GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

マリオ型TRPGシステムデザインは可能か――「ゲームの成立」をめぐって

 acceleratorさんのまとめリンクによると,何度か「RPG上達論」が話題に上ってるみたいです。
 上達論それ自体ではなく,「上達すべき」というベキ論に対する疑問が中心となっているようです。

2009-09-1309/07-09/13
「もっとTRPGを巧くなれって論調が好きではない」
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20090913/p10

 これについて,昨日人と話していたら結構面白いアイディアがまとまったので,ここに書いておきます。

ゲームを成立させるための5つのプロセス,2つのアプローチ

 私は『ロールプレイング・ゲームの批評用語』をまとめたこともあって,TRPG論としては馬場秀和さんの主張を完全に継承している,としばしば思われがちです(まあ,おおむねそうとも言えるのでいちいち反論はしないのですが。時間の無駄なので)。しかし細かい点では色々と違いがある。今回の「上達」論についても同じことがいえます。私は馬場さんの上達観のうち,「プレイヤーの上達」についてはあまり重視していません*1。代わりに馬場さんが整理した「ゲームマスターの上達」については明確に支持している。
 どうして私が「ゲームマスターの上達」を支持して,「プレイヤーの上達」を軽視するのか。それは,あるポリシー(=ゲームが設計される目的)に沿ってゲームメカニズムが提示される,という手続きがTRPGにおいてあるとして,そのゲームに適応するリテラシーが常にひとつであるとは言えないからです。
 数日前のエントリでも言いましたが,TPRGにおける「ゲーム」とは,以下の5つの作業プロセスを経て,プレイヤーに提示されます。

TRPGにおいて,ゲーム成立のために必要な5つのプロセス(高橋2009)

  1. 基礎メカニズム設計
  2. カニズムの改造
  3. ボード設計
  4. ギミックマニュアル設計
  5. セッション運営

 「1.基礎メカニズム設計」とは,そのゲームのおおまかな骨格を示すものです。たとえばD&DであればD20システムとレベルアップシステム,マルチクラス,特技,呪文,グリッドマップシステムなどの,ゲームを成立させる大まかなルールやデータ“についての指示”*2のことです。いわゆる〈システムデザイン〉と呼ばれてきたものを想定していただければよいでしょう。これは「ルールブック」や「サプリメント」といった名前で,商業TRPGデザイナーから豊富に提供されています。
 次に「2.メカニズムの改造」,これは「基礎メカニズム設計で想定されていた一定の用途をさらに限定し,特定の方向にメカニズムを改造する」という作業のことです。これはシステムデザイナー自身が提供する場合もありますが,ここでは〈ゲームマスター〉によって為されるケースを想定した方がわかりやすいでしょう。
 次に「3.ボード設計」とは,「つくられたメカニズムによって描写される,ゲーム的な状況設定のこと」をさします。基礎メカニズムとその改造を経た,あるメカニズムによって記述されます。たとえばD&DD20システムであれば,「エベロン」や「フォーゴットンレルム」という世界の設定情報が,D20システムというメカニズムによって記述されます。
 ここまで出来ていれば,後はその都度ボードを解釈して,プレイヤーに解決すべき課題を提供するゲームマスターがいれば良い,という話になります。しかし,それではやはり「熟練したゲームマスター以外できない」という話になってしまいます。そこで,「4.ギミックマニュアル設計」が必要となります。ギミックマニュアルとは,TPRGにおける「シナリオ」を言い換えたものと考えてください。より正確に言えば,「ボードによって設定された状況とPCとのあいだで予測されるだろう相互作用を,一定量のゲーム課題として抽出し,選択された特定のメカニズムで記述した手続き書」です。これがあれば,暗黙知とされていたゲームマスターの実力をある程度までエミュレートすることができます。これが手元にあることで,「メカニズムとボードしかない」という状況でのセッション運営よりも,安定してゲームを提供することが可能になります。
 最後に,これら1−4のよく設計された情報を持ち込んで,プレイヤーたちにゲームを提供する参加者が必要です。ボードゲームの文脈ではインストラクタとかファシリテータとか,そういう名前で呼ばれることもありますが,これまでこの作業を行う者は(事前のすべての作業も含めて)〈ゲームマスター〉と呼ばれてきました。セッションを運営するこの特別な参加者(ホストプレイヤー)は,「基礎メカニズム」「メカニズムのうち,改造された点」「ボード」について最低限の説明をした上で,「ギミックマニュアル」の指示する手続きに従い,ゲームを運営する,ということになります。
 さて,本題に入ります。
 どんなTRPGシステムであれ,ここまでの作業行程(メカニズムの改造は省いていいとしても)を経なければ,TPRGのプレイヤーに安定して「ゲーム」なるものを提供することは難しいでしょう。私はこの5つのプロセスが,セッションの現場において実現していることを(TPRGという表現形式における)〈ゲームの成立〉と呼びたいと考えています。
 そして,この〈ゲームの成立〉が,所与の状況によって与えられていない状況を「〈設計〉の不備」と呼びます。
 さらに,そのような「〈設計〉の不備」をものともせず,現場の,ゲームマスター/プレイヤーの努力によって埋め合わせ,〈ゲームの成立〉を引き寄せることを「〈運用〉によるゲームの補完」と呼びます。
 今言ったことを整理すると,このような構造になります。

  • 〈ゲーム〉の成立/不成立
    • 〈設計〉による成立の実現(ゲームの設計)
    • 〈運用〉による成立の実現(ゲームの補完)

 したがって,TRPGにおいて「ゲームを成立させる」ことを目標とした時,大きく分けて二つのアプローチがある,ということがここから言えます。「設計者責任論」と「運用者責任論」です。設計者はシステムデザイナーとゲームマスター,運用者は現場のゲームマスターとプレイヤーです(どちらにもゲームマスターが入り得るのが特徴です)。
 TRPGに対して上達論が盛り上がった時に決まって出てくる批判,「TPRGに上達など問いようがないじゃないか」というのが出てきますが,それはTRPGにおける「ゲームの成立」の責任が,〈システムデザイナー〉〈ゲームマスター〉〈プレイヤー〉の三者に分散しており,どれか一つに責任を集約しても,いびつな議論になってしまうからなのです。

まとめ:「ゲームの成立」に上達を要求することの限界

 前節で,「メカニズム」「改造」「ボード」「ギミックマニュアル」「セッション運営」の5つのプロセスがTRPGの〈ゲームの成立〉を支えていること,そのプロセスを支えるアプローチとして〈設計〉と〈運用〉の2つのアプローチがあることに言及しました。
 このBlogをたびたび読んでらっしゃる方ならおわかりかと思いますが,私はTRPGにおいて〈設計〉と〈運用〉とのどちらかを選べ,というなら,悩んだ末に〈運用〉の方を取ってしまう人間です。それは,TRPGというゲームが「ゲームデザインのための道具を利用し,発話のやりとりによって成りたつゲーム*3を設計する」という,道具設計者とゲーム設計者の二段階をふまえた創造だと考えるためです。楽器制作者のノウハウと,特定の楽器のために作曲する作曲者のノウハウが異なるように,システムデザイナー(=ゲームデザインツールの設計者)とゲームマスター(=現場にゲームを実現させるゲームデザイナー)のノウハウは,違っている。そういう考えを持っています。
 ところでTRPGには,ボードゲームからの根本的な批判があって,「現場の人間がゲームを補完しないと遊べないゲームは,単なる欠陥品ではないか?」ということがしばしば言われます。それに対して「いや,そこを〈補完〉するのが面白みなんだよ」というのは簡単ですし,TRPG文化になじんだ人に取っては直感的に正しいかもしれませんが,それは適切に問題に答えたことにはなっていません。それは「ゲームを成立させるための営みが,それによって成立したゲームと同様面白い」と言っているだけで,「ゲームが成立しなかった場合のリスク」について何も応えられていないからです。そして,ゲームを補完するための技術=TRPGにおける上達,という図式は,いつまでも消えない。
 もし,「ゲームの成立を補完する技術は,TRPGを楽しむためには本質的に必要である」と主張すれば,それは「TRPGには(ゲームを補完するための)上達が必要である」という論理的帰結が出てきます。
 反対に,「ゲームの成立を補完する技術は,単なる製品の欠陥であって,本質的でもなんでもない」と主張すれば,「TRPGにおける上達は考えなくてよい,それはすべてデザイナーの設計責任だ」ということになります。
 このくいちがいに私はどう答えるか。私は〈ゲームマスター〉〈プレーヤー〉〈システムデザイナー〉三者に場合分けして,以下のように答えます。

TRPGにおける「上達」に対する3つの立場(高橋 2009)

  • GMの上達について「ゲームマスターが5つのプロセスを完備する限りにおいて,上達は必要であり,具体的にそのカリキュラムを示す事もおそらく可能である,そしてそのようなゲームマスターの技術は,システムデザイナーの仕事と連携しうるパフォーマンスとなり,金を支払う価値もあるだろう。ただしその個々のパフォーマンスを単純に同じ評価軸で比べる事は,“どのゲームジャンルが一番面白いか”を論じることと同様,難しくなるだろう。」
  • PLの上達について「しかし一方で,ゲームマスターの多様性にプレイヤーは適応しきれないのだから,プレイヤーの上達について論じるのは“どのゲームジャンルが一番面白いか”という議論と同様に不毛であり,個々の成立したゲームを構造的に批評する事でしかアプローチできない。しかし,もしGMやSDが示すゲームについて習熟したいという感覚が生まれたなら,その習熟の過程について目を向ける価値はあるだろう」
  • SDの上達について「メカニズムデザインはTRPG文化において数少ない商業的に評価される対象なのだから,“市場のニーズを捉え,開拓している才覚”も含めて,巧拙を論じる対象になる。また,ゲームマスターのプロセスをより完全なものにするためにも,システムデザインに上達概念がないということなどは考えにくい。ただしこれは〈メカニズム〉から,明示化されていないものも含む〈ポリシー〉を背景として丁寧に読み取らなければならない」

 こんな感じになります。もうちょっとくだけた感じでまとめると,

  • ゲームマスター:プロセスのどこを請け負うかによって,「上達」が必要かどうか決まる。多くのプロセスを請け負うほど,成立するゲームの幅は広がる。
  • プレイヤー:提示されたゲームによっていくらでも適応のノウハウが変わるんだから,TPRG一般の「上達」というものはあまり考えなくてよい。ただしゲームコンセプトが検討可能な程度に絞り込まれていて,知らないと楽しめないようなものをどうしても楽しみたいなら,特定ゲームジャンルの「上達」は考えた方がいいかもしれない。
  • システムデザイナー:ゲームマスターのプロセスと関わるので,「上達」(というか,道具設計の巧拙)の概念は当然,必要。

 という感じになります。基本的に,システムデザイナーと,“システムデザインの細かいところを自分でも色々挑戦してみたい”ゲームマスターだけ「上達」について考えた方がよくて,後はできるだけ考えないで自然体でいて楽しめるような環境があって当然(そんな環境が無いのはTRPG文化の不備だ),という立場になります。ちょっとややこしいかな?

アドバンスドな話:マリオ的TRPGシステム,リテラシーゼロから始めることば遊び

 で,ここから駆け足で応用的な話になるんですが,「5つのプロセスを,ゲームマスターにも,プレイヤーにも補完させない,そんなかたちのTRPGシステム」があれば,それは完全に「設計者責任論で作られたTRPGシステム」ということになります。ようするにこれはTRPGというゲームジャンルのリテラシー*4を一切求めないで,しかしTRPGリテラシーをむりやりインストールさせるようなゲームに等しい。これは00年代に入ってからのF.E.A.R.や,ここ2年ほどの冒険企画局が,それぞれ別のアプローチで取り組んでいるものでもあります。この取り組みをより理念的な方向にまとめるなら,宮本茂ゲームデザイン,「マリオ=ゼルダ的」なTRPGシステムは可能か,ということになってきます。
 『スーパーマリオ・ブラザーズ』には,説明書がなくても8−4までたどり着けるようなデザイン上の工夫が沢山盛り込まれています。マリオやテトリステトリスは宮本のデザインではないですが)が未だに「ゲームを遊ばない人たち」にもデジタルゲームの事例として受け入れられているのは,それが「リテラシーゼロでも遊べるゲーム」として設計されていた,“誰でも迷わず遊び方を理解して遊べた”という点が,非常に重要な点だと思います。
 そして,TRPGを「言葉遊びの一種」と捉えたとき,「言葉をやりとりすることが可能な環境で,だれしも『マリオ』や『ゼルダ』のように迷い無く遊べるような,そんなゲームデザインは可能だろうか?」こういうことを問いかけることが,〈設計〉の立場からTRPG デザインを考えていく上で重要なポイントになるのではないかと思います。
 以前,「水平思考推理ゲーム」というゲームを紹介したことがあります。このゲームは,プレイヤー側が自由な発話ができる一方,出題者側は「はい,いいえ,関係ない」の3つの言葉しかしゃべれないというルールを与えられている。
 このように,環境の側が,参加者の取りうる行動を制限する,という発想は,D.ノーマンのインターフェイス・デザイン論にも出てくるものです。もしかすると,来るべき「リテラシーゼロから遊べるTRPG」とは,こうした「迷いなくことばをやりとりできるレベルまで,GMとPL双方のことばの選択肢を絞り込んだゲーム(しかし再現できるシチュエーションには富む)」というようなものになるのかもしれません。
 芝村裕吏さんによる『Aの魔法陣』や『ロータスシティ』は,この「ことばの絞り込み」に関して,「成功要素」と「コマンド選択方式」という2つのアイディアを提示したものですが,やはりデータが増えすぎてしまい,一見さんが『マリオ』レベルで理解できるものになっているかというと,少し違う(リテラシーがある程度インストールされている私にとっては,とても面白いのですが)。
 というわけで,どなたか,「TRPG界のマリオ」にあたるような,リテラシーゼロから遊べるTRPGシステム,作りませんか。

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

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テレビゲームの神々―RPGを創った男たちの理想と夢

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*1:もちろん〈目標の多層構造〉という概念は,プレイヤーがゲームの楽しみをあとで分析する手法としてはとても優れているのだけれど,それはあくまで「批評的な味わい」とでも言うべきものであって,すべてのプレイヤーに必要とは言えません。たとえば,ある小説がある読者にとって「つまらない,糞本だ」と評価されたとして,そんな読者に対して「君は文芸批評というものをまったく理解できていない」と言うのは,かなり厳しい要求となります。誰もが文芸批評をふまえて本を読むということは事実上ありえないためです。また,〈目標の多層構造〉の理解は,問題プレーヤーの是正のための理屈としても機能しますが,それもまたTRPGの設計の工夫によっても変えられるかもしれないという点で,完全に運用の問題に還元できるものでもありません(問題プレイヤーができるように設計されているシステムが悪かった,という議論も十分可能なのです)。以上のような理由で,プレイヤーに技量を求めるのは,個々のシナリオへの取り組みの巧拙という水準でならばともかく,明確にゲーム的課題が絞り込めていないような状況でプレイヤーに無前提に強要できるものとまでは言えない。したがって,馬場さんの〈目標の多層構造〉は,TRPGというゲームジャンルをよりよく味わうための受容論の一種であって,あまねく上達観を示すもの,とまで普遍的な価値を持つわけではないと言えるでしょう。

*2:Vampire.Sさんのポリシー/メカニズム論において,〈メカニズム〉とは,具体的にGMやPLに対してメカニズムデザイナーから行われる指示のすべてである,と考えられています。たとえば先日紹介した『死に急ぐ奴らのバラード』における,ハードボイルド風味のやや下品さを加味した言葉遣い,あれも実は,素朴に書けばいいところをあえて文体を変えることによって,Vampire.Sさんの文脈における「メカニズムの指示」として機能してるといえます(つまり,そういう雰囲気のゲームであるとして遊べ,ということを自然言語によって体現しているわけです)。こうしたルールブックの記述は,『パラノイア』や『バイオレンス!』などコスティキャンがデザインしたゲームや,『ワールド・オブ・ダークネス』シリーズや『シャドウラン第四版』,『クトゥルフ神話TRPG』に見られる冒頭小説なども含めて記述されます。こうした情報を「なんらかの遊び方の指示」として解釈したとき,はじめてTRPGのルールブックの“いかにもデータ的/定量的でない部分”も,ゲームシステムの一部として解釈可能になる。これが,Vampire.Sさんのポリシー/メカニズム論の一つの眼目であると私は考えています。

*3:私はこれを〈ナラティヴ・ゲーム〉と呼んでいます。これは,後述する「マリオ的TRPG」のようなタイプの言葉遊びが,運用の努力を完全に排除しうるものであるがゆえに,既存のTRPGより広い範囲からTRPGというゲームジャンルを捉える必要があると考えたためです。馬場秀和RPG定義から〈ゲームデザインの補完〉の条件を外したものが〈ナラティヴ・ゲーム〉の条件的定義となります。

*4:井上明人の〈リテラシー〉の概念を意識している。

玄兎さんの『死に急ぐ奴らのバラード』紹介

 すっかり見逃しておりました。玄兎さん,改めての紹介ありがとうございます。
 こういう蓄積がしっかりあるから,私も安心して自分の課題に取り組めるんだよなあ。オンラインのTRPGの議論がここ数年で随分豊かになったな,と感じます。玄兎さんのような日々考えていらっしゃる方がいるおかげで,私も随分助かっています。

■玄兎,2008.01.23,「『死にバラ』ってのがあってね。」
http://blog.talerpg.net/rpg/archives/121

 2年足らずで50種類になってたんですね,ファッキン・チップ。私の初期のバージョン引用をご覧になった方はご注意ください。

 なお,このファッキンチップがセッション運営全体の中でどういう位置づけがされるか,という点に関しては,今日UPされた玄兎さんの新しい記事に〈ゲーム編制〉という言葉で改めて説明されています。

■玄兎,2009.10.09,「ファッキン・チップとシチュエーションカード」
http://blog.talerpg.net/rpg/archives/1647

 私が『死にバラ』に言及するきっかけになった対談記事はこちら。

■玄兎,2009,10,06,「20091006 – ガンメタ話」
http://blog.talerpg.net/rpg/archives/1646

 どれも,おそらく『死にバラ』再発見という意味でも,『ガンメタル・ブレイズ』のシチュエーション・カードと比較する上でも,とても参考になる記事かと思います。
 たぶん個々のカードが,セッションにおいて〈制限〉として働くのか,〈管理資源〉として働くのか,というところがポイントになると思います。
 個人的には,WoDの『レイス』と比較すると面白いんじゃないかなあと思うんですけど,私『レイス』遊んでないんですよ。誰か『レイス』遊んだ人で比較してみる人いません?

反応があまりに予想通りだったので補記

 相変わらず反論ヒエラルキーが低いなあと思ったので寸評してあげよう。今回はDH2だね。精進してね。
 業界批判としか読めてないのなら,相変わらず読めてない証拠。今回の文章は(というか,毎回そうなんだけど)TRPGの受容者の側がシステムデザインの優れた部分とどういう風につき合っていくか」が主題にある。〈設計〉の担い手をあげつらうのが問題の本質ではなく,〈設計〉を吟味した上で〈運用〉を考えるという話ね。それをふまえて言うんだが,『死にバラ』は,ちょっと検索すればわかるように「遊び方のサポート」というものは相当できてない。そういう点で『ガンメタル・ブレイズ』は今後,遊び方をどうサポートするかという点ではまったくの未踏領域に挑みうる。回転翼さんの『ガンメタル・ブレイズ』エントリで書かれた疑問に応えるようなサービスが必要となる。その挑戦はプロにとってやりがいがあることだし,ユーザーを幸福にする作業でもあるんじゃないかな。自分はそれについてはとても期待しているし,またたとえ自分が期待していなかったとしても,必ずやり遂げてくれることだろうと考えている。
 こういう趣旨のもと,「けれど,『死にバラ』はものすごく速い段階でこういうアイディアをシステムのメカニズムとして実現した同人TRPGシステムだったね,それが続かなかったのはとても残念だね(おそらくプロのTRPGベンダのように「TRPGシステムにおいて,サポートは何か」というところまで含めて戦略的に振る舞えなかったからなのだろう)というようなことも同時に批判している。つまり『死にバラ』を肯定しているようでいて,実はその隘路も同時に指摘しているわけだ
 そういう意図について特に何も思わないで,「業界を批判している」,と読み違えるようなら,それはあなた,それこそアマとプロを混同してプロを馬鹿にしてますよ,と私には思えます。あなた,誰の味方してるつもりなの? という話になる。自分の言論が,自分の好ましい人たちのみぞおちを図らずも殴っているかもしれないことに,どれだけ気づいているかな?(「地獄への道は善意で舗装されてる」,だっけ?)まあ,君が誰を言葉で殴ろうと,それぞれの受け取られ方があるから知った事ではないのだけれど。

 そもそもね,システムデザイナーによって最初に作られた基礎的なメカニズムデザインと,(メカニズムの基本仕様の変更も含めた)ユーザーサポートの中でなされる諸々の事は,全然別の作業としてみた方がいい。Vampire.S氏の〈ポリシー〉と〈メカニズム〉の区別で言うと,あるゲームで達成したい〈ポリシー〉を目指した〈メカニズム〉がセッションの現場で使われるのが望ましい。
 そしてメカニズムに関わる作業は,だいたい以下の作業分野に分かれる。

  1. カニズムの基礎設計(明示化された〈ポリシー〉が含まれる)
  2. カニズムの改造
  3. カニズムに沿ったボード(=ゲームを遊ぶのに必要な〈背景世界〉)の設計
  4. カニズム及びボードに沿ったギミックマニュアル(=GMが使うシナリオのこと)の設計
  5. 以上の4つの作業を経た上での,セッション運営(=プレイヤーにゲームを提供する作業)

 TRPGの商業というのは,(1)から(5)までのすべてを,ユーザーの望みに応じてサポートしていくというスタンスで成り立っている。「メカニズム設計」「メカニズム改造」「ボード設計」「ギミックマニュアル(=シナリオ)設計」「セッション運営」この5つが,卓上に「TRPGというゲーム」を生み出すための五つの手続きだ。そして,これら全てをビジネスにし得るのが,プロのTRPGベンダだ。
 『死にバラ』が優れているのは,メカニズム設計の点で新しい視点を示した事だ。しかし他はどうか?「メカニズム改造」「ボード設計」「ギミックマニュアル設計」「セッション運営」まで,ルールブックやその他のサポート記事においてサポートされていただろうか?
 されていない。『死にバラ』は基礎メカニズム設計以外の仕事をほとんどしていない。そうした作業は,おそらくデザイナー自身やその他マスタリングした人々が対面でほとんどを補っただろう。ボード設計は「既存の犯罪映画一般」に仮託しているという点で典型的な〈第三世代型RPG〉だし,改造しうる変数やシナリオ作成の指針等もそれほど充実しているとは言えない。「それが同人の限界だ」という事もできるし,「しかしそのような他の作業をも“サービス”として発掘してきたのがプロのTRPG市場のあり方だ」とも言える。
 しかし,それでも純粋に〈システム選択〉というゲームマスターの作業を考えたとき,必ずしもプロのサポートのすべてを購入する必要は無い。「メカニズム改造」「ボード設計」「ギミックマニュアル設計」「セッション運営」に,何らかの独自の手がかりがあれば,後は純粋に「そのメカニズムの基本的な〈ポリシー〉は何だったのか」ということになる。
 文字だけでわかりにくいのであれば,氷川霧霞さんのこのエントリを読めばよく理解できるだろう。

氷川霧霞,2006,「TRPGの苦労は買ってでもしよう」(http://www.trpg-labo.com/modules/article/index.php?content_id=45,:2007.08.25).

 こういう前提を共有した上で,「手厚いサポートが今回は必ずしも必要ではなく,ポリシーに対応する基本アイディアだけがゲームマスターに足りないだけだ,と言うとき,〈システム選択〉はいかに為されるべきか?」 を問いかけたとき,そこで初めて,『ガンメタル・ブレイズ』と『死に急ぐ奴らのバラード』は,「メカニズム設計」というその一点で相互に評価しうるものとなるのだ。そして,その二つはなかなか良い勝負をするように思うのだが,どうだろう? もちろん,色々なサポートを必要とする初心者GM,あるいはプレイヤーたちが独自に熟読して「TRPGの手続き」を把握した状態でぜひともゲームをやりたい,という場合は,『死にバラ』は『ガンメタル・ブレイズ』にかなう訳が無い(そこには莫大なプロの仕事が投下されている)。しかし,「遊ばれる手続きがルールブックにおいて丁寧に書かれていること」と,「メカニズムの基本的な仕様それ自体」は,〈システム選択〉という作業においては,分けて考えてかまわない。
 それが,TRPGという営みにおいて〈設計〉と〈運用〉とを区別した時に言えることだ。
 この基本的な区分けには一定の批評的効能があると自分は考えているのだけれども,その前提を理解せず別の方向で論駁しようとしても無駄だし,取り上げる気にならないよ。そのことははっきり言っておく(もちろん,この考えそれ自体の不備を指摘した時は,喜んで対応するだろう。もっとも,今までの発言を見る限り,それは望み薄なのだけれども)。

 あ,「物言いが」とか「言ってる雰囲気が」とかいうのはマジでNGね。それ「批判」って言わないから。それを書きたくなった時は,自分の議論の無力を露呈した時だと思った方がいい。

追記:毎度の致命的な難点に際して

 よくがんばったが,残念。おおむね予想通りだが,DH(反論ヒエラルキー)4止まりだ。相変わらず主張と関係のないところを論じている(したがって,効果がない)。
 なにより,書かれた問いには,他人が言及に値するゴールがない。そうなってしまう理由は,君の議論が「いつもある主張xの代替を目指さなければ」という立場表明に終始しているからだ。代替物の価値を信じたいなら,自力でその価値を論証しなければならない。その仕事を君は怠っている(自分ではやっているつもりだろうが,ノー・アイディアであることに気づいていない。そもそも批判において具体的なアイディアが必要だとは思っていない節がある)。
 「それが首尾よく果たされたとして,どんな価値があるのか?」を明示しないと,他人にやらせる説得力は持てない。他人に「特定のトピックに対して論じることに価値がある」と思わせたいのならば,自分でももっとがんばって,自律した「批評」を立ち上げる必要がある。
 そのためには,今の論法自体を変えなければならないだろう。そのために,僕の発言はどこまでその問いにとって本質的であるのか,本当に吟味できているのか,疑わしい。一言でいうなら,君は何かを生もうとしているそのくせ,選ぼうとしている産婆を間違っている。あるいは,そもそも産む問いがないのに,問いがあるかもしれないことを偽装している(そう取られたくないのなら,はやいところ方法論について批判可能な水準の問いを立ててみなさい。今のままではできないだろうが)。そうでなければ,君がどう考えているのかは知らないが,「君自身が論じたものに影響されて何かを論じ始める人間」は出て来ない。そうした人間を生み出さない文章に,言及する必要は無い。
 そうしたことを変えられない/変えるつもりがない,というスタンスで,これからも似たようなことを続けるつもりなら,特に僕から言うことはない。

死に急ぐ奴らのバラード/ガンメタルブレイズ

玄兎さんの最新エントリより。

ジ「『ガンメタル・ブレイズ』ってやつ、遊んできたんですよ」
玄兎
「ああ、ガンメタ。ファッキンチップ、じゃない、なんとかカード投げだけは面白いとか、色々とアレな評価ばっかり聞いてるけど。どうだった?」

 なんてサラッと本質的なことを言うんだろうと,ちょっと笑ってしまいましたが。
 地元のよしみで紹介しておきます。
『死に急ぐ奴らのバラード』という,マフィア映画的なシチュエーションを遊ぶ同人TRPGシステムが,過去オンライン(http://www6.ocn.ne.jp/~sinibara/)で公開されていました。
 管理人は,自作のシステムから取って死薔薇さん。『死に急ぐ奴らのバラード』それ自体を彼の卓でプレイすることはありませんでしたが,彼の「ファッキンチップ」のアイディアが独特であることは,札幌のコンベンションに長くいるTRPGゲーマーたちにとってはそれなりに知られ,評価されていたことでした。

 現在サイトはリンク切れを起こしていますが,インターネットアーカイヴで2006年までの更新情報を追うことは可能です。
〈ファッキンチップ〉のオンラインでの初出は2001年09月23日です。

ファッキン・チップは、ファッカー自身がイベントを誘発できるカードであり、
死にバラのシステム最大の特色だ。
ファッキン・チップは全部で27種類有り(2001年8月現在)、
死にバラらしいイベントが各カードに記されている。

ファッカーは最大で3枚までの手札を有し、
ゲーム中いつでもファッキン・チップを出してイベントを起こせる。
ただ、ひとつだけ制約があり、それは自分自身に対してカード効果を適用できない。
カード効果は、他人(ファッカー、NPファッカー)に対してのみ適用されるのだ。
ファッキン・チップを使われ、その対象となったファッカーは、
甘んじてその内容を受け入れ、演出として活かさなければならない。
ファックする者の義務である。
セッション中、単独行動をするファッカーは、他のファッカー全員の注目を浴びるため、
余計にファッキン・チップの対象となる可能性が高い。
逆に言えば、他人の単独行動により舞台裏に身を置いたファッカーも、
ファッキン・チップの使いどころを考える楽しみがあり、暇は感じないはずだ。
死にバラに、ヒーロー・ポイントという卑俗な概念はない。
ファッキン・チップがその役割を果たすが、自分自身に対しては使えない。
他人のロール・プレイ、セッションの流れを見た上で、それに介入できるだけだ。
自分のチンポを自分でシゴくな。
まずは相手を感じさせろ。濡らせ。そして、相手の愛撫には目一杯に応えろ。
それが真のファッカーというものである。
また、ファッキン・チップは補充も行える。
ただし、手札の枚数は3枚が限度である(ファザーのみが5枚まで)
補充の方法は、お前が勝手に考えてくれ。
GMのもつファッキン・チップの手札の数、補充のタイミングも好きに決めろ。
また、セッション中に死亡したファッカーは、即座に手札を最大数まで補充できる。
カードを出すという形で、以後もセッションには参加することが可能となる。
ファッカー死亡後も、プレイヤーに暇な思いをさせてはイケないのである。

以下に、ファッキン・チップを記す。
死にバラのプレイをしようという酔狂なナイス・ガイは、
以下の内容をどうにかして、カード状のものに印刷し、活用してくれ。

『死に急ぐ奴らのバラード』(2001年版,インターネットアーカイヴより)
http://web.archive.org/web/20011103203058/http://www6.ocn.ne.jp/~sinibara/

 これに対して,『ガンメタルブレイズ』における〈シチュエーションカード〉の説明がWikipediaにあります。

シチュエーションカード
 本作品のルールブックには51枚の「シチュエーションカード」が同梱されている。シチュエーションカードはセッション開始時に、プレイヤーとゲームマスターの手札として配られる。セッション中、このカードはゲームマスターやプレイヤーから、別のプレイヤーに向けて提示される。提示されたプレイヤーは、カードに書かれているシチュエーションをロールプレイで再現できれば、そのカードを「ブレイズトリガー」として自分の場札に加えることができる(プレイを拒否することも可能)。
ブレイズトリガーは、自分のキャラクターが(使用コストのかかる)モーションエフェクトを使用する際、カードに書いてある数値の分のコストとして使用できる。
(LightWriterほか,「ガンメタル・ブレイズ」(Wikipedia)より)

 もちろん,この二つの記述は,ルール的な位置づけがだいぶ異なっていますし,また前提としている〈背景世界〉も異なります。さらに言えば,前者は商業的な展開を行わない同人TRPGであり,後者は出版流通に乗りISBNコードを持つ商業TRPGシステムだ,という違いもあります。また,こうした記事によくあるような「パクリだ」とか「アイディアに欠ける」とか,あまり意味のない主張をするつもりもありません(なにしろ,ルールの組み合わせ次第で,TRPGシステムの質感などいくらでもかわるのですから,その一部がたまたまほかのシステムと似ていたところで,何の瑕瑾にもなりません)。

 しかし,本質的に,この〈ファッキンチップ〉のコンセプトが,2001年に札幌で遊ばれていた頃から『ガンメタル・ブレイズ』発売に至るまでの8年間,ほとんどTRPGシステムの表現史において論じられてこなかったことに,TRPG批評の貧しさ(というか「無いも同然」)であることを感じずにはいられません。
 8年もあれば,『死にバラ』と比較する必要も無いほどの,飛躍的なシステムのイノベーションを見たい,とも思いたくなるものです。しかし,サポートがいくら手厚く責任感があっても,システムの革新は相変わらず緩やかです。
 CRT表の使い回しでシミュレーションゲームを根付かせたアヴァロンヒル社の過去を考えるならば,私の言っていることはむだにSPI社的なものをTRPG市場に求めているだけかもしれません。今のTRPG市場で,新しいアイディアがガンガンと発売されるTRPGシステムに盛り込まれている,ということを期待するのは,筋違いというものかもしれません。
 ですが,商業ではなかなか挑戦できなかった前衛的な表現への挑戦が,忘れ去られ,今頃になって「商業作品のイノベーション」として論じられてしまいかねない今の状況は,一体自分たちユーザーはシステムデザインというものについてどれだけ真面目に考えて来られたのか,疑わざるを得ません。
 
 今年の五月,私は札幌に帰ったときに,『死にバラ』をよく知るゲーマーの先輩と飲みました。彼は『ガンメタル・ブレイズ』に『死にバラ』的なギミックがあることについて,大層憤慨していました。
 これを,「地方の同人TRPGなんて知ってるわけないだろ」というのは簡単です。しかし,商業に乗れば,はじめてTRPGはゲームシステム批評の対象となる資格を得る,というようなことになるのでしょうか? 私には,そうは思えません。なにしろ『死に急ぐ奴らのバラード』は,誰でもインターネットさえあれば閲覧できるシステムでした。日本中のだれもが,遊ぼうと思えば遊ぶことができたのです。
 安心して遊べるゲームが継続的に提供されることと,それが表現として新しいことは,別の評価軸です。そして『死に急ぐ奴らのバラード』は,手厚いサポートや高い整合性は確かに望めなかった作品でしたが,八年後の『ガンメタル・ブレイズ』と比較しても,コンセプトデザインにおいてまったくひけを取らない,斬新なメカニズムデザインでした。
 馬場秀和が述べたゲームマスターの三つの作業分野*1の一つ,〈システム選択〉を支えるための批評を考えるならば,私たちは『死に急ぐ奴らのバラード』の2001年の成果を,忘れるべきではないと考えています。
 同人ゆえに「ユーザーサポート」に難があった『死に急ぐ奴らのバラード』の代わりに,ぜひとも『ガンメタル・ブレイズ』には,長く続いてほしいものです。

*1:〈システム選択〉〈シナリオ作成〉〈セッションハンドリング〉のこと。これを一通りこなすことを馬場は〈マスターリング〉と呼んだ。これに〈ヒューマンアフェア〉と〈啓蒙活動〉を含めると5つとなるが,馬場秀和個人の思想的立場を抜きにして考えると,三つに限定することがおそらく妥当だろう。

GMについて一言

 2009年最大の日本のグランドマスター(ガイギャックス的な定義で)は、商業・非商業すべてを踏まえた上で、『Pixiv Fantasia III』のarohaJさんなんじゃないかと思っている。
 もちろん個人的な意見なので、反論はいくらでもあるだろうけど、TRPG,PBW,MMORPGというそれぞれのコミュニティの中で、シンプルなメカニズムで透明性を確保した采配ができたのは『PFIII』だったんじゃないか。
 しかしこういう観点(グランドマスターとは云々)からPFIIIやその他のRPG文化について語れる同志がいないので、こういう寸評に留めておくことにします。
 今年一番嫉妬した名GMだと思います、はい。ただ、体調が心配。>arohaJさん
 あと3ヶ月でアレを超える大イベントが起きたらまた感想が変わるかもしれないけれど、今のところの意見。

R=W記事について訂正/R=Wメカニズムの言語的位置づけについての補足記事

 「著作権スタンスとR=Wの同人活動のスタンスは関与していない」という指摘を頂きましたので、ここに訂正記事を追加させていただきました。

■高橋,2009.09.04,「Vampire.Sさんから聞いたRuneWars設計思想メモ」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20090904/1252049460

 お読みになった方はぜひ修正事項にもお目通しいただければと思います。「同人活動としてのR=Wのユルさ」が、混ぜものなしで比較的精確に反映されたと思います。

 さて、Vampire.Sさんに再びR=Wメカニズムについて質問する機会がありましたので、そのログを纏めてみます。
 今回は主に高橋の[メカニズム]という概念、および「内部物語/外部物語」に対する誤解を解いて貰ったものです。この記事はいずれRuneWarsWikiに転載しておく予定です。

[メカニズム]において自然言語形式言語はそれぞれどのように関係するか

(前後の文脈は省略)

Vampire.S: Vampire.S: 私が以前から主張していることは、“形式的データであっても、いわゆるフレーバーテキストであっても、それは“プレイヤーとゲームマスターに対するデザイナーからの指示事項である”という点で、変わりはない。したがって、これらデザイナーからの指示事項のことを、包括して“メカニズム”と呼ぶ”というものなので、たぶん、GGINCさんは“メカニズム”という言葉の意味を誤解しているかと思います。

 メカニズムは、形式言語に限定されていません。ただし、メカニズムはとにかく文書になってプレイヤーとゲームマスターに届けられているモノであるのに対し、ポリシーはドコまで頑張っても黙示でしかなく、一般には記述されないということに対立があるわけです。

 話を戻すと、そういうわけで、R=Wのボード上に出現する各タームは全て固有のナレーションを有するわけですが、
志臣: R=Wで言うと、[テーブル]の[アクター]それぞれに対するデザイナーからの指示事項が[メカニズム]ですか。
Vampire.S: そうです。言語による明示的指示なら、形式を問いません。
志臣: それは、自然言語であっても形式言語であっても(というか両方ですね)よい。わかりました。そうか、ポリシーは「完全に言語化」はできないか。たとえ明示された部分があったとしても。
Vampire.S: というか、一般に、形式言語は常に自然言語に含まれるので(当たり前だ)、自然言語と仮定して一般性を失いませんが。ポリシーは言語化されていないモノを指しているので、
Vampire.S: 言語化されていたら、それはメカニズムです。
志臣: なるほど。そうですね。集合で書くと、「形式言語自然言語」ですか?
Vampire.S: 形式言語自然言語、で記法は正しいです。
志臣: 了解です。ありがとうございます。

「明示化されたポリシー」は[ポリシー]か、それとも[メカニズム]か

志臣:あ、ログを編集していて気づいたのですが。[ポリシー]には、明示化されたポリシーと暗黙のポリシーの両方がある(そしてポリシーは本質的には暗黙的である)という理解でいいんでしょうか。
Vampire.S: 明示化されたポリシーって、ありましたっけ? 明示なら、既にメカニズム、というのが現在の私のスタンスなんですけど、過去においてどこまでそこに踏み込んだ発言してたかどうか、記憶が定かではないので。
志臣: えーと、メカニズムデザイナーの側が「こういうものをポリシーと仮定して」という、記述的な議論はあったように思いますが。……「あくまでそのような明示化されたポリシーはメカニズムの側に属するのであって、厳密な意味での[ポリシー]ではない」という理解でなら、「明示的なポリシー」というものは存在しないことになりますが。
Vampire.S: まあ、デザイナーが公式の立場で公式に(全てのテーブルを束縛する意図を持って)発言したら、全てメカニズムですね。一方、“このゲームにはこういった遊び方もあるよ……”という提案は、確かに“明示されたポリシー”にはなります。
 デザイナーの立場からすると、遊び方やメカニズム解釈に対する提案ぐらいが、明示されたポリシーのせいぜいかな。
志臣: 運用案のようなものとしての「明示化されたポリシー」というのは、認めうる。でも、基本的にポリシーは言語化し切れない。
Vampire.S: うーん。言語化しきれないというより、とにかく〔ポリシーには〕法源としての根拠を認めがたいということです。法源(メカニズム)から当然に解釈される内容ではあるんでしょうけど。 >ポリシー
志臣: なるほど。では、「明示化され言及可能なポリシー」とは「メカニズムのコンセプトになりうるもの」と置き換えたほうがよさそうですね。「法源としての根拠を認めがたい」確かに、言語化されていないものを法源にしにくい。仮説でも、言葉にしないと、メカニズムに盛り込めない。……なるほど、塩梅がわかりました。質問してよかったです。
Vampire.S: 究極的には、ゲームデザイナーが“皆さん、以下のゲームは“楽しく”プレイしましょうね”っていったら、それはメカニズムだ、という立場なんですよ。単に、述語“楽しく”の定義が明示されてないだけで。