戴いたコメント紹介
週末『モノトーン・ミュージアム』のセッションなので、そのシナリオ作成をやっています。
とはいえ、朝は余裕があるので軽く返信をば。
主に今月の22日(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822)に掲載した、複数の記事についての反応を返事しました。
主張を図解する(紅茶檸檬さん)
「〈プレイング〉の内実」での要約を、紅茶檸檬さんが整理してくれました。
http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20100826/p1
ありがとうございます。とてもわかりやすい整理だと思います。また、基本的にこういう発想から出発している、ひとまずの結論が「ロールプレイング・ゲームにおいては両方大事です!」という風になってることは、その通りだと思います。
この要約から漏れることも色々と考えてはいたのですが(たとえば、「かしこさ:16」で、これが行為判定との関連上「とても賢い」くらいの意味を持つのに、行為判定で関連するテストに失敗し続けた結果、「かしこいけど、おっちょこちょい」という設定が徐々に生成・共有されていくことになった……という場合の、量的/質的の越境はどういう風に起きているのか? など)、まずこういう図式を共有できてないと、何言ってるんだかさっぱりわからないですよね。不親切でした。
というか、僕の想定している発想って、その都度Keynoteとかで書いてここに貼り付けた方がいいんですかね……。
用語の定義について(鏡さん)
『RPG日本 卓上RPGを考える』の鏡さんからこんなコメントを戴きました。
「定義」の目的は、複数の者の間で、共通認識(コモンセンス、常識)を築くことにある、と私は考えます。何らかの議論(ディスカッション、意見交換)を行うなら、議論への参加者同士で。一緒に卓上RPGを遊ぶなら、その卓を囲む者同士で。同じ地域で生活するなら、住民同士で。ある定義を共有する者の集まりが、定義された内容の有効範囲となります。日本人にとっての常識(共通認識)が、外国人には必ずしも通じないように。
「定義」をこのように「定義」すれば、「定義」は誰もが自由に、独自の用語で決めてよい、ということになります。特に、自分の体験と考察から生まれた論考を述べる際には、その論旨とまったく同じ用語が既に無ければ、あるいは近いものはあってもその定義が不明瞭であれば、独自用語を作った方が、むしろ誤解を避けることができましょう。このように考えた上で、私もしばしば自分なりの独自用語を定義し、使っているのです。
もちろん、自分勝手な定義は避けるべし、という意見があることも承知しております。例えば学問の世界には、学派やら学閥やらがありますから、その中で既に共有されている認識に従わなくてはなりません。さもなくば、不毛な議論を生む、分かり難い、○○先生に逆らう気か、などと非難されてしまいますので。つまり、そういう者の集まりでは、「定義」の「定義」が違うわけです。
鏡,「定義は独自に決めてよい、という意見」(http://www.rpgjapan.com/kagami/2010/08/post-221.html)
ありがとうございます。
会話型RPGは、“少なくとも日本においては”学問としての用語の整理というものが全然進んでませんし、それを主宰するような代表も特にいません。
そうした状況では、「その語がどれだけネーミングとして適切か」というのは、各々独自に議論を組み立てようとする人にある程度委ねるしかありません。
また、語を定義する側(今回の私)も、それほど「定義した語の名辞それ自体」が大事だとは思っていません。そういうのは単なるタグです。僕が「(=○○の定義)」として書いたさまざまな記述は、人の好みによって○○の部分を入れ替えて言ってしまっても問題がないよう、十分内容をパラフレーズしたつもりです。
極端な話、〈量的情報〉がズンドコベロンチョ、〈質的情報〉がアッチョンブリケと言い直しても、まあ意味が伝わるようになるべく書いてるわけですね(そんな言い換えする人がいるかどうかはともかく)。そんな言い換えでも、パラフレーズした部分を参照すれば意味が通るように書いたわけです。頭の中で適宜ズンドコベロンチョとかアッチョンブリケとか置き換えて読んでみてください。そんなに破綻しないよう書いたつもりではあります(やらないか)。
その上で、「高橋のネーミングは問題だけれども、ここで定義された区分自体はなんとなく理解できなくもないので、別の言い方で応用してしまおう」ということをやっても、別に僕は何の問題もないと思います。もし僕が数ヶ月後に「あ、やっぱこういう言い方に換えた方が伝わりやすいかも」と換えた時に、指摘した側の労力自体がもったいなくなってしまうような、そういう程度のものだと思っています。それよりも、定義された方の(=定義語をパラフレーズした)記述がどの程度使えるか、その分類にどの程度の認識利得があるのか。その点を批判していただいた方が、よほど僕にとっても、それを読んだ人にとっても重要な指摘になるかと思います。
その上で、鏡さんも指摘されている通り、「村の人口とかが、行為判定とかと関係をもててないにしても量的データに含まれませんか」という指摘はその通りで、まだ配慮が足りなかったと思っています。僕が今回定義した〈量的情報〉は、行為判定と直接関連づけられた尺度をもつ情報でなければ〈量的情報〉にはならないんです(だから後でindexical dataとも言い換えた)。でも、それは「量的情報」というネーミングではあまりうまく伝わりませんね。
Vampire.Sさんとのチャットの中で、量的/質的はindexical/symbolicという言い方に置換するという提案もしていますが(これもタグづけみたいなもので、伝えたかった意味はほとんど変わっていない)、そちらの方がより適切かもしれません。これについては、また整理できたらお伝えしたいと思います。
「なりきり」には「パフォーマンス/没入」の二側面があって……(acceleratorさん)
一度切り分けた「なりきり」および「没入(immersion)」についてコメント戴きました。ありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100827/p1
これ、基本的には、僕もほぼ同じ意見を言ったと考えているんですよ。
ただ、「不必要性を強調した」という自覚はまったくないため、どういう風に伝わってしまったのか、というところで、僕のスタンスについての見解の相違があるのかなと、読んで思いました。
僕は“演技”(=口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、という行い)が、会話型RPGにおいて「不必要」では決してありえないからこそ「選択的」と言ったのであって、それは(「“演技”の非・選択(not否定)」というところにも留保がある通り)演技のパフォーマンスとしての効用を否定するものではないのです。
どちらかというと僕の記事は、「最初からそのプレイングができなくてもゲームは出来るのだから、無理に“演技”を意識して敷居をあげる必要はない」という立場に立って書いてます。さらにその前提には「“演技”まで意識して会話型RPGに参加するというのは、敷居の高いものである」という考えが前提にあります。そこには好悪の別はぜんぜんなく、単に「プレイングの課題としても複雑な構成をもっているのに、その上でウケ狙いまで意識するのは、最初はちょっと大変だよね」っていうくらいの話です。
さらに、「『直接話法で話した方が効率的である・感情移入を促進する・プレイの味付けとなる』というような理由で、台詞を代弁するということは、慣れたプレーヤーなら誰でもある程度は行います」と書いている通り、慣れた人のテクニックとして楽しめばいい、その上でなら相互評価もとても面白いものになる*1。
こういう風に穏当な、ある意味では「弱い」主張として最初から書いているつもりではあります。
その上で、
コミュニケーションの遊びなのにあんまり内没されると困るって事情から、なりきりを困った行為と捉えるむきがあるのは分かりますが、セッションで一番心に残ったのがあるパフォーマンスだったということもあると思うので、ポジティブな側面も併記して欲しいと思った次第です。
という件については、「『ウォーハンマー』のリプレイについてのワークフローを通じて、“演技”の効用についてある程度述べたつもりです」という風になります。実際、Web掲載のリプレイ(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)では、楽しくなりきってる(この場合、台詞を自分で考案してウケを取ろうとしている)部分も多々あるわけで、そういう点を参考にして頂ければと思います。
そもそも僕はなりきり“それ自体”が「困った側面」とは、今回の文中で一言も書いていませんし、そのような主張も廃しています*2。あくまで「なりきり」については「ベタに面白さを解析するのはむずかしい」ということをであって、それでも追求するのは長期的には価値がある、とすら述べています。さらに、ゲーム中に“演技”的な要素を取り入れても、それがより魅力的な提案・パフォーマンスとなるようなワークフローも書いています。ポジティヴな面については、『ウォーハンマー』のRPGリプレイに言及してすらいるわけで……これ以上何をすれば僕が「ポジティヴな面について語った」ことになるのか、ちょっと思案してしまいます。
*1:国産RPGで言えば、『天羅万象』や『異界戦記カオスフレア』は、そういう相互評価の曖昧性を、戦闘の資源管理ゲームと両立させつつうまく取り入れたメカニズムだと思ってます。
*2:これは何度でも言いますが、10年来「なりきり」が問題とされてきたのは、「なりきり」自体が悪いからではありません。「なりきり」を重視するあまり、ほかのゲーム的要素を運用から廃すると、会話型RPGにおいて楽しめるさまざまな要素がスポイルされる。この場合のみ、「なりきり」が問題となるだけです。そうした極端な状況を作らなければ、「なりきり」は問題なくRPGの楽しみの一つとなります。つまり、ゲーム全体の中で構造的に「なりきり」が有効に機能していれば、特に問題にはならないわけです。そして、「なりきり」のみを主軸とする必然性があるRPGシステムというものは、2010年現在、システムの指示通り運用する限り、それほど多くない。だいたいのシステムが、それ以外のさまざまな要素をも考慮しなければならないように出来ています。このことは、何度も確認してきたつもりです。その上で、訓練や評価が困難な要素であり、その巧拙を論じるには長期の視点が必要だということを述べたに留まります。これが「なりきり否定」となるでしょうか? 僕はそうは思っていません。むしろ僕は、「なりきり」のoptionalな面白さを常に担保する為にこそ、ゲームデザイン論による会話型RPGの基礎づけが重要だと考えているのです。