GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

RPGにおける2つの法思想─〈法律主義〉と〈判例主義〉

 こないだ前編だけ書いた、「ゲームトークンの死と、システムレベルのデザイン目標」の後編については、草稿がまとまらず、公開がしばらく先になりそうです。どうもすみません。

 ところで、今年の4月にid:D16さんが書いていらっしゃった記事を久しぶりに読んで、思い出したことがあります。前々から私は「RPGって、法学の用語で語るとだいぶ整理がつくんじゃないか」と思っていたのですが、D16さんも実は似たような発想で、D&Dの新しい面白さについて語っていたのですよね。

 今回、私がこのエントリで示す考えは、以下の通りです。

■高橋2007.09.19「RPGにおける『法律主義』と『判例主義』」の論旨:

  1. 法学における〈法律主義〉と〈判例主義〉の2つの立場は、RPG業界にも実は暗黙のうちに存在している。
  2. そしてその2つの立場は、システムデザインやシナリオ作成など、RPG製品を開発するにあたっての「法思想」として、深く根を下ろしている。
  3. したがって、RPGにおける〈法律主義〉と〈判例主義〉の2つの立場を正しく理解することは、私達RPGゲーマーがゲームをより楽しく遊ぶために役立つ。

 「〈法律主義〉?〈判例主義〉? なんじゃそりゃ?」 と思われるでしょうが、この言葉の意味は、いまはとりあえずおいておきましょう。本文中で改めてまとめていますので、申し訳ありませんが、まずは順番にに読まれることをおすすめします(先に定義だけ確認したい方は、後のほうで太字でまとめていますから、先にそちらを参照なさってください)

 まずは、D16さんの記事を紹介していくことにしましょう。
 D16さんの記事に出てくる「法令(法律)」と「判例」という対比に注目するところから、このエントリの議論は出発します。

製品としてのシナリオの価値─D16の議論から

id:D16,2007.04.24「カサンドラであって欲しくないD16の意見」『D16の日記』
http://d.hatena.ne.jp/D16/20070424

 少し長いですが、D16さんの海外RPG販売の問題点を端的に示した一番重要な部分だけ、引用させていただきます。興味をもたれた方は、D&D文化の振興のためにも、リンク先に飛んですべてお読み頂ければ幸いです。

 やや本論から離れますが、D&Dにおける、WoC・TSRの製品D&Dシナリオ(以下製品シナリオと呼びます)と国産D&Dシナリオの(D16が理解している)違いについてここで明らかにしておきましょう。
 それは「遊び方の提示を含んでいるか」と言うことです。ゲーム・システムから導かれる冒険のあり方をプロのデザイナーが「このゲームはこんな風にも遊べる。こんな風に遊ぶ」と、いわば模範として示しているかということです。
 確かに製品としてのシナリオに求められる要件の一つは、「DMの準備の手間を減らし」、「(比較的)適正な冒険を提供する」ことでしょう。そして、国産のシナリオはこの点は、限られたページ数の中で、間違いなくクリアしています。
 ですが、D&Dというゲームの可能性を提示し、DMを新たな局面にいざなうには記述が足りなさ過ぎる。ありていに言って、骨格しか準備できていない。仕方ありません、肉づけをする紙面が与えられていないのです。最初の立ち居地の時点で勝負にならないのです。ライターの苦悩が目に見えます。
 D&Dのマニュアルは、基本的に裁定に必要なルール・データをまとめたものです。遊び方(運用)のガイドラインは3.0版以降はコア・マニュアルにまとめられました。各卓で生じるであろう問題への解決方法やゲーム・マナーについての言及などがそれです。ただ、それでも「このゲームをどうやって遊ぶのか」ということについての十分とはいいがたい。
 製品シナリオというものは「このゲームはこう遊ぶ」、「このような冒険が可能である」、「このゲームでこんなことまでできる」ということを示してくれます。つまりこれは、ユーザにシステムの運用方法を示してくれる存在なのです。
 コアのルールブックが“法令集”であるとしたら、シナリオは“判例集”といっていいでしょう。どのルールをどのように使うか。それによりどんな冒険を提示するか。
 シナリオの自作は可能です。ですが、プロのデザイナが作るシナリオはやはりプロの製品なのです。はっきりとクオリティも目的も違います。プロ・デザイナの作る製品シナリオはDMにとっての参考書であり、教科書であり、レシピ集なのです。
 国産D&Dシナリオにはそこまでのことが求められてませんし、それを実現するだけのページ数もありません。限られた紙面と頭打ちされた労力の中でベストを尽くし、セッションを可能にするだけの遭遇を記すので精一杯です。
(D16 2007.04.24,強調は原文ママ

 そして、このような問題点を述べた後に、D16さんは「3.5版D&D対応の公式製品シナリオは、(D&Dの)国産の製品シナリオではなかなかできない、豊かな可能性を示してくれている。それをぜひ、みんなで買って欲しい。そしてD&Dにおいて判例集(レシピ)となるものを、D&Dファンたちの手でどんどん共有していこうじゃないか」(要約)ということを主張されています。

 その話については、私も賛成したいと思います。*1

 そんなわけで、まずは『赤い手は滅びのしるし』の翻訳版を私からも紹介しておきます。

赤い手は滅びのしるし (ダンジョンズ&ドラゴンズ冒険シナリオシリーズ)

赤い手は滅びのしるし (ダンジョンズ&ドラゴンズ冒険シナリオシリーズ)

 このキャンペーンシナリオは、私が今、現在進行形でプレーヤーとして遊ばせてもらっているシナリオでもあります。*2。悪のモンスター軍団を打ち破るために東西奔走するという大変王道的な展開のシナリオになっているのですが、資料やマップが豊富に揃った、大変安定した出来になっています。遊ぶために、「え、ここまで準備されちゃってるの?」と眼が点になることが何回もあるんですね。
 実際のセッションでは、先輩プレーヤー達がそれぞれD&Dの資料をブイブイ投入している関係で(笑)、かなり破天荒な展開になっていますけれども、「D&Dにおける野外の冒険って、こんなにエキサイティングなんだ」ということを知るには十分すぎるくらいの、素晴らしい出来になっていることは、自信を持って言うことができます。おすすめです。

 また、この『赤い手は滅びのしるし』の2ヵ月後に発売された『鬼哭き穴に潜む罠』についても、小太刀右京氏によるこんなセッションレポートがあります。ぜひリンク先を読んでみてください。

鬼哭き穴に潜む罠 (ダンジョンズ&ドラゴンズ冒険シナリオシリーズ)

鬼哭き穴に潜む罠 (ダンジョンズ&ドラゴンズ冒険シナリオシリーズ)

 D&Dの重厚なイメージとはまた違った手軽さと、その手軽さと共に味わえるドラマチックな演出が魅力の単発シナリオになっているようです。 みなさん、買って遊びましょう。

 ……さて、商品紹介も終わりましたので(笑)、本題に移ろうかな。

 私がここで注目したのは、D16さんが書いた“法令集”と“判例集”という区別です。
 D16さんによれば、「今の国産D&D展開は、“法令集”については充実してきたけど、“判例集”はまだまだであり、D&Dの製品としての魅力をまだ十分に国内に示せたわけではない」というようなのですが。
 確かに、この記事だけでも魅力的な、読む価値のあるお話になっています。それは先ほど、私なりの要約で述べたとおりです。
 しかし一方で、この区別については、いろいろな疑問が沸いてきます。
 ここでD16さんが使った「法令」と「判例」という言葉は、どのような意味で受け取るべきなのでしょうか?
 そしてその法律用語由来の「法令」と「判例」の違いとは、RPG製品を楽しむにあたって、どういう文脈で捉えられるべきなのでしょう?
 私はここに着目して、さらにRPGについてうまく論じることができないかと思ったわけです。
 ですが、この「法令」と「判例」の区別について適切な知見を得るためには、まずは法学の専門的な議論を、一度参照してみる必要があります。

〈法律/判例〉の区別─白田秀彰『インターネットの法と慣習』から

 私は法律の専門家ではないので、法学についてあまりうまく言及することができません。
 ですからここからは、皆さんと一緒に勉強してみるつもりで、オンラインで手軽に読める資料を参照しつつ、議論をすすめていくことにしましょう。

 私が選んだのは、インターネットに関する法の研究で活躍されている、法学者の白田秀彰氏の連載『インターネットの法と慣習』です。白田秀彰さんはサイバー法や著作権問題の研究で注目を集めている気鋭の法学者さんで、専門的な知識を持ちながらも、一般の人にもよくわかる法学コラムを沢山執筆されています。
 この白田さんの著作の中に、D16さんの区別のヒントになる基本的な考えが説明されていました。

白田秀彰,2004*3「第10回 法律の重みについて1」『インターネットの法と慣習』
http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/040330/

 ここで主に論じられているのは、「大陸法」と「英米法」の区別です。

 白田は、「英米法(Common Law)」の特徴を判例主義〉(はい、出てきましたね)に求めつつ、解説してくれています。
 この〈判例主義〉を、彼の言葉をそのまま借りて要約すると、
「法律なんぞより裁判所(裁判官)の判断の方がエラいよねー」
 という考えのことになります。ぶっちゃけすぎかもしれませんが、まあ、だいたいそういうことです。書かれた文章より人間の方が一等上だと考えるわけです。

 英米法の特徴は判例主義」だ。議会が作る法律よりも伝統に根ざした裁判所の判断の方がエラい、という仕組み。ただ、このエラさの意味はイギリスとアメリカでは違ってるけど。違いについては後述。
(中略)
 具体的な「正しさ」を司るのが裁判所の仕事。裁判所は、古い歴史のなかから抽出された法 law と人が定めた法律 statute とを調和し、具体的事件に適用し、妥当で適切な状態 justice / right をもたらすことを仕事にしている。「正しさ」は、法を司った先輩たちが選択してきた判断の積み重ね、つまり判例において現れると考える。たぶん、時々の問題に直面している人間の「一時的な」判断をあまり信頼しないで、古くからの積み重ねと時間の洗練を経た「検証済み」の判断に信頼を置いているんだろうと思う。
(中略)
 こんな風に法が作られていくから、英米法世界での法律家というのは、法律のエキスパートではなく、法のエキスパート、もっと言えば (a)「法の伝統的精髄を身に備えた人間」(b)「健全な常識を備えた人間」であることが期待される。(a)や(b)をリーガル・マインドというわけ。
 ちなみに、イギリスでは(a)が、アメリカでは(b)がより重視されていると思われる。
(白田2004,強調は引用者による)

 これって、日本のわたしたちには、違和感がありますよね。「え、六法全書とか、アメリカとかイギリスにはないわけ?」と思うのが、普通です。
 ところが、本当にそういった「何でもそこに書いてある」式の法律書は、英米法にはないのです。*4イギリスやアメリカの弁護士や裁判所の人たちは、「六法全書」のようなカッチリしたルールブックだけを学ぶ日本のような勉強の仕方の代わりに、いつ、どこで、誰が、どのように判決を下したかという膨大な〈判例〉を学ばないといけないのですね。……まあ、勉強する量が膨大なことには、どちらにしろ変わりないのですけれども、力点はだいぶ違います。
 一方で、日本はこういった判例主義をとらず、近代のドイツやフランスの「大陸法(Civil Law)」の方を受け入れています。判例が有効に機能することもありますが、大抵は法律の解釈とその適用によって判決が下されることを善しとします。
 そんな「大陸法」の特徴を〈法律主義〉といいます。英米法とは対照的に、
「バシッと書かれた法律の方がエラいにきまっとろうが!」
という立場に立っています。

 いろんな事情があって、日本は明治時代にドイツから法律を継受した。このころのドイツ法は、法の歴史の中でも、もっとも制定法を重視し、解釈・運用においてガチガチの論理構成がサイコー!とされている時期だった。この立場を法実証主義という。日本は西洋法について右も左もわからない時期に、このドイツ法を受け入れたわけだから、「要するに法律学ってのはこういうものだ」という認識が一般化したのは当然だ。
(中略)
 大陸法の特徴は「法律主義」だ。判例やら歴史やらからウヤムヤと紡ぎだされる曖昧な法よりも、そうした法を学者が論理的・理性的に整理した法律案をもとに、議会がバシっと決めてしまい明々白々と紙の上に書いた法律の方がエラい、という仕組み。
(中略)
 大陸法世界での法律家というのは、法律のエキスパート。法に関する知識も備えておくべきとされるけど、博覧強記の法律の知識と水も漏らさぬ論理構成がなによりも必要になる。
(同)

 「明々白々と紙の上に書いた法律の方がエラい」。
 「博覧強記の法律の知識と漏らさぬ論理構成」。
 私達にとって身近な法律家のイメージは、むしろこちらの「大陸法」、つまり〈法律主義〉の方ですよね。なんだか日本の熟練ゲームマスターの特徴にも似てるかもしれませんね(笑)。

 まあ、これはあくまでRPGコラムですので、これ以上むずかしい話はヤメにして、まとめてしまいましょう。

〈法律主義〉と〈判例主義〉の(とりあえずの)まとめ

 こうした白田さんの話を素直にまとめると、法学の立場からは以下のように用語を整理することができるでしょう。

■法学における〈法律主義〉と〈判例主義〉(参考:白田2004)

bold;">〈法律〉:法の専門家たちが「正しさ」を論理的・理性的に整理した上で、立法機関により採択された、法に関する記述の集合。
bold;">〈判例〉:法を実際に司る人たちが伝統的に積み重ねてきた「正しさ」に関する判断の集合。
bold;">〈判例主義〉:「正しさ」の根拠を〈法律〉にではなく、伝統的に蓄積された〈判例〉と、裁定する人のリーガルマインドに求める立場のこと。
bold;">〈法律主義〉:「正しさ」の根拠を〈判例〉にではなく、論理的に整理された〈法律〉と、法律を作った法学者たちの知性に求める立場のこと。

 これらの用語を用いつつ、RPGにおける〈判例〉の意義を説いたのが、先のD16さんの主張と考えると、より論旨が明快になるのではないでしょうか。

 ここの定義の「法」を「RPG」に、「正しさ」を「ゲームの面白さ」と言い換えてみましょう。RPGにおける〈法律主義〉と〈判例主義〉がどんなものか、わかるはずです。試しに変換してみましょう。

■RPGにおける〈法律主義〉と〈判例主義〉(高橋2007.09.19)

bold;">RPGにおける〈法律〉:RPGの専門家*5たちが「ゲームの面白さとは何か」を論理的・理性的に整理した上で、立法機関*6により採択された、RPGに関する記述の集合。
bold;">RPGにおける〈判例〉:RPGの裁定を実際に司る人たち*7が伝統的に積み重ねてきた「ゲームの面白さ」に関する判断の集合。
bold;">RPGにおける〈判例主義〉:「ゲームの面白さ」の根拠を〈法律〉にではなく、伝統的に蓄積された〈判例〉と、裁定する人*8リーガルマインド*9に求める立場のこと。
bold;">RPGにおける〈法律主義〉:「ゲームの面白さ」の根拠を〈判例〉にではなく、論理的に整理された〈法律〉と、法律を作ったRPGの専門家*10たちの知性に求める立場のこと。

 こうして、システムデザイナー(とそのルールブック)を「ゲームの面白さ」の基礎とする〈法律主義〉と、ゲームマスター(とセッションでの裁定)によって生まれる「ゲームの面白さ」を基礎とする〈判例主義〉とが、綺麗に対応しあうわけです。
 そして、実際にはこの2つは互いに補い合います。なぜならシステムのないRPGはRPGではなく、ゲームマスターのいないRPGもまたRPGではないからです。*11
 したがって実際のセッション現場では、〈法律主義〉的にゲームをする時もあれば、〈判例主義〉的にゲームを運用することもあります。のどちらかだけでゲームが進む時というのは、基本的には“ない”と考えてよいでしょう。

〈法律主義/判例主義〉なんて区別、ホントに役に立つの?(答:役に立ちます)

 さて、「法学用語まで持ち出して、またややこしい話を……」と思われる方も、いらっしゃることでしょう。
 ですが、私は前々から、この〈法律主義/判例主義〉の区別をつけ、そのどちらにもそれぞれに価値を見出すことが、RPG文化を論じる上で、とても大事なことだと思っていたのです。
 しかもそれは、D16さんの主張を擁護するというだけにとどまりません。この2つの立場を明確に区別することで、ほかにもRPGにおいてさまざまな議論が展開できると思います。

 今思いつく限り、そのメリットについて列挙してみましょうか。

  • F.E.A.R.製品において展開されている「ゴールデンルール」の意義を、「〈法律主義〉の行き過ぎを防ぎ、ゲーム性を守る」という立場から擁護することが可能になる。*12
  • 極端な〈判例主義〉の立場を取っているRPGシステムを、面白く遊ぶための方法論を考えることができる。*13
  • 〈法律主義〉の立場を取っているゲームや、極端にルール・データ量の多いゲームにおいても、〈判例〉が役に立つことを説得的に論じることができる。*14
  • 「〈判例〉の蓄積がない不毛なプレイ環境においても、〈法律〉の読み込みだけから適切な〈判例〉を推論し、そのゲームシステムの「典型的な遊び方」を構築することができる。また、そのレベルでもゲームとして機能するかどうかを基準にRPGシステムデザインの巧拙を評価することができる。*15
  • 〈法律〉から推論できるレベルではそのゲームシステムを十分に楽しむことができない(あるいは“飽きた”)ユーザーに対して、高度な〈判例〉を示し、「アクロバティックな遊び方」を教えることで、そのゲームの評価を上方修正させることができる。*16

 こういった議論が、それぞれのゲームの面白さを誤解しないようなまっとうなやり方で論じられるようになると、私は見込んでいます。

 ちょっと堅い言い方かもしれませんので、もっと危険な言い方をしてその効果を説明すると、次のようになりますかね。


「D厨はつまんねえルール論議ばっかりやっててうざい」とか「FEARゲーはオタクのごっこ遊びしかできやしない」とか「こんな中身のスカスカな同人RPGシステム、遊べるわけねえだろ」 というような、RPGの本質をないがしろにした不毛なけなし合いの数々を、少ない労力(つまり、論理)で一掃することができるようになる。

 私は、こういったくだらない誹謗中傷をこそ、まとめて一蹴したいと日々考えを重ねてきました。
 日ごろからこういった主張に不快感を覚えていた人たちも、ぜひこういった人々に、バランスの良い見方を提供してやりたいものだと考えているのではないでしょうか。
 そのために、RPGにおける〈判例〉と〈法律〉とを区別することは、有効な方法となると私は見込んでいます。

 といっても、この考え方は今回はじめて表明したばかりですから、使い方もわからない方が多いと思われます。
 せっかくですから、私の方から、2例ほど提示してみましょう。

応用例1:雑誌記事やリプレイ集を〈判例〉として再評価する

 D16さんの言葉をもう一度引きましょう。

 コアのルールブックが“法令集”であるとしたら、シナリオは“判例集”といっていいでしょう。どのルールをどのように使うか。それによりどんな冒険を提示するか。
 シナリオの自作は可能です。ですが、プロのデザイナが作るシナリオはやはりプロの製品なのです。はっきりとクオリティも目的も違います。プロ・デザイナの作る製品シナリオはDMにとっての参考書であり、教科書であり、レシピ集なのです。

 さきほどのまとめを読まれた方ならば、この文章の意図がより一段と理解できるのではないかと思います。
 つまり、D16さんは、D&Dを楽しく遊ぶためにプロが積み重ねてきた〈判例〉を、もっと国内に輸入しないとダメだ」と言っているわけです。そして「D&Dは、そのルールの精度や量の多さから極端な〈法律主義〉と思われがちだが、そんなことはない、〈判例〉を普及させることで、D&Dはもっと面白いゲームになりえるんだ」と、そう主張しているわけですね。D&Dの〈法律主義〉にカウンターをあてることの重要性を、ものすごく意識しているのです。
 ところで、D16さんがここで暗黙のうちに名指している「正しさ」は、法学で論じられるような意味での「正しさ」ではありません。それはいうなれば、D&Dというゲームシステムがもたらす〈ゲーム性〉*17RPGシステムを駆使して「よいゲーム」を楽しむことがRPGにとっての「正しさ」だという考えは、私にとっても承認できる考えです。*18
 なお、国産RPG業界では、ルールブックの中に直接書き込んだり、あるいは文庫や雑誌上で「リプレイ」という形で紹介したりすることで、〈判例〉の普及努力に努めています。たとえば国内雑誌には、以下のようなラインナップがあります。前世紀に『タクテクス』や『RPGマガジン』が担ってきたことを、今の国産RPG業界も継承しているわけです。

 ちなみに、D16さんはこのうち『キャラの!』という雑誌の最新号で、「はっちゃけたD&D」の運用を実践的に示しておられます。どちらかというと「D&Dでは、こんな〈アクロバティックな遊び方〉もできるんだよ」ということを示そうと意識しているようですね。

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 しかし、景気のよい話だけではありません。1990年代後半には、「TRPG冬の時代」などと言われている通り、こういった〈判例〉が単なる「おもしろおかしい読み物」としてだけ扱われ、ゲーム製品として流通させることの価値が見失われた時代もありました。今でこそ、プロ製品からはそういったやり方はあまり見受けられなくなりましたが*19、いずれまたそうならないとも限りません。
 そういった事態を防ぐためには、このようなプロの〈判例〉がどの程度のレベルに達しているかを、購買者である私達自身が、ちゃんと評価する必要があります。
 たとえば、ゲーム後の茶飲み話でよく聞く批判には、こんなコメントがあります。

  • 「こんな使えない、シナリオフックみたいなシナリオ提供しやがって」
  • 「ちゃんとテストプレイしたの、これ? バランス悪すぎ」
  • 「単にプロ側が面白おかしく遊んでるだけで、何の参考にもならない」
  • 「読み物としては面白いんだけど、真似したいかどうかというと、うーん」

 みなさんも、きっと覚えがあることでしょう。私もそうしたことを感じる時もありますし、その時は場の流れもあって、「なるほど、たしかに」と思います。

 ですが、こういう単純素朴な言い方だけでは、言われているプロの方々も、納得がいかないでしょう。ある程度説得的な言葉で表されなければ、改善する気持ちにもならないはずです。そのためには、ユーザー側も、

  • このシナリオは〈判例〉として何がどう優れているか?
  • リプレイの中でゲームマスターが示した裁定は〈判例〉としてどの程度役に立つか?
  • この中で示された〈判例〉から、私達はどのようなゲームを開発することができるか?


 といった観点から、製品を評価することが必要になってくるでしょう。その時に、「よい判例とは何か」という考えをもっていることが、大事になってくるはずです。

応用例2:〈判例主義〉のゲームシステムとしての『Aの魔法陣

 私たちRPGゲーマーは、「より面白いゲームを遊びたい」と考えて、さまざまなRPGの楽しみ方を模索しています。

 しかし、この〈ゲーム〉をより楽しく遊ぶために、〈法律〉を重視するか〈判例〉を重視するかは、ゲーマーの意向によってだけでなく、システムのコンセプトによっても、だいぶ変わってきます。
 そのことについて考えてみるために、〈法律〉レベルで面白いゲームができることを重視したゲームシステムを〈法律主義〉的ゲームシステム、現場のゲームマスターの裁定にゲームの面白さを委ねるゲームを〈判例主義〉的ゲームシステムとそれぞれ分類してみましょう。

 そうすると、たとえば、芝村裕吏氏がデザインした『Aの魔法陣』というゲームは、ガチガチの〈判例主義〉にもとづいたゲームだと言うことことになると思います。
 あのゲームは、〈ゲーム性〉という曖昧な概念をなんとなく理解し、尊重している人──“ゲーマー版リーガルマインド”を備えた人間──が運用しなければ、まったく意味がありません。成功要素の抽出や状況の提示などの具体的な基準のほとんどは、セッションデザイナー*20に委ねられているからです。『Aの魔法陣』とは、何をもって「ゲームとして魅力的な課題と考えるか」ということや、「何をもって公正な判断であるか」といったことを、まるまる現場のセッションデザイナーに投げることで成立しえたゲームシステムなのです。『Aの魔法陣』のシステムをいくら読み込んだところで、『Aの魔法陣』の面白さは見えてこないはずです。
 そのような問題について『Aの魔法陣』は、「A-DIC」と「運用教則」という2つの概念を提示することで、なんとか対応しようとしています。
 「A-DIC」は、〈判例主義〉的な『Aの魔法陣』において、裁定の基準となるルールや概念を外付けで導入することで、ゲームを高度化する手法です。たとえば、映画や小説などの二次創作的な運用をする際に、「この言葉はどういう意味として定義するか」ということを決めておけば、ゲームの公正さは、それを用意しないでセッションデザイナーの口先三寸で裁定する時よりもグンと上がります。*21
 また「運用教則」とは、腕利きのゲームマスターが蓄積してきた〈判例〉を、文章として形式化したもののことです。*22この運用教則は、ルールそのものを拡張することも削除することもありませんが、「どう使えばより面白いゲームが提供できるか」ということについての裁定の基準を示す目的で採用されます。たとえば、運用教則「/!ブリッツクリーク」を採用したAの魔法陣の運用は「Aの魔法陣/!ブリッツクリーク」という名前で表されるということになります。*23ストップウォッチを使い、行動宣言の時間に制限をつけ、プレーヤーをイジメるという方針を明確にうちだすことで、ゲームの困難さを高める方法になるわけです。*24これによって、〈判例〉を自力ではまったく構築できない初心者ゲームマスターでも、『Aの魔法陣』を運用することが可能となります。初心者に親切という点ではF.E.A.R.製品と同じ方向性ですが、「ルールとしては扱わない」という点がF.E.A.R.と異なります*25
 それ以外にも、同様の〈判例主義〉を採用していると思われるゲームで見逃せないのは、『蓬莱学園』シリーズや『語り部』などがあります。また、ある程度まではルールが整備されていますが、〈判例〉の適用に注目することで劇的に面白くなるゲームには、『トンネルズ&トロールズ』や『トラベラー』などがあります。もちろん、ほかにもいろいろとあるでしょう。

おわりに─草の根レベルで〈判例〉を多様化させることの意義

 もともとこの考えは、「Aマホの芝村さんってやたら“運用”を重視してるなあ。もしかしてRPGを英米法的に(もしくは自然法*26に)捉えているんじゃないかしらん」という考えから出てきたものです。
 しかし、法学の知識について不十分だった私はあまりその気付きをうまく言葉にすることができませんでした。今回、D16さんの話を受けて、ようやく整理できたのではないかと思います。

 ところで最後に改めて強調しておきたいのは、〈法律〉も〈判例〉も、ともにRPG製品にとって重要な価値を持っているということです。そしてこの価値は、プロが絶えず「商品」として提供するに足るだけのものがある、ということにそのままつながります。〈法律〉はルールブックとサプリメントであり、〈判例〉は雑誌記事による運用方法の紹介やシナリオ集といったものになります。私達は、その両方から恩恵を得てきたはずです。
 ところが国内では、〈法律〉の出来の良し悪しを論じるスタンスはあっても、〈判例〉の良し悪しや、それをちゃんと言葉にしていくことの意義については、あまり重要視してこなかったように思います。そのような〈法律主義〉的態度が、ゲームマスター自身が保有する〈判例〉(芝村氏言うところの「運用」)の出来不出来にできるだけ依存しないシステムデザインを、プロになかば強要しまう風潮を生み出してしまったのではないかと思います。確かに「RPG冬の時代」は、そうしないとRPGのゲーム性が守れなくなるような時代だったのかもしれません。
 私は、もし「国内のゲームマスターの腕はおおむね信用できない、なぜならゲームマスターを育てるような機関がどこにも存在しないからだ」ということを前提にするならば、そのようなシステムデザインは非常に素晴らしいものだと思います。むしろ、RPGの上達の基準が世間に普及していない時期には、最適な方法と言ってもよいでしょう。
 しかし、もし運用するのが難しいシステムでもすぐに〈判例〉が用意されるような土壌が購買者の側に育ってさえいるならば、それ以外の観点から設計されたゲームデザインが登場しても、べつにかまわないのではないかと思います。
 そして、私達はそろそろ、システムデザイナーの手を借りずとも、さまざまな〈判例〉をプレイグループのあいだでキチンと言語化し、保有していく試みを築き上げていく努力を始めるべきなのではないでしょうか。*27そういうユーザー側の努力があって、はじめてシステムデザイナー側も、多様なRPG製品の中に、挑戦的な設計のゲームを投入することができるようになるのだと私は考えています。 
 そのためにも、みんなシナリオやリプレイを買いましょう。……って、私にとってはめずらしく提灯記事的な結論を言ってるな(笑)。*28
 でも、買うだけじゃなくて、ちゃんと評価・批評するところまでみんなでやってかないと、意味がありません。「楽しむ」ための方法論をプロが提示しているのなら、それをちゃんと現場の側でも言葉にしていくことが、大事だと思いますね。

*1:私は、「このゲームでこんなところまでできる」という遊び方の提案を、私は「アクロバティックな運用」と呼んで、「典型的な運用」と区別しています。そして、D&Dの膨大なルール群をより有効に活用するためには、今後、「典型的な運用」だけではなく、さまざまな「アクロバティックな運用」の紹介も、必要不可欠になってくるでしょう。D&Dには、それができるだけのポテンシャルがあるのですから、それを知られずに終わってしまうのは、とても勿体ないことです。

*2:ちなみに、ウィザード7レベル。

*3:書いた日付がURLにしか書いていない。さすがオンライン「コラム」。あくまで「啓蒙書」であって「学術論文」ではないってことでしょうかね。ちなみに、これはソフトバンク新書で書籍化されていますので、手にとって読みたい方はそちらをお買い求めください。

*4:一部成文化されているものもあるけれど、民事等に限られていたりするし、六法ほど完全な体をなしていない場合がほとんどだそうな。

*5:「基本的には、システムデザインについて論じる能力がある人々」のこと。基本的には、“プロの”デザイナーということになる。しかし、アマチュアのゲーマーである場合も十分ありえるし、アマチュア有識者の意見がプロのデザインに取り入れられる場合も過去に多くある。

*6:ちょっと強引なので直そうかと思ったが、このまま。「システムを製品として出版・公開する能力を持った個人や組織」がRPGの立法機関にあたる。基本的には、RPGのプロダクションであるが、アマチュアの制作チームである場合も十分ありうる

*7:つまりゲームマスターのこと。

*8:これも「ゲームマスター」とほぼ同義。

*9:RPGにおける〈リーガルマインド〉が何なのかは議論の分かれるところだろうが、その究極は、「どんなゲームシステムであれ、そのゲームマスターの常識的判断や裁定のすべてが、そのRPGシステムの味となる〈ゲーム性〉を提供できるようなかたちでうまく機能する」という状態だろう。なるほど、英米法的である。

*10:これも「システムデザイナー」とほぼ同義。

*11:RPGがRPGであるためには、「半完成品のシステムの存在」「ゲームマスター(&シナリオ)によるゲームの補完」「目標の多層構造」「役割分担」「ゲームの基礎要件」の5つの条件を満たすことが必要です。これを踏まえると〈法律主義〉の完全否定はシステムデザイナーを殺し、〈判例主義〉の完全否定はゲームマスターを殺します。そしてどちらを殺しても、RPGはRPGの定義を満たせなくなってしまうのです。

*12:F.E.A.R.は、デザイン思想としては、ゲームマスターの技量が危うくとも楽しいゲームが遊べるよう、細心の注意を払っているようなシステムデザインをしているため、〈法律主義〉にかなり近い。しかし、それはあくまで日本のRPG文化が「ルール談義で肝心のゲームをしない“法律原理主義者”や、RPGのゲーム性のなんたるかをよく考えもせず面白くないゲームばっかり提供する“判例原理主義者”ばかり横行する90年代国内RPGにおける問題を解決するために、F.E.A.R.が真剣に考え出した、至極まっとうなRPGデザイン方法である。少なくとも、F.E.A.R.のルールに書かれた通りに遊べば、「まともなゲームを遊べずに一日が終わる」という事態をかなりの確率で回避することができる。むしろこのようなシステムデザインが考え出されなければ、日本のRPG文化は、製品流通のレベルでは本当に軒並み潰れていたかもしれない。この点では、F.E.A.R.の功績は讃えられなければならないだろう。「ゴールデンルール」は、「RPGの本質はルール通り遊ぶことだ」と“誤解”しがちな日本のRPGゲーマーのためにわざわざ用意された、F.E.A.R.的RPGデザインの究極形なのである。

*13:本エントリ後半の『Aの魔法陣』に関する言及を参照。

*14:今回のD16さんの主張がコレ。

*15:Vampire.S氏の「ポリシー/メカニズム論」などはまさにこれ。そして、「RPGシステムは、このレベルの品質を最低限保証しなければならない」という発想は、既にF.E.A.R.が積極的に実践しており、成功を収めている。

*16:多くのRPGシステムは、このせいで「飽きた」と思われて捨てられることが非常に多い。〈判例〉を軽視してはならない理由の一つである。

*17:この〈ゲーム性〉を定義するのは、おそらくこの世のあらゆるデザイナーにとっての課題だと考えてよいでしょう。コスティキャンが定義した〈ゲーム〉の7要素は、ゲームをゲーム足らしめるための条件をのべたものではありますが、「すぐれたゲーム性」を定義するものではありません。私が誰かに定義して欲しいくらいです。

*18:もちろんここでは、先日私が述べた「典型的な遊び方」と「アクロバティックな遊び方」を念頭においています。この2つの遊び方の両方に適した〈判例〉を考えるべきだ、というのが、私の立場です。

*19:異論がある方もいらっしゃると思いますが、私は一応そのように考えています。

*20:いわゆるゲームマスター

*21:ただし、これも用意しすぎると膨大な資料を読み込むことになり、重くなるという問題がある。

*22:芝村氏はこれを「ビンゴブック」とも呼んでいるそうです。

*23:つまり、「(採用した法律集の名前)/!(採用した判例集の名前)」という書式を念頭においているわけですね。芝村さんは〈法律〉と〈判例〉の両方があってはじめてRPGはゲームになるのだ、という思想を持っているのではないかと思います。

*24:「/!ブリッツクリーク」とは、本当にそういう運用です。

*25:したがって「運用教則」は、ゲームマスターが各自で編纂・保持する「ハウスルール」とは違うわけです。私が〈判例〉にハウスルールという用語をあてていないのは、このような認識によります。『Aの魔法陣』で「ハウスルール」となるのは、むしろA-DICの方でしょう。しかしこれも、あくまでルールを「拡張」するだけであって「改変」するわけではありません。

*26:実定法のみを「法」として認める立場を「法実証主義」と言うが、RPGではルールが一番エラいとは限らない(むしろ偉いのはゲームマスターであり、ゲームマスターよりさらに偉いのがみんなの認める「ゲームの面白さ」だ!)とする立場から、

*27:確かに、そうした努力は、各自のWebサイトや同人活動、TRPG.NETや2ちゃんねる卓上ゲーム板などで為されてきたかもしれません。しかし、それが一貫した論理性をもった、誰もが参照したその日に活用できる有用な体系として構築されたことは、プロの製品以外では、あまりなかったように思います。むしろそうした努力をもっとも製品レベルで展開したのが、F.E.A.R.社の一連の製品であったように思います。しかし、本来このような努力は、現場のセッションレベルで適切に指導してくれる人や、そのような指導者が参照すべき共通の訓練規則などが豊富にあれば、システムデザインそれ自体と分離しても構わないものであるはずです。そのような考えで改めて国内RPG業界を見ると、システムデザインだけがそのような責任を背負わされている現在の状況は、いささかイビツな、発展を阻害している構造になってしまっているのではないかと思うわけです。そしてそれは、システムデザイン側の責任というよりは、現場の私たちの方に問題があるのではないかというのが私の考えです。

*28:別に提灯記事的なことはいくらでも書けるのですが、アマチュアの私がそんなことを書く義務はありませんし、貰えたとしても自分が本気で褒めたいゲームでもない限り、あまり書く気にはなれません。そのぶん、今までRPGを遊びそうもなかった人(ファンタジーやSFや歴史の強要がない人、まんが・アニメにぜんぜん詳しくない人、自分でキャラクターを演じることにあまり魅力を感じない人などなど)にもRPGを楽しんでもらうための方法を考えたほうが、私にとってはやりがいがあります。