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筑波批評社への檄文――あるいは〈批評〉をめぐる私個人の立場の整理

ビアンカ・オーバースタディ』を文学部の唯野教授が批評的文脈で論じて、それが読者の批判的な読みを見事に封殺・殺害しているような短編小説を心から待望しているggincこと高橋志臣です、どうもこんにちは。

「可愛い女の子に手コキしてもらいたい」という、男子のささやかな欲望を「秘すれば花」どころかまんまポルノにしてしまった巨匠・筒井康隆氏が、一体これからどんな凄いものを見せてくれるのか、今後に期待です。福嶋亮大氏の中国文学論や東浩紀『動ポモ』の、本人によるしつこいくらいの自著要約*1が冴えわたる最新号『ファウスト』、おすすめですよ。

ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER) (7) (講談社MOOK) (講談社 Mook)

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文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

 それはさておき、こないだ筑波批評社のところに遊びに行きました。彼らは先日、今年批評論壇の一部で話題になっているゼロアカ道場道場破りとして参戦することを表明したわけですが、これに対する反応としては、ここ(福嶋亮大氏)とかここ(フランス乞食)で熱いエールが送られており、なんだ下手すっと正規門下生よりスター性あるんじゃないの、とニヨニヨしつつ楽しく観戦させてもらっています。*2

 彼らは一年前から「文学フリマ」で批評同人を刊行し、それぞれに興味深い批評テキストを発表しています。彼らを見るたび、一人で細々とアナログゲーム批評をしている私などは「いいなあ、自分にも文責を守って一緒に戦ってくれるようなアナログゲーム批評家が居てくれたらなあ」と思ったりする時があります。そんな中で哲学、社会学、経済学など、ディシプリンがそれぞれ異なる男子大学生同士が、毎回ダラダラガヤガヤと(しかし〆るところはきっちり〆て知的に)批評をし合う姿は、思想や哲学にハマった(人によっては、今でもハマり続けている)文化系男子にとって、つい応援してしまいたくなるような魅力を持っていると思います。

 彼らのいいところはなにより、「文芸批評とは本来こんなに楽しいものなんだよ」ということを全身で体現してくれることです。筑波USTではid:sakstyle, id:klov, id:Muichkineの3名が大接戦を繰り広げましたが(「ラジオ・サヴァイブ」でその様子を見ることができます)、彼らは毎回非常に楽しく批評をやっている。批評、ないし文芸批評と聞くと、まるで不必要に小難しいことを考えているだけの連中、という想像をさせるし、実際その通りにしかめっ面で作業をしているように見える人が多いわけですが、そうした禁欲的な悦楽みたいな、常人には理解できなさそうなものだけが批評ではない、ということを改めて思い起こさせてくれます。

 また、批評というと、「単に好きなものをオタク的に擁護するだけの遊びじゃないの」ということになりかねないわけですが、少なくとも彼らはそういう隘路に陥った批評を書くつもりはないようです。

 この「隘路」については、私も常々思うところがあるので、私個人の力量を棚上げしつつ(※ここ重要※)、もう少し詳しく説明しましょう。

1.〈批評〉と〈感想文〉の違い――自分の言葉に〈責任〉をもつということ

 先日、SF作家の伊藤計劃氏が、面白い映画批評とそうでない映画批評を分かつ基準について述べていましたが、その中で、こんな発言がありました。

「浅い」文章を書くなとは申しませんが、「浅い」文章を書く人っていうのは本当にちゃんと映画を見ていたのか、って疑念も勿論出てくるわけです。「深い/浅い」っていうのは褒め言葉にしてもけなし言葉にしても映画の側に責任を渡す言葉なので、それよりは「おれはこう思った」のほうがよっぽど責任の所在が明確なわけです。「浅い」文章が駄目なのは、自分が何事かを書いて公衆に晒す、という点から全力で逃げているからなのですね。実は映画とは関係ないところでダメダメなのです。
伊藤計劃,2008「信用してはならない映画評の書き手の見分け方」『伊藤計劃:第弐位相』
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20080804#p1

 ここに〈責任〉という言葉が出てくるのが、とても興味深いのですね。佐藤亜紀氏によるこの文章のフォローも、ラディカルで興味深いのですが、それはさておき。
 ここでいう責任とはつまり、自分が主張した内容を批判されることから逃げない、ということです。*3伊藤氏の余談2の部分は、「一億総批評家時代」などと言われる現代にあって、〈感想文〉と〈批評〉の区別をつけないで、都合よく主張だけ通してほしい(批判と非難の区別が付かない)人が多いことに、率直な苛立ちを表明したものでしょう。

 言うまでもありませんが、〈感想文〉を書くことが悪いわけではありません。むしろ、ある作品について言及された9割9分の文章は〈感想文〉で別に構わないと私は思います。

 しかし、〈批評〉というものは、そういうもんじゃないということ、そして〈感想文〉しか書く気のない人は、そうでない〈批評〉というスタンスがありうることを、皆さんには覚えておいて頂きたいのです。

 貴方のことばが〈批評〉としての資格を失うとは、どういうことか。「ああ、あなたの意見はわかりました。しかし、それはあなたと、あなたの愛を偶然理解する人以外の誰にも、届きませんね」。これを承認する、ということです。*4

 伊藤氏が補足しているとおり、法律で罰せられるわけじゃないのですから、私たちは別に自分の言葉を〈批評〉として維持する努力から別に逃げてもぜんぜん構いません。やりたいか、やりたくないかの簡単な二者択一です。どうぞご自由に逃げてください。

 しかし、逃げてしまった以上、それは〈批評〉としての資格を失い、単なる愛好者にしか通じない“馴れ合い”以上のことばにしかならないことだけは、理解しておかなければなりません。
 以上のことを踏まえて言うのであれば、あなたが少しでも「自分のことばが他人に届かないのはイヤだなあ」と思うなら、あなたはリングから降りてはいけないのです。自分のことばを守るために、戦わなければなりません。そして、戦うために、より効果的な言い方、伝え方を学び続けなければなりません。それが〈責任〉を取るということだと、私は考えています。

 いくら文章が華麗だろうと、いくら雑学にあふれていようと、こんな「立論の基礎」すら踏まえていない「自称レビュアー」「自称批評家」「自称(批評のできる)プロ作家」「自称研究者」(まあ、研究者が批評する必要はべつにないんですが)は、どこの業界に限らず、非常に多い。それは、〈感想文〉だらけの世界に対する〈批評〉というものの存在意義を考え直すと、なかなか困ったことだぞ、と思います。*5

 ともあれ、どんなジャンルにも技量の巧拙があるように、〈批評〉にもまた一定の条件や巧拙があります。明確にあるのです。そしてまず、本当に他人に伝えたい言葉を少しでも紡ぎたいというのなら、まずそうした〈感想文〉と〈批評〉を混同したまま、自分の言葉が誉めそやされることを淡く期待しつつ、一方で少しでも論難されることにマジギレするようなダブルスタンダードな態度を、プロだろうとアマだろうと、はっきり無恥だと認める必要があるでしょう。

 このような私の批評観から再び筑波批評社の面々について紹介すると、まずこうした意味での〈批評〉に、彼らははっきり敬意を抱いています。なぜなら、彼らは(個々人に意識の差はありますが)自分の好きな作品語りにとどまらない、“一般化できるものの観方”を提出することにこそ、価値を見出しているからです。私はこの志向を現役大学生(最高でも学部4年生)の時点でかなり明確に保持していることを、彼ら批評社の最大の強みであると思っています。

 私が〈批評〉という行為を尊敬できているのは、まさに私が〈批評〉という行為を上のように捉えているからです。そして、そのような〈批評〉の片鱗を感じさせてくれる筑波批評社は、単なる「自分語り」や「インテリの積み木遊び」や「好きなもの/オタク的嗜好の擁護」で終わらせないだろう、という期待をさせてくれる集団なのです。

2.〈プラグイン批評〉に留まらない、広がりのある批評

 くどいようですが、批評というのは、ともすれば「単なる好きな作品語り」で終わってしまいかねないものです。それは美少女ゲームでもロリコン漫画でも純文学でもTRPGでも――まあなんでもいいのですが――「自分が好きなものであり、それは他の何かと比べて特殊であり、したがって価値があるに違いない」などという素朴な信念によってしか共有できない(したがってそうした界隈でしか読まれないし、消費されない)ような、閉鎖的なことばであることが多いです。特に、アマチュア批評と呼ばれるものの大半はそうでしょう。
 私はこういう批評を最近「プラグイン批評」と呼んでいます。べつにテクニカルタームにするようなものでもないので、今からする話は、喩え話、戯言の類として受け取ってください。
 世の中には、特定のPCの特定のアプリケーションでのみ極めて有効に機能する追加機能(プラグイン)というものがあります。たとえば私はFireFoxAutoPagerizeを絶賛するに至りましたが、世の中にはFireFoxどころか、ウェブブラウザの使用感に明確な優劣があるということすら信用しない/知らない/関心のない人さえ居ます。もちろんそんなの個人の勝手で、特にとりたてて他人に押し付けるようなレベルのものではありません。

 それと似たようなもので、批評と呼ばれるような文章の中にも、たとえばジョジョシリーズ全巻を読んだ人にわかる批評とか、ひたすらガンダムについて詳しい人間だけが感動し賞賛できるような批評とか、D&Dを金箱まで遊びこんだ人にしか熟読玩味できない批評文というものがありうるわけですね(わからないですね、すみません)。

 それは、その批評が分かる彼ら同士にとっては、大変有用です。それは間違いありません。しかし、そのコミュニティの外部に訴えかける力を持っているのか? その批評で使われた理屈は、ほかの体験(文芸作品の受容も、体験の一種であり、社会的行為の一つです)を論じる時にも有用な切り口なのか? その批評文は、一部のマニアックな共同体でしか読まれ消費されて埋もれていくような、その程度のものではないか? こうした疑問に答えられているわけではなく、そもそも答える必然性を感じない批評というのが、世の中の「○○批評」と呼ばれるものの大半であると私は思っています(私もその例外ではなく、私がTRPGや文芸について論じたほとんどの批評文は「プラグイン批評」を抜け出ていません)。

 そうではなく、批評の本領が発揮されるのは、もっと別のところにあると私は考えています。私たちが、論理的明晰さだけでは捉えきれない、倫理や美的判断といった「価値」に関わる問題をどう解決すればいいのか、という問題を考える上で、批評は単なる「プラグイン批評」とはまた別の役割を担います。9.11事件を解釈するのと『崖の上のポニョ』を解釈するのは、ベタに観れば確かに全然違うことです。しかし、「提示 (present)され表象(represent)されているそれをどう受容するか」という次元で観れば、実は「体験を解釈する」という、まったく同じことをやっていることになります。(とはいっても、文芸で安易な社会批評をやることは正しい、ということを言っているわけではありません。むしろそういうやり方にこだわっている批評にはお粗末なものが多いです。ここではあくまで、「解釈するための枠組みを探るというのは、どんな種類の体験についても難しい問題である」ということを言っています)。

 「わたし」が「対象」をどう価値付けるか。「わたし」が解釈したその対象は「ほかの人」とどれだけズレる可能性があるか。そのズレをどう了解するか。了解した上でどんな行動が取りうるか。そういう問題のすべては別に無視しても構わないものかもしれませんが、時には、解決しないとどうにも居心地の悪いこと(政治的・経済的・文化的に利害の対立が出てくるようなもの)が幾つかあります。そうした問題の解決が、完全には無理であることを了解しつつも、少なくとも解決するための基盤を構築する努力はできるはずなのです。

 そうしたレベルでの、価値基準に関する問題について取り組んできた重要な思想家・批評家のことばが、「プラグイン批評」に留まらない、問題解決のための便利なツールとしてしばしば呼び出されます。哲学、倫理学、美学といった基本的な哲学ジャンルの学問的系譜。経済学、法学、社会学といった社会科学的アプローチ。あるいは実験心理学認知科学、進化論生物学といった自然科学的アプローチから人間の価値判断のあり方を探ったものなどは、単に学問的な内容だけでなく、象牙の塔の外で生きる人たちにとっても必要な価値判断の問い直しのツールとしても有効に機能する場合があります。
 もちろん、それらのすべてが、現代に生きる人たちの価値判断のためにチューニングされているわけではありません。むしろ、未調整で使いにくいものが多いでしょう。せっかく普遍的な問題を論じているはずなのに、インテリ向けの、小難しい言葉でしかアクセスできないままの場合もしょっちゅうです。
 しかしそれでもそれらの批評は、狭い領域にしか適用できない「プラグイン批評」より、もっと広い問題領域に適用可能なアイディアや思考を提供してくれます。「プラグイン批評」と対比させるかたちでいうならば、「ミドルウェア批評」とか「API批評」とか呼べるかもしれません。特定のOSや特定のアプリケーションに依存せず、もっと広範囲に一般的な処理を代替してくれる方法論を提供する感じが「プラグイン批評」とは違うわけですが、私はこのような意味での〈批評〉をこそ、一般に流通して欲しい批評の意味であって欲しいと思っています。*6

3.ゼロアカ道場が今、行われてることの意義

 最後に、筑波批評社が参加することになるゼロアカ道場について。この文書の最初に説明することだったかもしれませんが、私がゼロアカ道場をどう見ているかも含めて書いておきます。

 「ゼロアカ道場」とは、批評家の東浩紀と、社会学者の北田暁大、そして講談社の編集者である太田克史などが、2008年春から継続して行っている、全6回にわたる新人批評家養成プログラムのことです。

 「ゼロ年代のアカデミズム」を意味する、ゼロアカな若手批評家を世に輩出するという目的のもと、初刷1万部を確約することで100名を超える受験希望者が参加しました。現在、第四関門で10名の参加者が残っています。
 そしてこれは言い換えるならば、第四関門を含めた3回の審査で、道場破りを含む9名以上の参加者が脱落する予定である、ということです。最初の賑々しい雰囲気から一転して、かなり絞り込まれてきたように思います。第三関門の1万字自著要約は、こちらで全て公開されており、参加者の実力を確認することができます。

 国内の現代批評市場は、宇野常寛の登場などにより、安易な“自己啓発本”として消費され消えていくようなノリになりつつある傾向が見られます。しかし、価値基準を論じることと、“自己啓発”を期待することとは、似ているようでまるで別のことです。批評は確かに、自己啓発的な効能をもたらす場合もあると思いますが、それを本質と規定した上で書かれるような批評を私は大して面白いものではないと思います。さらに、もしそれを結果的なものではなく、最初から狙ってやろうとするような批評は、志も極めて低いものだと感じます(そんなことは個人でやれ)。

 そうではなく、公共に問いかけて恥ずかしくないような立論、それまで自明だと思われてきた価値基準が揺らぐ領域を真剣に問い直すことで、もうすこし誰にとっても関心を持たないではいられない価値ある議論を創出するような批評こそが――その問い直しの場所が、美少女ゲーム市場だろうと、2chだろうと、アフリカのマイナーな民俗音楽だろうと、外食産業の調理場だろうと*7――ちゃんと透徹した理屈でもってキチンと一般化できるなら、何の問題もないのです。もちろん、そこに確かな論理的裏づけを通し、さらに誰が読むか分からない市場に向けて巧く発信するのは、学術論文を書くよりもずっと難しいことだと思いますけれども。

 今回のゼロアカ道場に引き寄せて言えば、主催者である東浩紀北田暁大の批評は、その一般化のところまでもって行った批評(さっき私が言った「ミドルウェア批評」)だからこそ、一定の市場価値を持ったと私は考えています。それが、単にそのジャンルへの愛着・崇敬の念――信仰告白といってもいいでしょう――で終わっているような「プラグイン批評」を1万部刷ったところで、その信仰を共有している人でもない限り、別に読みたいとも思わないし、売れ残っておしまいでしょう。ともすれば、もう少し今よりも多様な読みが可能なはずの『動物化するポストモダン』を、一般に受容されているようなオタク礼賛的な読みを元に信仰告白まがいの文章をしたためるという、非常にお粗末な出来のものにしかならない可能性すらあります(ゼロアカ道場がこのまま進めば、そうならないとは言い切れないでしょう)。
 それは単に、悪しきオタク商業主義の後押しでり、倫理的価値観や美的価値観の問い直しにすらならないかもしれません。むしろ、安易に劣悪なオタク文化論の補強・後押しにしかならないかもしれない。それでは、1万部を約束したゼロアカ道場としては、望ましくない結末でしょう。

 ……こんな主張をした上で筑波批評社を応援すると、当日の筑波批評社の点数が辛くなってしまうかもしれませんね(笑)。

 しかし、真面目に批評のことを考えていれば、主催者側はそれくらい真剣に批評の未来について考えているはずですし、私のこうした疑問を吹き飛ばすような明快な回答を持った上で意思決定をしているはずです。そう思う根拠を特に挙げることはできませんが、私はゼロアカ道場には、一定の(商業主義を超えた)使命感があると感じています。批評に関する教育機関を作り、そこで一定の評価基準を提示するということ自体、実に批評的な試みですし、「批評の後継を作る」という時に一番問題になってくるところです。東氏その他の主催者は、「批評を指導するとは一体何か」について試行錯誤しながら、日々企画を考案しているのではないかと推測しています。
 そのような試みが破綻無く継続的に実施されていることについては、一介のアマチュア批評家(アナログゲーム担当)として賞賛しなければならないと思っています。この賞賛は、東フォロワー的な立場からではなく、「誰かがこういうことを最初にやらなくてはいけなかった」という意味での賞賛です。東浩紀の批評の基準が好ましくない・つまらないという声はいずれ出てくるでしょうし、もっと他の優れた批評家グループが徒弟制度的ではない、もっと開かれた批評道場を作ればいい。対抗馬になって、ゼロアカ道場を駆逐すればいい。しかし、だからといって、これを最初にやった東浩紀の心意気が輝きを失うわけではないですね。

 そんなわけで、私はゼロアカ道場をわりと応援しているのでした。

おわりに

 なんだか批評社をプッシュしようとして始めたつもりが、むしろ日頃のふがいない自分を戒める宣誓文みたいになってしまった。
 いやはや、自分がこんなに批評好きだとは思わなかった。研究と批評のあいだをフラフラしてるしなあ。

 だいぶ理想主義的ではありますが、このエントリに恥じない文章を、なるべく目指して書いてゆきたいと思います。批評社の活動もたまにこのBlogなどで応援しますよ。

*1:この仕事は、東浩紀をもう大体わかった気になって国内の狭い文芸論争で充足してしまっている若手文芸批評家(たとえば宇野常寛氏など)にこそ投げかけられているんじゃないかと思う。外国を経由して読みを変えてみよう、ということか。

*2:具体的にはこんな感じ。>(=w=)ノ イイゾモットヤレ〜 

*3:別に泥沼の戦いをしろとは言いません。戦う以前にあまりに低劣な読解で、相手するに値しない論難は、私もしばしばスルーします。的外れなことを批判されても、見る人が見れば相手にする必要がないことが見えるよう、自分の主張内容を支える根拠を事前に提示しておくということが大事です。

*4:その作品の熱烈な愛好者であれば、話は通るでしょう。そこで喜びを分かち合いましょう。しかし、それはあなたの言葉が優れているのではなく、たまたま作品が優れていただけです。

*5:一方で、有能な批評家が「一般の代表」みたいな顔をして、感想文で十分だと思う一般人をひどく苛立たせるという副作用もあるのですが、それは今後、知識社会学的な観点から説明することもあるかと思います。請うご期待

*6:もっとも、これに加えて、もっと前衛的で、端的に言ってヤバいものとしての批評もいいのですが、まあそれはそれ。そんなのを作れる/楽しめるような天才に任せておきましょう。まずは批評的ないろいろなものごとを楽しむ裾野を作ることの方が大事だと私は思いますね。

*7:キッチンに関するミクロ社会学的研究があったりします。あくまで一例