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RPGにおける3つの遊び方─典型的・アクロバティック・理想的

 『RPG日本』の鏡さんが、〈意図〉と〈自由/管理〉の関係について、さらに補足してくださいました。

■鏡,2007.09.16「制限の中の自由、制限の中の管理」『RPG日本』
http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/09/post_94.html

 鏡さん、どうもありがとうございます。「今後の貴考察の参考にならなくとも」と謙遜されていますが、まったくそんなことはありません。非常に有益なお話を聞かせていただきました。

 詳しい感想やコメントは後半で述べさせていただきましたが、まず、鏡さんと私とで、〈制限〉の考え方がまったく同じであるということがわかって、とても安心しました。RPGに関する議論で、使われている術語の意味合いが同じだと感じられるのは、ものすごく珍しいことだと個人的に思っています。

 私は〈制限〉という言葉を、馬場秀和さんの一連の文章から定義して使っているのですが*1、馬場さんも鏡さんも(そして私も)、「背景世界」「ルール」「システム」をすべてひっくるめて〈制限〉と考えているという点“においては”*2同じです。

 なので、今回の〈制限〉と〈管理〉の違いは、私にとってとてもわかりやすく、また非常に納得のいくものでした。
 さて、以下より、その〈管理〉という言葉についての鏡さんの議論を私がどう解釈したのか、述べていきたいと思います。
 なお、このエントリの結論だけ先に述べておきます。

■高橋2007.09.16「RPGにおける3つの遊び方」の論旨:
 RPGには〈典型的な遊び方〉と〈アクロバティックな遊び方〉の2つがあり、どちらもRPGを遊ぶ上では適切かつ重要な遊び方であるが、一方で〈理想的な遊び方〉というものはありえない(否定されるべき考えである)。

 このことさえ伝われば、このエントリの目的はとりあえず果たされたことになります。
 また、本文中で特別な意味を与えられている言葉もあります。迷わないように、そういった言葉を以下に列挙しておきます。「何を言っているのかわからない」という時は、以下の言葉がどのような意味で使われているのかという前提が共有できていない可能性をまず考えてみてください。
 私は今回の記事で、少なくとも以下に出てくる言葉については、それがどのような意味であるかを、本文中や注釈などに示したつもりです。ですから、いささか面倒をおかけすることは承知の上で、以下のキーワードがどういう風に定義されているのかを探しつつ、読んでみてください(別に隠しているわけではないので……)。

■頻出キーワード(特別な意味を与えられた言葉たち):

  • 〈制限〉
  • 〈意図〉
  • 〈自由〉
  • 〈管理〉
  • 〈典型的な遊び方〉
  • 〈アクロバティックな遊び方〉
  • 〈理想的な遊び方〉

 それでは、はじめましょう。

〈管理〉が生じる2つのステップ

 鏡さんは〈管理〉*3という状態が、2つのステップで生じるものだと考えています。

 〈管理〉への1つめのステップは、「ゲームデザイナーの〈意図〉」が〈管理〉にまで進んでしまう時です。

 卓上RPGゲームデザインにおいて、あらゆるルールシステムや世界設定は「キャラクターへの制限」です。それらをデザインする際、「これらをどう使えば楽しめるか、こう用いると面白いだろう」とは、ゲームデザイナーの誰もが想定するでしょう。それ以上考えないデザイナーも少なくありませんが、更に進めて「これこそ正しい使い方である、この通りに遊ばれるべきだ」という結論に至る者もいます。後者のようなゲームデザイナーが至った結論、即ちゲームマスターやプレイヤーを「管理」して成し遂げさせようとするその内容を、私は「ゲームデザイナーの意図」と呼んでおります。
(鏡2007.09.16)

 しかし、〈管理〉は、これだけではセッションには何も影響を及ぼしません。〈管理〉が2つめのステップに進むのは、ゲームマスターが「ゲームデザイナーの〈意図〉*4」を仮定し、それを何が何でも守らなければならないと考えた時です。

 そしてゲームマスターやプレイヤーにも、「キャラクターへの制限」を用いて自分が面白いと思うように遊ぶ者と、「ゲームデザイナーの意図」通りに遊ぼうとする者とがいます。前者は仮に「ゲームデザイナーの意図」があっても、従うか無視するかを随時自分で決めます。後者は「ゲームデザイナーの意図」が必ずあると思い、むしろ無いと困るので、明確でなければ自分で解釈して作ってしまいます。後者の場合、勝手に作ったものであっても、つまらなかった責任はゲームデザイナーに押し付けられます。
(同)

 つまり鏡さんの〈管理〉は、

  1. ゲームデザイナーが「こう遊ぶべきだ」と意図して〈制限〉を作成すること
  2. ゲームマスターが「ゲームデザイナーは『こう遊ぶべき』と考えているはずだ」と意図して〈制限〉を運用すること

 この2つのステップを踏むことであり、それにによって〈管理〉はゲームをつまらなくさせる、ということのようです。*5
 この条件を満たすようにゲームデザイナーやゲームマスターが行動することは、しばしばセッションの面白さを損なう原因になりやすい。これが鏡さんの主張であると、私は解釈しました。遊び方に「唯一の正解」を認めると、ゲームは途端に息苦しいものになる、ということなのだと思います。

2つの遊び方─「典型的」と「アクロバティック」

 私も、このような意味での〈管理〉は、なるべくセッションから除外すべきだと思います。

 ……もしかすると、この私の表明を、意外に思われる方もいらっしゃるかもしれません。なにしろ私は先日、「システムデザイナーは隠れた目標を用意している」と言ったばかりですしね。*6鏡さんが言った意味での〈管理〉を無批判にやっているのではないかと思われてもしかたありません。
 しかし、実は私も、鏡さんが言うような意味での〈管理〉を否定的に考えているのです。その理由を、これから述べさせていただきます。

(以下の考えは、今回はじめて書くことですから、面食らう方もいらっしゃるかもしれません。ですが、常識的に考えてみれば、べつだん新しいことを言っているわけではないので、どうぞ安心してお読みください。)

 まず私は、RPGをセッションする場においては、〈典型的な遊び方〉〈アクロバティックな遊び方〉の2つがあると考えています。

 〈典型的な遊び方〉とは、「ルールやシナリオから帰納的に考えていけば、まあだいたいそういう遊び方が推奨されているよね」*7という解が導き出せるシステムを選び、その解に基づいて無難なセッションを運営することです。

 一方、〈アクロバティックな遊び方〉とは、「ゲームデザイナーがどう考えているにせよ、このルールシステムはこのように使うことでより面白いゲームをデザインできるはずだ」と、ゲームマスターやプレーヤーが解釈することで新しく編み出される、かなり変わったシステム運用によってセッションが運営されることです。
 そして私は、RPGには「唯一無二の遊び方」というものがありえない(理由は後述)にせよ、〈典型的な遊び方〉については、システムデザインの適切な「読み」や「解釈」から導き出すことは十分可能である、と思っているのです。
 鏡さんの〈自由〉*8がRPGセッションにおいて十全に発揮されるのは、この〈アクロバティックな遊び方〉においてです。RPGの上級者は、多かれ少なかれこの〈自由〉をうまく扱えなければ、RPGのほんとうの旨みを引き出すことはできませんし、RPGの面白さを十分に味わうこともできません。ですから、ゲームに上達する人は、いかに〈典型的な遊び方〉から離れて〈アクロバティックな遊び方〉を目指すか、ということを、誰に言われずとも自然と考えるようになります。〈典型的な遊び方〉だけにこだわっていては、この境地にはたどり着けません。
 しかし、注意していただきたいのは、このような2つの遊び方は、どちらも〈管理〉を前提としたものではない、ということです。
 〈アクロバティックな遊び方〉の方はすぐに納得していただけると思いますが、〈典型的な遊び方〉の方は、わかりにくいかもしれません。「ゲームデザイナーの意図」を忠実に汲もうと努力するのは、結局〈管理〉と同じなんじゃないか?──そう考える方もいらっしゃるでしょうから。
 しかし、そのような手続きを受け入れたとしても、そのシステムにおいて〈アクロバティックな遊び方〉があることを否定しなければならない理屈はありません。むしろ〈典型的な遊び方〉は、常に〈アクロバティックな遊び方〉を楽しむ前の予行演習、準備段階として捉えられ、セットで考えられるべきだと私は考えます。後で述べる〈理想的な遊び方〉とは違い、〈典型的な遊び方〉は、それよりもより面白い遊び方があることを否定しないのです。
 能の言葉に「守・破・離」〔しゅはり〕という言葉があります。師匠の教えを最初は忠実に守って(守)、それから自分の個性を少しずつ見出し(破)、最後に師匠のもとを離れ、自分自身の芸を展開していく(離)という、芸事の理想的な上達段階を示したものです。
 そして私は、TRPGにもこのような遊び方があるのではないかと思っているわけです。〈典型的な遊び方〉を考えるための方法論(システムデザインの解釈論)を私が論じはじめたのは、最終的に〈アクロバティックな遊び方〉ができるところまで着実に上達するための“最初の一歩”を、システムデザインのレベルだけではなく、現場の運用レベルでもサポートしようとしているからなのです。
 〈典型的な遊び方〉のための方法論をうまく構築できれば、実力もないのにいきなり〈アクロバティックな遊び方〉を目指して破綻してしまうRPG初心者を救うことができます。そのためには、「どうシステムを解釈すべきか」という方法論が整備されている必要があります。そしてその方法論は、「唯一無二の正解」を導き出すための方法論などではなく、「とりあえず誰もが無難に楽しく遊べるような、スジの良い解釈」をするための方法論に過ぎないわけです。

〈理想的な遊び方〉は否定されるべきである

 このように、「典型的/アクロバティック」は、相互の遊び方を否定せず、むしろ補完し合います。したがって、鏡さんの指摘した〈管理〉とは無関係ですし、この2つの遊び方を理解していさえすれば、〈管理〉がゲームをつまらなくさせるような事態を避けられるはずです。
 では、どうしてRPGにおいて〈管理〉という状態が出てきてしまうのでしょうか。次はこのことについてもう少し突っ込んで考えてみます。

 まず確認しておきたいのは、「RPGシステムは、ゲームデザイナーの手を離れて消費される以上、“唯一無二の絶対的に正しい遊び方”を決定することができない」ということです。これは、私たちが小説や映画を見たときに「理想的な鑑賞の仕方」を実践することができないのと同じです。
 たとえば、最近ブームになっているニコニコ動画で流れているコメントがあります。あれを見て、「これの中でもっとも正しいコメントは何だろう」と考えはじめるような人はおそらくいないでしょう。ほとんどの人は、「面白い」か「つまらない」かで判断するはずです。そこにわざわざ「正当性」とかいうものを見出すような不毛なことをやりはじめ、なおかつ「このコメントはああだこうだ」とか「このコメント欄はこうであるべきだ」などとコメントに書き出すような人は、まあ当然のことながら“空気嫁”ということになるでしょう。なにしろ、そういった主張の「正当性」を保障する理屈もなにも、あったものじゃありません。*9
 それとまったくおなじように、〈理想的な遊び方〉というものを前提としてRPGデザインを論じることは、不可能ですし、不毛なことなのです。

 さて、このように、文芸批評において「理想的な作者」や「理想的な読者」といったものが否定され、受容理論やテクスト論が生まれたのとまったく同様*10、RPGにおいても〈理想的な遊び方〉というものの存在が否定されるべきだと、鏡さんは主張しているのではないでしょうか。もしそうだとするならば、私もその立場に賛同したいと思います。私たちはシステムデザイン・マスタリング・プレイングの3者それぞれに与えられた〈自由〉を行使して、RPGセッションの構築に関わるべきでしょう。そこに〈理想的な遊び方〉や〈管理〉といったものを前提する必要はありません。
 しかし一方で、その〈自由〉を扱う技量には、どうしても「うまい/へた」の基準が出てくるはずです。私たちは感覚的に「うまい・面白いセッション」と「へたな・つまらないセッション」との違いを、言語化できないまでも、“な〜んとなく”把握していますよね。
 そのうちの「へたな・つまらないセッション」を回避するためには、まず〈典型的な遊び方〉というものを想定する必要があります。そしてそのような〈典型的な遊び方〉の解釈への取り組みは、〈理想的な遊び方〉とはまったく別の、たとえばバスケットボールで言えばドリブルやサイドステップなどの「基礎練習」にあたるものを、RPGにおいて見出す試みとまったく同じはずです。〈典型的な遊び方〉を知らない人にいきなり〈アクロバティックな遊び方〉を期待するのは、(最初から才能があったり、がむしゃらに遊んできた経験則を抱えたエリート・ゲーマーは例外としても)ムリな話でしょう。そして、エリート・ゲーマーのやり口を初心者に薦めるだけで終わらせてしまうのは、RPGをもっといろんな人に楽しんでもらうにあたって、非常にスジの悪いやり方と言えるはずです。
 〈アクロバティックな遊び方〉ができる優秀なゲーマーを輩出するためにも、まず〈典型的な遊び方〉をこなせるゲーマーを多く育てよう。この順序は、それなりに妥当なものであると私は考えます。

まとめ:3つの遊び方(このうち2つだけが、適切な遊び方である)

 上にのべた話を整理すると、次のようになります。定義は注釈をご覧下さい。

  • ○:〈典型的な遊び方〉*11
  • ○:〈アクロバティックな遊び方〉*12
  • ×:〈理想的な遊び方〉*13

 このような分類をした上で、私は〈典型的な遊び方〉のために必要なシステム解釈の方法論を論じることが「有益」であると考えているのでした。*14
 しかし、この作業が〈理想的な遊び方〉という不毛なものを論じているように考えられたのであれば、それはひとえに、誤解させてしまった私の責任でしょう。ここに訂正させていただきます。
 私は、RPGにおいて〈理想的な遊び方〉などない、と考えます。
 そこには、「うまい・面白いゲーム」と「へたな・つまらないゲーム」があるだけです。

謝辞

 鏡さんのおかげで、先日書いた文章のコンセプトを整理することができました。鏡さん、どうもありがとうございます。

*1:私はこの〈制限〉を〈制限/情報〉という言葉でまとめている。私の〈制限/情報〉の定義は以下:「〈参加者〉〈意志決定〉を下すにあたって事前に判断材料として与えられる〈情報〉と、〈意志決定〉の際に守るべきものとして規定されたさまざまな〈制限〉とを合わせたもの。〈情報〉も〈制限〉も、ある〈選択肢〉の価値を高めたり低めたりするという点で、等しく〈意志決定〉を支援する機能を持つ(そのため、これらをまとめて「意志決定支援メカニズム」とも呼ぶ)。〈制限/情報〉は参加者の〈意志決定〉を支援するのに必要十分な量でなければならず、複雑すぎても単純すぎてもいけない。また、〈制限/情報〉は通常、数値処理に適した定量的なモデルで与えられることが多いが、一方で数理モデル以外──たとえば、文芸的な趣きをもつ文字情報など──の形式で与えられることもあり得る。RPGの場合、「ルール」「データ」「システム」「世界設定」「キャラクターの立場」といったものがこの〈制限/情報〉にあてはまる。コスティキャンが定める〈ゲーム〉の7要素の1つであるが、ここでは馬場(1996-7)の「制限」に関する主張も一部取り入れた上で再定義している。」(Costikyan[1994]1995,2006)(馬場1996-7)

*2:こういった一部の類似を指摘したからといって、「馬場と鏡は“完全に”同じ立場に立っている」などと言うつもりはまったくないことを、ここに付け加えておきます。本当はこのようなことは当たり前のことで、わざわざ補足をつける必要もないとは思うのですが、万が一誤解する人が出ると、鏡さんにご迷惑がかかりますので。

*3:鏡さん自身による定義はリンク先を参照。ここで語られた〈管理〉の2つのステップを、私は今回の話を受けてここで再整理している。

*4:鏡さんがどのように使われているかははっきりしないのですが、私は以下のように定義します:「自分が面白いと思うものを表現する〈自由〉を行使して、具体的なゲームの〈情報/制限〉を作成し、他のゲームの参加者にそれを提示すること。またその提示したものそれ自体。」

*5:鏡さんによれば、「〈管理〉は必ずしもゲームをつまらなくさせる要素ではない」と考えているようですが、プレーヤーやゲームマスターが本当に面白いと思うゲームとは異なるゲームを生み出してしまいがちな点で、“こまった考え方”に属するものだといえるでしょう。鏡さんによれば、〈意図〉の行き過ぎたものが〈管理〉なのですから、それぞれの〈意図〉のレベルにとどめておくことが、セッション運営においてもっともスマートではないかと私は考えます。ちなみに私は、「〈自由〉と〈意図〉の相互作用がどのように噛み合わされば、RPGという営みはより面白くなるのか」というテーマについて興味を持っています。その場合、よりよい〈意図〉(つまりよいデザイン、よいマスタリング、よいプレイング)とは何か、という評価基準が問題になってくるからです。これはRPGをプレイする誰もが知りたがっていることなのではないでしょうか。

*6:本当は「語られているだけではなく、示されている」と言った方が適切だったかもしれません。そしてあの文章は、システムデザイナーがどのような〈制限〉を提供してくれているのかを明確化するための作業に過ぎません。特に〈管理〉を志向したものではないわけです。

*7:もっとも、へたなシステムデザイナーによって作られた不完全なゲームシステムはこの解釈に必要な要素が揃っていなかったりしますが、ここでは考えないものとします。少なくとも近年市場に出回っているシステムは、〈典型的な遊び方〉を構築する上では、ずいぶんと品質の高いものになっているように思います。

*8:ゲームの参加者が皆、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」といった「自分の決断」によってゲームプレイに関与し、それがそのまま過程や結果に活かされることを、鏡さんは〈自由〉と呼んでいる(典拠はこちら)。私はこれを受けて、自由を以下のように定義する:「システムデザイナー、ゲームマスター、プレイヤーのそれぞれに、“RPGのセッションをより面白いものにする”という目的で〈意図〉を提案する権利が保障されていること。」これが〈管理〉などで保証されなくなった場合、ゲームの面白さは制限されてしまうだろうと鏡さんは考えているようだ。

*9:今後そういうのをマジで論じる人もいるかもしれませんが、そうなったとしてもナンセンスなことに変わりはありません。

*10:詳しくは石原千秋ほか,1991『読むための理論─文学・思想・批評』世織書房、または野家啓一,2005『物語の哲学』岩波書店.などを参照してください。もちろん、読まなくてもこの話は十分成立するように書いていますが、なぜ「理想的な○○」が否定されるのかを、より詳しく知ることができると思います。

*11:システムデザインによって与えられたルールやシナリオから帰納的に推論していけば、どんな遊び方が推奨されているかがある程度明快に把握できるシステムを選択し、その解釈に基づいて無難なセッションを運営すること。システムデザインがどのようにゲーム性を提供しているかを楽しみながら学ぶには最適な遊び方。

*12:システムデザインに示された要素をもとに、ゲームマスターやプレーヤーが自由にシステムデザインを解釈し、その解釈にもとづいて自由にセッションを運営すること。どうすれば面白いゲームが成立するかをある程度理解している上級者なら挑戦しても構わないが、そういったスジを理解していない初心者にいきなり強要すべきではない。

*13:文芸批評における「理想的な読者論」と同じく、特定のシステムには唯一にして絶対のルール解釈があると信じて、その通りにゲームを運営すること。これはRPGにおいては否定されるべき遊び方である。

*14:そして高橋は、〈典型的な遊び方〉の水準でも非常に面白いゲームを遊べるような、そんなシステムデザイン批評の方法論を考えることで、「よいシステム」を選択するための客観的な基準の一つを、未来のRPGユーザーに提供することができるのではないかとも考えているわけです。それが、先日言った“ほめの理屈”というものなのです。……つまり、ここでは「A.ゲームマスターの技量向上」と「B.製品批評の方法論構築による市場の発展」の2つの達成目標が想定されているのです。Aが〈典型的な遊び方〉、Bが“ほめの理屈”と関連付けられます。そしてこの2つは、どちらも「システム解釈の方法論を構築すること」で達成されるはずです。