取り急ぎコメント――国内TRPG論のほとんどは、“他分野の”学問にはなっていないし、目指す必要もない件
回転翼さんのエントリについて、語に致命的な問題があると思いましたので、取り急ぎコメントします。
結果として、日本において語られるロールプレイはロールプレイ社会学の研究論であり、ゲームシステムではなくなりました。ロールプレイ論の用途はゲームのためではなく、アカデミズムへの立場からTRPGを研究しようする教養人、ヲタクのために使われるようになりました。
(回転翼2009)*1
ここの話が、主張としてはわからんでもないのですが、そこで使われる語彙が盛大に間違っている、というのが今回の話。
まず、重要なこと。心理学や社会学の語彙が引用されたからと言って、すぐさま「その文章自体が心理学や社会学に資するような文章になる」とは限りません。もし、TRPGの問題について書かれた文章が「TRPG論」であり、それ以外ではないことを自認して書かれているなら何の問題もないのですが、ちょっとばかしアカデミックな言葉を持ち込んだだけで「その専門分野の学問にも貢献する論文」が書けると考える人がいたら、それは思い上がりというものです。それこそ回転翼さんが常々指摘し論難する「教養人きどり」の陥りがちな誤謬の一つです。そしてそういう誤謬は、本当にその分野の研究に従事している人からみれば、簡単に区別がついてしまうようなレベルのものです。
少なくとも私が知る限り、TRPGを論じる言説において、少なくとも日本の“オンラインで読める、日本語の文章”において「TRPGの社会学」「TRPGの心理学」と呼べるような文章は(私の文章含めて)ほぼ存在しません。回転翼さんが取り上げた私のまとめ記事についても同様です。あれらはTRPG論としては価値があるかもしれませんが、社会科学的な価値はきわめて希薄です。
どうしてそんなことが断言できるのか? それらの文章はどれも、あくまで「TRPGの問題を解決するために書かれた文章」すなわち「TRPG論」であることは自明だからです。「社会学の文脈で問題になっている困難」「心理学において解決されなければならない難問」を解決するためにTRPGという現象を観察対象として取り上げた文章ではない。それを「〜〜学」と呼ぶに足るだけの、学問的な文脈がまったく欠けているのです。
回転翼さんの基本的な主張である「ロールプレイはあくまでもゲームプレイの中から生まれたゲームシステムの一種」には私も賛同しますけれども、その際論じられる「ロールプレイ社会学」というものは――何度も繰り返しますが――基本的に“オンラインで読める、日本語の文章”にはほとんどありません。それらはあくまで「TRPG論」であり、何か他の「〜〜学」と呼べるようなものには全然なっていないし、そもそもその方向を志向しているようには読めません。
もし、「ロールプレイ社会学」というものがあるのだとすれば、以下の本があります。
Shared Fantasy: Role-Playing Games as Social Worlds
- 作者: Gary Alan Fine
- 出版社/メーカー: University Of Chicago Press
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これは、80年代TRPGという歴史現象を扱いながら、その実まったくTRPGの問題を解決するわけではない論文です。「ミクロ社会学」あるいは「シンボリック相互作用論」と呼ばれる社会学的文脈における問題を論じるために、いわばアメリカTRPG文化がダシとして使われたものです。
せいぜいこういう数少ない事例でしか、TRPGは「社会学の題材」として使われていないのであって、たとえば私の一連の活動も、TRPGに関して言えば、全然「社会学」ではないと考えていることは、仮にも社会学を学んでいる人間として確認させていただきたいところです。
私が「社会学のための文章」と「TRPG論・TRPG批評のための文章」を、このBlogでなんとなく、あるいは意図的に混ぜて投稿していることがいけないのかもしれませんが、そんな私ですら、「TRPGの社会学」とか「ロールプレイの社会学」とか、そんなグロテスクなジャンルが現在の国内TRPG論において観察できるとは思っていないのです。私が「社会学的アプローチからTRPGを考える」という時、やっているのは社会学ではなく、TRPG論なのです。そう言い切れるのも、私がそこで取り上げている問題の文脈が社会学にとっては無価値であるが、TRPGにおいては一定の価値がある、ということがしばしばありうるからです。
そして仮に、将来「TRPGを用いた社会学的論文」というものがWeb上に続々出てきたとしても、それが「TRPGゲーマーの疑問に答えてくれるような知的蓄積」と混同することは、私は決してしないでしょう。なぜならそれは、そもそも書かれた段階において「解決すべき問題の文脈」がまるで異なるからです。
もっとも、私が紹介した文章の多くが「迂遠」で「アカデミックな志向」*2を持っているという批判については、そうなのではないかと思います。それが今回の回転翼さんの論旨であるなら、それは私も頷くところでしょう。確かに長いし、読みにくいかもしれないです。その指摘は「ぜんぜんオッケー」であり、私が回転翼さんのBlog読者として面白いと感じるポイントの一つです。
しかし、単にそれは「アカデミックな言説を導入したTRPG論の迂遠さ」でしかありません。それがいきなり「社会学」とか「心理学」とか「演劇論」になるわけではない(そもそもTRPGは、よっぽど巧く論じない限り、そういう他分野の問題を解決するような知見を与えてくれるようなもんではない。それは回転翼さんが長年考えた結果、よくご存じのはずです)、そこはぜひ批判する際にもご理解いただきたいと思います。
*1:回転翼,2009,「飛行機から空を飛びたい発想を知る――日米ロールプレイの出発点」(http://ugatsumono.seesaa.net/article/114620082.html,2009.02.21).
*2:しかし、この場合も何らかの既存の「学」が保持してきた課題意識に拠っているわけではない。あくまでTRPGの内側の課題意識であり、その文脈は論者それぞれが設定している。決して、研究者コミュニティが支えてきた何か素晴らしい課題を解決しようとしてTRPGを論じたものではない。