GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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会話型RPGと演技に関するメモ:演技・immersion・LARP

 この文章は、「会話型RPGTRPG)におけるプレイングの内実」執筆時に書いた2つの補稿を、一度原文から切り離し、1つのエントリにまとめたものです。
 筆者の考える〈プレイング〉自体の話からは外れたもので、読者の混乱を招きかねないものだったため、別個に読んでもらえるよう分割しました。*1

会話型RPGにおける“演技”の実際について

 会話型RPGを紹介する際に大多数の方々に誤解されるのが、「でも、会話型RPGに参加するということは、(あまりやりたくない)演技をしなければならないのではないか?」ということです。
 実のところ、国産TRPGシステムを含めても、(それを禁止してはいないものの)「必ず(私たちが考えるような)演技・芝居をしなければならない」というようなメカニズムは、随分少なくなっています(少なくとも、ゲーム的な工夫もなく演技を“強要する”メカニズムは、市場からほぼ自然淘汰されたかたちです)。
 会話型RPGの基礎は、本論の前半部でも述べた通り、本来ことばや絵、映像などでも表現可能かもしれないものを、あえて「ゲームデザイン」という表現形式(art form)によって表現し、より簡単に複数人間で共同管理できるようにするという点にあります。そしてその中に、“演技”という評価基準の曖昧なものを数値化する要素は希薄です(どうしても人間のナマの思考が要ります)。なお、ここで言う“演技”とは、口頭で何かを言うというもの以上の、全身でパフォーマンスして、何らかの「表現」に値するものを観客に見せる、というものです。会話型RPGにおいて、そうしたパフォーマンスは(演劇を知る者同士にとってさえも)必須のものとは思われてはいません。
 ただし、プレイの最中に、「直接話法で話した方が効率的である・感情移入を促進する・プレイの味付けとなる」というような理由で、台詞を代弁するということは、慣れたプレーヤーなら誰でもある程度は行います*2。しかしそれは、「身体的パフォーマンスを観客に見られている俳優」ほどには緊張感をもったものではありませんし、どちらかといえば“新作映画の企画会議における、脚本家チームの台詞提案”に近いものがあります。それくらいのフラットな感覚でなら、つい台詞っぽく提案することも、不自然ではありませんし、異性キャラクターの発言を代弁することもさほど問題ありません。「演技支援型のTRPG」と呼ばれるメカニズムも、どちらかといえばこの“提案”の妙味を中軸に据えていると考えた方が遊びやすいものが多いと思います。
 と、ここまで言ってしまえば、「会話型RPGにおける、巷説としての演技派」へのコメントは終わってしまいます。要するに、「会話型RPGの担い手は別に演技を取り立てて推奨することはないし、そのように見える商品も、実のところは狭義の“演技”的志向を持たずとも問題なく遊ぶことができる」。つまり、ゲーム文化としての“演技”は選択的(optional)であり、後はプレイグループの希望によってフィーチャーしてもいいし、しなくてもいい(そして大多数はそれを中核には据えなくなっている)、という言い方になります。
(さらに言えば、“演技”というものをかなり意図的に排除したゲームにおいてもなお、前節で述べた“二重のロールプレイング”は重要な位置を占めます。身体的テクニックによって表現される“演技”と、質的ロールプレイングとはまったく重ならない概念であり、そして“演技”の非・選択(not否定)が質的ロールプレイングの重要性に何ら影響を及ぼさないことは、強調してもしすぎるということはありません。)

GNS理論におけるimmersionの扱い

 ところが一方、学術的につっこんでいくと、そう単純な話でもないよ、ということも言えます。以下はその話もしておきましょう。
 「会話型を含めたRPGの本質は、自分ではないだれかになりきること、ひたすら対象に没入する(immersion)ことだ」という立場は、RPG成立移行、多くの場所で繰り返し主張されてきた立場のひとつです。それは会話型RPGに限った話だけでなく、コンピュータRPGMMORPG、さらにはライヴRPGといったあらゆるRPG文化の中で何度も採り上げられてきました*3
 海外のライヴRPGを論じたものの中に、「GNS理論」というものがあります。これは、海外のインディーズRPGデザイナーのRon Edwardsが論じたRPGゲーマーの分類論で、それぞれGamism, Narrativism, Situationismの頭文字を採ったものです。

 詳しい解説については、ひとまず英語版WikipediaのGNS理論(http://en.wikipedia.org/wiki/GNS_Theory)を見て戴くとして、なりきりというのは、実のところ「その世界の再現性・疑似体験性」をRPGにおいて追求しようとする、S=Situationismからも離れた、特に先鋭的な立場ではないかと思います。GNS理論それ自体は、これらのうちどれが最も正しいといった結論ありきの分類ではないのですが、「なりきり」という立場をはぴったりとどの派に属するということは言いきれません。
 ただ、ゲーム文化の全体から排除するような言説は、さすがに採れなくなっています*4。その事例として、日本ではあまり知られていないRPG研究の潮流を挙げておきましょう。ヨーロッパや北欧では、ライヴTRPGのホビー化が進んでおり、毎年欧州のどこかでライヴTRPGについての研究大会*5が開かれるほど、学術研究も盛んになっているそうです。その中で、immersionを至高とする学派が一時期「“なりきり派”宣言」とでも言うべき論文を提出し、一時期大きな勢力を保っていたそうです。ところが、最近は当初の過激路線を諦めてしまったようです。*6
「なりきり派」がなぜ転向してしまったのかについては、まだ英語論文*7を追跡していないのでわからないのですが、筆者が思うに、「何をもってうまくimmaseできたか」という判断基準が、この世には存在しないからじゃないか、と予測しています。「ここではないどこかの世界の誰かとどれだけ一体化できるか」という問いは、この世界にいる誰かが判定してもしょうがない。自分の感覚でわかっていくしかない。どこかで“合一体験”というか、世界各地の宗教に見られる神秘主義の一現象に思わぬところから踏み出しているという面があるかなとは思います。もちろん、そういう点で、なりきり、immersionを追求することは、文化的に深遠な側面があり、そこで(ライヴRPG含む)RPGゲーマーを惹きつけてやまないのかもしれません。
 ともあれ、「没入する」という形而上学的な目標に較べて、「面白いゲームデザインを目指す」や「みんなで面白い物語を構築・共有する」という課題は、まだしも議論として標準化しやすい部分があり、議論が進みやすいのも事実です。GNS理論の分類に優劣はないものの、「まあ、この辺は押さえといてもいいよね」的な、ポジティヴな議論の積み重ねは、ゲームデザイン論やプロット設計技術の応用がある程度先行していくというのが、順当な見方になると思います。世界をまるごと体験する・没入するという表現は、理論化するとしても、もっとその先の長期課題として検討されるべきなのでしょう。
 筆者が先ほど述べた「プレイング」の四大目標は、まだまだ議論の蓄積が必要なRPGデザイン論において、現時点での無難な落ち着きどころをさがしたものにもなっています。

immersionの魅力を再発見できる(かもしれない)ライヴRPG(LARP)とその新体性について

 Live Action Role-Playing(LARP)というジャンルが、北欧で学問的に研究されていたりするほどメジャーな娯楽として浸透しているという話があります。
 LARPは、会話型ロールプレイングゲームと基本的な部分で似通っているものの、「実際の身体を用いて歩き回ったり、まるでその世界の人物であるかのようになりきったりする」という部分をフィーチャーしているという点で、卓上ゲームとしてのTRPGとは異なる環境の前提があります。デジタルゲーム論の文脈でも、日常生活の空間にゲームを設計するAlternative Reality Game(ARG)、また拡張現実技術を利用したAugmented Reality Game(ARG)への注目が集まっています。LARPは、こうした点で、会話型RPGより強く「物理的空間において遊戯の場を設計すること」を志向しているジャンルのゲームと言えます。
 LARPのようなゲーム環境がもし整っているのであれば、先に述べたような「なりきり」の話は、まったく異なる意味を帯びてくるでしょう。実際、WoDはLARPのシステムとして用いられている例も少なくないようですし、また全身でコミュニケーションが十分に取れる(仮装も可能)な状況で、卓上ゲームの延長のような会話をするのは、メディアとしての身体を有効活用できていないということにもなるでしょう。
 惜しむらくは、LARPのような形式でのRPG受容が、(土地の制約か、演劇文化に対する見解のためか)未だに日本ではメジャーではないということです。LARPから「なりきり」の技法や運営論が語られる立場もあれば、今の「RPGにおける“演技”と、そのための精神的-身体的技巧」は、大きく変更を迫られることになるでしょう。そうした見地からのimmersionの展開は、僕のようなどちらかといえば保守的なゲーム論者にとっても、きわめて刺激的な議論になると思います。そうした論を持続的に展開させられる方が今後日本にも登場することを望みます。

*1:適切な提案を戴いたid:koutyalemonさんに感謝します。

*2:先に述べた4条件のどれも考慮に入れたプレイングを過不足なく満たして、初めて演技的な描写の挿入「味付け」として機能する。そして、そうした工夫は参加者全員を楽しませるだろう。過去の議論では“演技”は筋の悪いプレイと呼ぶものもあったが、それは誤りである。本当に筋の悪いプレイというのは、本論で述べた4条件や会話型RPGの仕組みを考えに入れず、ただ“演技”だけが会話型RPGの楽しさのうち至高のものであると決めつけてしまったプレイングのみである。本当に巧いプレイヤーほど、味付けとしての“演技”と、ゲームデザイン・物語的一貫性の両立とを過不足無くこなし、参加者を愉快にさせるものである。

*3:岩田宗之,2009,「MMORPGにおけるなりきり」http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/charaplay/charaplay/index.html,2009.09.26.),同「ロールプレイとなりきり」(http://iwatam-server.sakura.ne.jp/game/narikiri/narikiri/index.html,2009.09.26)

*4:90年代後半から00年代前半にかけてTRPG批評文を著した馬場秀和は、疑似体験の面白さを自らのRPG理論中に含みながらも、その一部の発言が、明らかにゆきすぎたなりきり派だけでなく、キャラクターの疑似体験感覚を楽しみとして見いだすnarrativist, situationistすらもまとめて排除する言説として取られてしまったことにより、多くの批判を受けた。こうした誤解の根本原因は、馬場が「遊び/ゲーム」二分論という、なおゲーム論全体で試行錯誤の続く二分論を素朴に展開してしまったこと、そのことによって「遊び」の多様性とボーダーラインケースをうまくRPG論に取り込むことができなかったこと、そして「そもそもゲームデザインという表現は、どのような表現を可能にしているのか」という議論を、コスティキャン由来のdecision-making以外の論において徹底して行わなかった事……などが原因として考えられるだろう。しかしいずれにせよ、現時点からフラットに読む限り、もはや議論の俎上に挙げるべき内容は(彼のリベラルな議論の作法についての提案以外では)多くの他著者の論文・考察によって代替できるようになっており、学説史的な扱い以外で言及することは少なくなっていると思われる。それでもなお採り上げるとすれば、彼がゲームマスターの作業において述べた三区分「システム選択/シナリオ作成/セッション運営」は、自律性を重んじる多くのゲームマスターたちにとって、未だなお論じるに足るアジェンダだろうか。

*5:Knudepunkt conferenceと言う。http://en.wikipedia.org/wiki/Knutepunkt 参照。

*6:このスカンジナビアでのライヴRPGについての情勢は、日本に調査滞在中のライプツィヒ大学院生であるBjoern-Ole Kammから示唆を受けた。

*7:大会の公用語は英語。PDFで読むことができる