプレイングゲームと基本的な部分で似通っているものの、「実際の身体を用いて歩き回ったり、まるでその世界の人物であるかのようになりきったりする」という部分をフィーチャーしているという点で、卓上ゲームとしてのTRPGとは異なる環境の前提があります。デジタルゲーム論の文脈でも、日常生活の空間にゲームを設計するAlternative Reality Game(ARG)、また拡張現実技術を利用したAugmented Reality Game(ARG)への注目が集まっています。LARPは、こうした点で、会話型RPGより強く「物理的空間において遊戯の場を設計すること」を志向しているジャンルのゲームと言えます。
 LARPのようなゲーム環境がもし整っているのであれば、先に述べたような「なりきり」の話は、まったく異なる意味を帯びてくるでしょう。実際、WoDはLARPのシステムとして用いられている例も少なくないようですし、また全身でコミュニケーションが十分に取れる(仮装も可能)な状況で、卓上ゲームの延長のような会話をするのは、メディアとしての身体を有効活用できていないということにもなるでしょう。
 惜しむらくは、LARPのような形式でのRPG受容が、(土地の制約か、演劇文化に対する見解のためか)未だに日本ではメジャーではないということです。LARPから「なりきり」の技法や運営論が語られる立場もあれば、今の「RPGにおける“演技”と、そのための精神的-身体的技巧」は、大きく変更を迫られることになるでしょう。そうした見地からのimmersionの展開は、僕のようなどちらかといえば保守的なゲーム論者にとっても、きわめて刺激的な議論になると思います。そうした論を持続的に展開させられる方が今後日本にも登場することを望みます。

*1:適切な提案を戴いたid:koutyalemonさんに感謝します。

*2:先に述べた4条件のどれも考慮に入れたプレイングを過不足なく満たして、初めて演技的な描写の挿入「味付け」として機能する。そして、そうした工夫は参加者全員を楽しませるだろう。過去の議論では“演技”は筋の悪いプレイと呼ぶものもあったが、それは誤りである。本当に筋の悪いプレイというのは、本論で述べた4条件や会話型RPGの仕組みを考えに入れず、ただ“演技”だけが会話型RPGの楽しさのうち至高のものであると決めつけてしまったプレイングのみである。本当に巧いプレイヤーほど、味付けとしての“演技”と、ゲームデザイン・物語的一貫性の両立とを過不足無くこなし、参加者を愉快にさせるものである。

*3:岩田宗之,2009,「MMORPGにおけるなりきり」http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/charaplay/charaplay/index.html,2009.09.26.),同「ロールプレイとなりきり」(http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/narikiri/narikiri/index.html,2009.09.26)

*4:90年代後半から00年代前半にかけてTRPG批評文を著した馬場秀和は、疑似体験の面白さを自らのRPG理論中に含みながらも、その一部の発言が、明らかにゆきすぎたなりきり派だけでなく、キャラクターの疑似体験感覚を楽しみとして見いだすnarrativist, situationistすらもまとめて排除する言説として取られてしまったことにより、多くの批判を受けた。こうした誤解の根本原因は、馬場が「遊び/ゲーム」二分論という、なおゲーム論全体で試行錯誤の続く二分論を素朴に展開してしまったこと、そのことによって「遊び」の多様性とボーダーラインケースをうまくRPG論に取り込むことができなかったこと、そして「そもそもゲームデザインという表現は、どのような表現を可能にしているのか」という議論を、コスティキャン由来のdecision-making以外の論において徹底して行わなかった事……などが原因として考えられるだろう。しかしいずれにせよ、現時点からフラットに読む限り、もはや議論の俎上に挙げるべき内容は(彼のリベラルな議論の作法についての提案以外では)多くの他著者の論文・考察によって代替できるようになっており、学説史的な扱い以外で言及することは少なくなっていると思われる。それでもなお採り上げるとすれば、彼がゲームマスターの作業において述べた三区分「システム選択/シナリオ作成/セッション運営」は、自律性を重んじる多くのゲームマスターたちにとって、未だなお論じるに足るアジェンダだろうか。

*5:Knudepunkt conferenceと言う。http://en.wikipedia.org/wiki/Knutepunkt 参照。

*6:このスカンジナビアでのライヴRPGについての情勢は、日本に調査滞在中のライプツィヒ大学院生であるBjoern-Ole Kammから示唆を受けた。

*7:大会の公用語は英語。PDFで読むことができる