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「檄文」についてのお返事数件

 こないだ評判の大きかった「檄文」について書こうかと思っているうちに、色々質問やらなにやらが来てますね。
 しかし寝込みながら東浩紀大塚英志の対談本『リアルのゆくえ』を読んでいて、ああ、いろいろな「誤読」と「誤配」があるもんだなあと思います。まあそれに対応する「正しい読み」「正しい配送先」なんてのを信用してるわけじゃ全然ないのですが、そういうことを考えた。

 〈批評〉というものを現代においてどう捉え直すかについて(「完全に無力である」という結論も視野に入れつつ)世代で区切れるほど歳の離れた批評家二人が切り結んでいます。

 今回の私の文章も、〈批評〉のあり方について考えたものでした。あの文章を冷静に受け取った方も、感情的に反発を受けた方も、もし余力があればこの『リアルのゆくえ』も一度手にとって読まれることをお薦めします。かなり関係のある話をしていると思いますし。

 本題。

 先日の「檄文」について散発的に補足しつつ、私の立場を整理してきます。
 まず一番大事なこと。私は、「一般」(general)を「普遍」(universal)とは取り違えたりはしていません。これにひっかかっている人の思考能力を想像する手間は今の私にはないので、当面はお相手できません。一年後くらいには気も変わっているかもしれませんが、ネットですべての人間を相手にするということ(ここで言う「相手にする」とは、理解を請うためのエントリなり文章なりを拵えるということ)は、残念ですが無理です。
 これについては以上。次は玄兎さんからのコメント。

 高橋士臣(gginc)氏のブログのエントリ『筑波批評社への檄文――あるいは〈批評〉をめぐる私個人の立場の整理』に、あっちこっちで反応が見られます。面白いです。そして大変そうです(汗)
 RPG ブロガーの反応傾向としては「〈感想文〉でいいじゃんか」というモノが大半のようで、そういう意味では氏がエントリ中で「いいなあ、自分にも文責を守って一緒に戦ってくれるようなアナログゲーム批評家が居てくれたらなあ」なんて書いた環境が露骨に表面化していたり。
 ある意味これは高橋氏の思う壺なのでは?(笑)
■玄兎2008.08.25「批評と感想文――姿勢の問題」
http://blog.talerpg.net/rpg/archives/919

 一つ訂正させていただきますと、私の筆名は士臣ではなくて志臣〔むねおみ〕です。わかりにくくてすみません。
 で、「思う壺」と書かれていますが、概ねその通りともいえます。私個人は、別に〈感想文〉を否定しているわけでもなければ、〈批評〉以外のやり方を排除しようとしているわけでもないのに、TRPGについてだけ近視眼的に語り続ける一部の人のナイーヴさが、「檄文」の反応を通じて露骨に出ているという状況は、なんだかもう笑えてしまいます。他のTRPG文化圏に関係ない人たちが、このナイーヴさをどうご覧になっているのか興味深いところです。
 しかし、普段からTRPGの話題を期待してここを見てきてくださっている人も一定数おられるのですから、そこはしょうがないところなのでしょうね。TRPG関係者にも、外部の方と同様、冷静に受け止めてくれる人がいたので助かっています。

 それはさておき、まりおんさんと玄兎さんの二人から質問が寄せられた、〈感想文〉と〈批評〉の違いについては、確かにエントリ内で完結していない内容でしたので、ちゃんと補足しておこうと思います。

 実はこれは、最初に話の枕として置いた伊藤計劃さんの映画批評論エントリの文脈を受けて使っているもので、定義は明示していなかったのです。すみません。ですが、伊藤氏の文章を読めば大体予測がつくようには書いてみたつもりです。以下の定義が、〈責任〉という言葉に着目して伊藤氏→高橋の文章を追って再構成できる、最低限の意味です。

■〈感想文〉と〈批評〉の再定義

bold;">〈感想文〉:書き手が、言及する対象の側に〈責任〉を渡している言葉のこと。
bold;">〈批評〉:書き手が、自分自身の言葉に〈責任〉を背負っている言葉のこと。*1

 
 私が〈感想文〉と〈批評〉を分けているのは、先日のエントリでも触れたとおり〈責任〉というターム(=単語)です。で、ここからさらにこの責任とは何かを定義します。最終的な「面白さ」あるいは「説得力」に関する責任を、自分以外の外部に渡せる余地があるか(作品、他人、社会、世間、etc...とにかく自分じゃない、と考える)、それとも責任が他でもない自分にあると引き受けられるよう書いているか、という違いが、〈感想文〉か〈批評〉かを分ける重要な分岐点になります。
 事実に関する判断であれ、価値に関する判断であれ*2、その判断が著者の責任において下されていることを引き受けられるようなロジックや文責が示されているかどうかが、〈批評〉を〈批評〉たらしめる最低条件になります(これが、私の言う〈責任〉です)。
 実のところ、〈感想文〉を〈批評〉に仕上げるのはとても簡単なのですが、この違いに気づかない人はなかなか〈批評〉を仕上げることができません。
 また、「感想文/批評」で語られる批評の価値づけの問題は、「プラグイン批評/ミドルウェア批評」という比喩でべつに語られた価値付けの問題とは、また全然違うものです。〈感想文〉/〈批評〉の位相では、「何がよい〈批評〉か」を論じることはできず、ただ私が言う意味での〈批評〉が成立する最低条件について論じることしかできません。
 先日はこの2つの話をいっぺんに語ったので、多くの方に混乱させてしまったかもしれませんが、このような段階を踏んで〈批評〉をいろいろに区別して(つまり定義を絞り込んで)いたのでした。この点、どうぞご理解ください。

 まあ私としては、もともとのあの文章を、文芸批評を愛する同世代の若者向けにもっとも効果的に書いたつもりです。ですから、それ以外の今回たまたま伝わらなかった人のフォローに関しては、差別道徳的にふるまわせてもらいます。
 ここでいう差別道徳的というのは、人を差別するという意味ではありません(笑)。そうではなく、「隣人愛」〔アガペー〕ではない愛のことです。つまり私は、左の頬をぶたれても右の頬を差し出すような愚直なまでに献身的な人物なんかでは全然ないってことだけ押さえてくれればOKです。家族・友人・恋人(まあ恋人は議論には関わらないから別として)に類する素朴な親愛の念を抱けるだろう人、またそのような親愛を維持できるだろう人に関しては、私はちゃんとブログで対応しますよ、というのが「差別道徳」です。
 先ほども言った通り、私は「一般性」さえ持ち得れば「普遍性」など、言説のレベルではどうでもいいと思っています。そもそも時空を超越した普遍性を前提できるような「特権的な1つのイデオロギー」が見あたらなくなったのが、現代がポストモダンと言われるゆえんですよね? ──なんて言説、いかにもフーコーデリダ・リオタールあたりにかぶれてるインテリくずれっぽくてイヤですが、これは私が高校生の頃にid:sakstyle君から仕込まれて7年近く経ってようやく身体化した実感ですので、まあこのまんまで。
 それでも真面目に普遍性云々を論じたいのなら、キリスト教神学を持ち出すか、宗教家になるかして、その上で云々やらなければならないでしょう。
 私はそうした方向での大上段の普遍性を今のところ理詰めでは信用できませんし、またそうしたものが討議的民主主義によって解決するとも思っていません。
 ならばせめて、自分の差別道徳の赴くまま、自分の家族・友人・恋人・あるいはその可能性を持つ多くの人たちに「誤配」されても通用するようなレベルの、論理的一貫性を保った言説を日々作れればいいと思っているだけです(私が戦う「一般性」の領域とは、まず第一にその周辺のことを指します)。
 もちろん、プロ批評家の方はそこで終わっても仕方ないでしょうから、もっと広い射程を狙っていただきたいものだと思います。
「檄文」はそうした人たちのために書かれたのですし、それに対して、大して論じてもいない分野から「私にはそんな余裕はありません!」と不平を零されても、特に何の強制力も発動していない私はどうすればいいんでしょう。慰めてあげればいいのでしょうか。よーしよし。僕の胸にとびこんでおいでー。
 冗談です。ともあれ、差別道徳で守れる領分を越えたところでも、公共で有益に用いることができるくらい論理的に整ったことばを、責任をもって作ること(あるいは作ろうと志向して行われる活動)を、私は〈批評〉だと思っています。
 私にとっては、今のところそれ以上でもそれ以下でもありません(それ以上であることに越したことはありませんが、それを目指す際には確かな論証が伴って欲しいと願います)。後は自分の好きなように〈批評〉の意味を組み替えていいですよ。それを止めはしませんし、私が統御しても別に面白くもなんともないものです。

 最後に、玄兎さんが非常に鋭いまとめをしてくださったので、ふたたび引用させていただきます。

 思うに〈批評〉は「理解を深める」志向性であっても「共感を深める」志向性は必ずしも持ってないんじゃないかと。
 だから共感したい人、感動を共有したい人にとって〈批評〉はまったくナンセンスなものだってことになるんじゃないかと思う次第です。

 前半は、その通りです。「共感を深める」志向とは別の説得力をもつのが、批評にはあるでしょう。
 しかし、後半部分は、そうとも限りません。感動を共有できない人にも、条件が整えば届くかもしれない準備をするためにも、私が言った意味での〈批評〉は重要です。

 最近更新されたゼロアカ道場主催者である東浩紀氏のBlogで、

 そのうち、ただの高校生同士が「対談」とか銘打って、リアリティショー的な動画をばしばしアップする時代がやってくるでしょう。それはもはや批評でもなんでもないような気がしますし、その展開は単純に批評の弱体化を、つまりは、批評がもはや世代的共感のためのコミュニケーションツールとしてしか生き残っていない現実を表しているだけのような気もします
東浩紀,2008.08.25「6年前の文章を再録してみた」
http://www.hirokiazuma.com/archives/000443.html

 
 というように、“共感”という言葉が〈批評〉の条件を十分に満たしていないものとして使われていること*3は大変示唆的で、やはり世代やミクロな社会集団を超えて届くような、平明な言葉ができるだけ多く作られた方がいいと私は考えているのです。そしてそれは、もちろん共感のためのコミュニケーションツール“であってもいい”のですが、それだけじゃなんともつまらないし、タコツボ化するだろうなという思いはやっぱりあるわけで、そういう思いから私はわざわざ〈批評〉を「共感を超えるために、責任をもって作られることば」と位置づけたのでした。

*1:これ以上の批評の意味づけは、高橋の本文中で新たに付け加わっているが、ここは伊藤→高橋の流れでのみ共通する意味を取った

*2:哲学では、事実判断と価値判断は区別されます。

*3:共感のためのコミュニケーションツールとしての批評が、必要条件なのか、それとも必要条件ですらないのかは、文面からはよく読み取れない。