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読書の誠実さ

 続いて、まりおんさんの「読書の誠実さ」について私見を述べさせていただきます。

〈批評〉と〈感想文〉という言葉を使われていますが、同じく「本に対して誠実か否か」ということになるのかな、と感じました。(これも読み方を「自分にひきつけ」すぎているかな……)
■まりおん,2008.08.23「読書の誠実さ」
http://d.hatena.ne.jp/mallion/20080823/p3

 〈感想文〉と〈批評〉については先ほど述べましたので、今度は受け手の立場について整理しようと思います。
 
 読書には大まかに言って、2つの「明らかに間違った立場」があります。
 それは、

  1. 作者至上主義(「作者の意図」が100%正しいんじゃぼけー)
  2. 読者至上主義(「読者の解釈」が100%正しいんじゃぼけー)

 です。
 最後に「ぼけー」と書いているのは、だいたいがこの2者間でいがみ合っているからです(笑)。
 だいたいの読書(これを「作品受容」と言い換えると、ほかのいろんな芸術ジャンルにも当てはまります)は、この2つの極端な立場の中間あたりにあります。
 ではこのちょうど中間であれば「よい読者」なのかといえば、そういう簡単に整理がつく話でもない。作者の意図やコンセプトをまったく外して読むと本当に面白くない作品というのはおそらくあり得るでしょうし、その逆に、勝手に新たな解釈枠組や批評理論を適用してはじめて面白くなる作品というのもあり得ます(B級映画を楽しめる映画マニアの着眼点などは、この事例にうってつけですね)。
 さて、ではどこまでなら作者の領分で、どこからなら読者の領分なのか。
 ここで私は、特に何の批評理論を新たに持ち出すでもなく、「事実/価値」という2区分でカタをつけてしまいたいと思います。
 まりおんさんのエントリで間接的に言及されていた松岡正剛の誤読は、見る人が見れば明らかな「事実誤認」でした。したがって、事実を知るほかの人から批判され、修正されるだけの余地がある。これは、「誤読」と呼ばれても仕方がない。
 しかし、松岡がヘルダーリンの著作からどんな感想を読み取ったかは――たとえ松岡の読解に「事実誤認」が含まれていたにせよ、正誤をうまく定められないものです。ですから、この点で松岡氏の「誤読」を安易に否定するのは難しいでしょう。
 つまり、事実に対する判断と、価値に対する判断は、同じ読書を通じての判断でも、(ひとまずは)分けて考えられるものなわけです。
 しかし、そうした「事実誤認」が、読んだ本の価値判断についても派生的に大きな影響を及ぼしていた場合は、どうでしょうか。それは、たとえ防ぐことができなかったにせよ、事実判断、価値判断の両方において「誤読」が生じていると言えないでしょうか。*1

 そういうわけで、私が提案する読書のあり方は、以下の二点に集約されます。

  1. 自分の知識が及ぶ限り、できる限り「事実」を誤認しないよう気をつける。
  2. 読み取れる範囲でなら、自分の過去の経験やその他のテキストと合わせて、好きに「価値」をつけてよい。

 この2つができていれば、後は作者に沿った(と思われる)読みでも、自分の読みたいように読んだ(と思われる)読みでも、酷く間違った読みというものにはならないのではないかと思います。*2後は、その読みの成果を、私的な場で、あるいは公共の場で、どのように活用するか、ということになるのではないでしょうか。
 批評理論は、しばしば体験主義的な受容の前に不要とされることが多いですが、最低でも「事実誤認」を事前に防ぐための知の集積としては非常に有用です。もちろん批評理論は、対象についての価値判断すべてをサポートしてくれるわけではありませんから、理論さえあれば自分で判断しなくて安心というものではありません(この辺りはacceleratorさんのエントリも混同している部分がありました)。一受容者・一解釈者として、どんな枠組みから対象を読み解けば一番価値があるかを考えながら読めば、「理論か、それとも体験か」の二者択一に迷い込んでしまうことはないのではないでしょうか。
 では、価値とは何か、また価値について判断し、基準を定めるとは何か、という話にまで踏み込むと、今の私の手には負えなくなってしまうので、どうぞ私の代わりに考えてみてください。

 また、私は比較的、学術的なフォーマットを踏まえた文芸批評を基準に〈批評〉について語っていますが、それについて考えるきっかけとなった参考書籍は以下の二点となっています。

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

 なお、美学について最近読んだ興味深い区別では、kugyoさんの「芸術/コミュニケーション」の区別が非常に参考になりました。ここに紹介しておきます。

*1:カント流に「事実命題から価値命題は導けない」と言えば、こうした読み自体が否定されてしまうのですが、だいたいの人は、事実の集合から何らかの価値を見出し、一般化した価値命題を主張しています。

*2:ちなみに、このような誤謬の防止としての方法論の必要については、作家の佐藤亜紀が、映画鑑賞の例を用いて解説しています。