GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

マリオ型TRPGシステムデザインは可能か――「ゲームの成立」をめぐって

 acceleratorさんのまとめリンクによると,何度か「RPG上達論」が話題に上ってるみたいです。
 上達論それ自体ではなく,「上達すべき」というベキ論に対する疑問が中心となっているようです。

2009-09-1309/07-09/13
「もっとTRPGを巧くなれって論調が好きではない」
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20090913/p10

 これについて,昨日人と話していたら結構面白いアイディアがまとまったので,ここに書いておきます。

ゲームを成立させるための5つのプロセス,2つのアプローチ

 私は『ロールプレイング・ゲームの批評用語』をまとめたこともあって,TRPG論としては馬場秀和さんの主張を完全に継承している,としばしば思われがちです(まあ,おおむねそうとも言えるのでいちいち反論はしないのですが。時間の無駄なので)。しかし細かい点では色々と違いがある。今回の「上達」論についても同じことがいえます。私は馬場さんの上達観のうち,「プレイヤーの上達」についてはあまり重視していません*1。代わりに馬場さんが整理した「ゲームマスターの上達」については明確に支持している。
 どうして私が「ゲームマスターの上達」を支持して,「プレイヤーの上達」を軽視するのか。それは,あるポリシー(=ゲームが設計される目的)に沿ってゲームメカニズムが提示される,という手続きがTRPGにおいてあるとして,そのゲームに適応するリテラシーが常にひとつであるとは言えないからです。
 数日前のエントリでも言いましたが,TPRGにおける「ゲーム」とは,以下の5つの作業プロセスを経て,プレイヤーに提示されます。

TRPGにおいて,ゲーム成立のために必要な5つのプロセス(高橋2009)

  1. 基礎メカニズム設計
  2. カニズムの改造
  3. ボード設計
  4. ギミックマニュアル設計
  5. セッション運営

 「1.基礎メカニズム設計」とは,そのゲームのおおまかな骨格を示すものです。たとえばD&DであればD20システムとレベルアップシステム,マルチクラス,特技,呪文,グリッドマップシステムなどの,ゲームを成立させる大まかなルールやデータ“についての指示”*2のことです。いわゆる〈システムデザイン〉と呼ばれてきたものを想定していただければよいでしょう。これは「ルールブック」や「サプリメント」といった名前で,商業TRPGデザイナーから豊富に提供されています。
 次に「2.メカニズムの改造」,これは「基礎メカニズム設計で想定されていた一定の用途をさらに限定し,特定の方向にメカニズムを改造する」という作業のことです。これはシステムデザイナー自身が提供する場合もありますが,ここでは〈ゲームマスター〉によって為されるケースを想定した方がわかりやすいでしょう。
 次に「3.ボード設計」とは,「つくられたメカニズムによって描写される,ゲーム的な状況設定のこと」をさします。基礎メカニズムとその改造を経た,あるメカニズムによって記述されます。たとえばD&DD20システムであれば,「エベロン」や「フォーゴットンレルム」という世界の設定情報が,D20システムというメカニズムによって記述されます。
 ここまで出来ていれば,後はその都度ボードを解釈して,プレイヤーに解決すべき課題を提供するゲームマスターがいれば良い,という話になります。しかし,それではやはり「熟練したゲームマスター以外できない」という話になってしまいます。そこで,「4.ギミックマニュアル設計」が必要となります。ギミックマニュアルとは,TPRGにおける「シナリオ」を言い換えたものと考えてください。より正確に言えば,「ボードによって設定された状況とPCとのあいだで予測されるだろう相互作用を,一定量のゲーム課題として抽出し,選択された特定のメカニズムで記述した手続き書」です。これがあれば,暗黙知とされていたゲームマスターの実力をある程度までエミュレートすることができます。これが手元にあることで,「メカニズムとボードしかない」という状況でのセッション運営よりも,安定してゲームを提供することが可能になります。
 最後に,これら1−4のよく設計された情報を持ち込んで,プレイヤーたちにゲームを提供する参加者が必要です。ボードゲームの文脈ではインストラクタとかファシリテータとか,そういう名前で呼ばれることもありますが,これまでこの作業を行う者は(事前のすべての作業も含めて)〈ゲームマスター〉と呼ばれてきました。セッションを運営するこの特別な参加者(ホストプレイヤー)は,「基礎メカニズム」「メカニズムのうち,改造された点」「ボード」について最低限の説明をした上で,「ギミックマニュアル」の指示する手続きに従い,ゲームを運営する,ということになります。
 さて,本題に入ります。
 どんなTRPGシステムであれ,ここまでの作業行程(メカニズムの改造は省いていいとしても)を経なければ,TPRGのプレイヤーに安定して「ゲーム」なるものを提供することは難しいでしょう。私はこの5つのプロセスが,セッションの現場において実現していることを(TPRGという表現形式における)〈ゲームの成立〉と呼びたいと考えています。
 そして,この〈ゲームの成立〉が,所与の状況によって与えられていない状況を「〈設計〉の不備」と呼びます。
 さらに,そのような「〈設計〉の不備」をものともせず,現場の,ゲームマスター/プレイヤーの努力によって埋め合わせ,〈ゲームの成立〉を引き寄せることを「〈運用〉によるゲームの補完」と呼びます。
 今言ったことを整理すると,このような構造になります。

  • 〈ゲーム〉の成立/不成立
    • 〈設計〉による成立の実現(ゲームの設計)
    • 〈運用〉による成立の実現(ゲームの補完)

 したがって,TRPGにおいて「ゲームを成立させる」ことを目標とした時,大きく分けて二つのアプローチがある,ということがここから言えます。「設計者責任論」と「運用者責任論」です。設計者はシステムデザイナーとゲームマスター,運用者は現場のゲームマスターとプレイヤーです(どちらにもゲームマスターが入り得るのが特徴です)。
 TRPGに対して上達論が盛り上がった時に決まって出てくる批判,「TPRGに上達など問いようがないじゃないか」というのが出てきますが,それはTRPGにおける「ゲームの成立」の責任が,〈システムデザイナー〉〈ゲームマスター〉〈プレイヤー〉の三者に分散しており,どれか一つに責任を集約しても,いびつな議論になってしまうからなのです。

まとめ:「ゲームの成立」に上達を要求することの限界

 前節で,「メカニズム」「改造」「ボード」「ギミックマニュアル」「セッション運営」の5つのプロセスがTRPGの〈ゲームの成立〉を支えていること,そのプロセスを支えるアプローチとして〈設計〉と〈運用〉の2つのアプローチがあることに言及しました。
 このBlogをたびたび読んでらっしゃる方ならおわかりかと思いますが,私はTRPGにおいて〈設計〉と〈運用〉とのどちらかを選べ,というなら,悩んだ末に〈運用〉の方を取ってしまう人間です。それは,TRPGというゲームが「ゲームデザインのための道具を利用し,発話のやりとりによって成りたつゲーム*3を設計する」という,道具設計者とゲーム設計者の二段階をふまえた創造だと考えるためです。楽器制作者のノウハウと,特定の楽器のために作曲する作曲者のノウハウが異なるように,システムデザイナー(=ゲームデザインツールの設計者)とゲームマスター(=現場にゲームを実現させるゲームデザイナー)のノウハウは,違っている。そういう考えを持っています。
 ところでTRPGには,ボードゲームからの根本的な批判があって,「現場の人間がゲームを補完しないと遊べないゲームは,単なる欠陥品ではないか?」ということがしばしば言われます。それに対して「いや,そこを〈補完〉するのが面白みなんだよ」というのは簡単ですし,TRPG文化になじんだ人に取っては直感的に正しいかもしれませんが,それは適切に問題に答えたことにはなっていません。それは「ゲームを成立させるための営みが,それによって成立したゲームと同様面白い」と言っているだけで,「ゲームが成立しなかった場合のリスク」について何も応えられていないからです。そして,ゲームを補完するための技術=TRPGにおける上達,という図式は,いつまでも消えない。
 もし,「ゲームの成立を補完する技術は,TRPGを楽しむためには本質的に必要である」と主張すれば,それは「TRPGには(ゲームを補完するための)上達が必要である」という論理的帰結が出てきます。
 反対に,「ゲームの成立を補完する技術は,単なる製品の欠陥であって,本質的でもなんでもない」と主張すれば,「TRPGにおける上達は考えなくてよい,それはすべてデザイナーの設計責任だ」ということになります。
 このくいちがいに私はどう答えるか。私は〈ゲームマスター〉〈プレーヤー〉〈システムデザイナー〉三者に場合分けして,以下のように答えます。

TRPGにおける「上達」に対する3つの立場(高橋 2009)

  • GMの上達について「ゲームマスターが5つのプロセスを完備する限りにおいて,上達は必要であり,具体的にそのカリキュラムを示す事もおそらく可能である,そしてそのようなゲームマスターの技術は,システムデザイナーの仕事と連携しうるパフォーマンスとなり,金を支払う価値もあるだろう。ただしその個々のパフォーマンスを単純に同じ評価軸で比べる事は,“どのゲームジャンルが一番面白いか”を論じることと同様,難しくなるだろう。」
  • PLの上達について「しかし一方で,ゲームマスターの多様性にプレイヤーは適応しきれないのだから,プレイヤーの上達について論じるのは“どのゲームジャンルが一番面白いか”という議論と同様に不毛であり,個々の成立したゲームを構造的に批評する事でしかアプローチできない。しかし,もしGMやSDが示すゲームについて習熟したいという感覚が生まれたなら,その習熟の過程について目を向ける価値はあるだろう」
  • SDの上達について「メカニズムデザインはTRPG文化において数少ない商業的に評価される対象なのだから,“市場のニーズを捉え,開拓している才覚”も含めて,巧拙を論じる対象になる。また,ゲームマスターのプロセスをより完全なものにするためにも,システムデザインに上達概念がないということなどは考えにくい。ただしこれは〈メカニズム〉から,明示化されていないものも含む〈ポリシー〉を背景として丁寧に読み取らなければならない」

 こんな感じになります。もうちょっとくだけた感じでまとめると,

  • ゲームマスター:プロセスのどこを請け負うかによって,「上達」が必要かどうか決まる。多くのプロセスを請け負うほど,成立するゲームの幅は広がる。
  • プレイヤー:提示されたゲームによっていくらでも適応のノウハウが変わるんだから,TPRG一般の「上達」というものはあまり考えなくてよい。ただしゲームコンセプトが検討可能な程度に絞り込まれていて,知らないと楽しめないようなものをどうしても楽しみたいなら,特定ゲームジャンルの「上達」は考えた方がいいかもしれない。
  • システムデザイナー:ゲームマスターのプロセスと関わるので,「上達」(というか,道具設計の巧拙)の概念は当然,必要。

 という感じになります。基本的に,システムデザイナーと,“システムデザインの細かいところを自分でも色々挑戦してみたい”ゲームマスターだけ「上達」について考えた方がよくて,後はできるだけ考えないで自然体でいて楽しめるような環境があって当然(そんな環境が無いのはTRPG文化の不備だ),という立場になります。ちょっとややこしいかな?

アドバンスドな話:マリオ的TRPGシステム,リテラシーゼロから始めることば遊び

 で,ここから駆け足で応用的な話になるんですが,「5つのプロセスを,ゲームマスターにも,プレイヤーにも補完させない,そんなかたちのTRPGシステム」があれば,それは完全に「設計者責任論で作られたTRPGシステム」ということになります。ようするにこれはTRPGというゲームジャンルのリテラシー*4を一切求めないで,しかしTRPGリテラシーをむりやりインストールさせるようなゲームに等しい。これは00年代に入ってからのF.E.A.R.や,ここ2年ほどの冒険企画局が,それぞれ別のアプローチで取り組んでいるものでもあります。この取り組みをより理念的な方向にまとめるなら,宮本茂ゲームデザイン,「マリオ=ゼルダ的」なTRPGシステムは可能か,ということになってきます。
 『スーパーマリオ・ブラザーズ』には,説明書がなくても8−4までたどり着けるようなデザイン上の工夫が沢山盛り込まれています。マリオやテトリステトリスは宮本のデザインではないですが)が未だに「ゲームを遊ばない人たち」にもデジタルゲームの事例として受け入れられているのは,それが「リテラシーゼロでも遊べるゲーム」として設計されていた,“誰でも迷わず遊び方を理解して遊べた”という点が,非常に重要な点だと思います。
 そして,TRPGを「言葉遊びの一種」と捉えたとき,「言葉をやりとりすることが可能な環境で,だれしも『マリオ』や『ゼルダ』のように迷い無く遊べるような,そんなゲームデザインは可能だろうか?」こういうことを問いかけることが,〈設計〉の立場からTRPG デザインを考えていく上で重要なポイントになるのではないかと思います。
 以前,「水平思考推理ゲーム」というゲームを紹介したことがあります。このゲームは,プレイヤー側が自由な発話ができる一方,出題者側は「はい,いいえ,関係ない」の3つの言葉しかしゃべれないというルールを与えられている。
 このように,環境の側が,参加者の取りうる行動を制限する,という発想は,D.ノーマンのインターフェイス・デザイン論にも出てくるものです。もしかすると,来るべき「リテラシーゼロから遊べるTRPG」とは,こうした「迷いなくことばをやりとりできるレベルまで,GMとPL双方のことばの選択肢を絞り込んだゲーム(しかし再現できるシチュエーションには富む)」というようなものになるのかもしれません。
 芝村裕吏さんによる『Aの魔法陣』や『ロータスシティ』は,この「ことばの絞り込み」に関して,「成功要素」と「コマンド選択方式」という2つのアイディアを提示したものですが,やはりデータが増えすぎてしまい,一見さんが『マリオ』レベルで理解できるものになっているかというと,少し違う(リテラシーがある程度インストールされている私にとっては,とても面白いのですが)。
 というわけで,どなたか,「TRPG界のマリオ」にあたるような,リテラシーゼロから遊べるTRPGシステム,作りませんか。

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

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テレビゲームの神々―RPGを創った男たちの理想と夢

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*1:もちろん〈目標の多層構造〉という概念は,プレイヤーがゲームの楽しみをあとで分析する手法としてはとても優れているのだけれど,それはあくまで「批評的な味わい」とでも言うべきものであって,すべてのプレイヤーに必要とは言えません。たとえば,ある小説がある読者にとって「つまらない,糞本だ」と評価されたとして,そんな読者に対して「君は文芸批評というものをまったく理解できていない」と言うのは,かなり厳しい要求となります。誰もが文芸批評をふまえて本を読むということは事実上ありえないためです。また,〈目標の多層構造〉の理解は,問題プレーヤーの是正のための理屈としても機能しますが,それもまたTRPGの設計の工夫によっても変えられるかもしれないという点で,完全に運用の問題に還元できるものでもありません(問題プレイヤーができるように設計されているシステムが悪かった,という議論も十分可能なのです)。以上のような理由で,プレイヤーに技量を求めるのは,個々のシナリオへの取り組みの巧拙という水準でならばともかく,明確にゲーム的課題が絞り込めていないような状況でプレイヤーに無前提に強要できるものとまでは言えない。したがって,馬場さんの〈目標の多層構造〉は,TRPGというゲームジャンルをよりよく味わうための受容論の一種であって,あまねく上達観を示すもの,とまで普遍的な価値を持つわけではないと言えるでしょう。

*2:Vampire.Sさんのポリシー/メカニズム論において,〈メカニズム〉とは,具体的にGMやPLに対してメカニズムデザイナーから行われる指示のすべてである,と考えられています。たとえば先日紹介した『死に急ぐ奴らのバラード』における,ハードボイルド風味のやや下品さを加味した言葉遣い,あれも実は,素朴に書けばいいところをあえて文体を変えることによって,Vampire.Sさんの文脈における「メカニズムの指示」として機能してるといえます(つまり,そういう雰囲気のゲームであるとして遊べ,ということを自然言語によって体現しているわけです)。こうしたルールブックの記述は,『パラノイア』や『バイオレンス!』などコスティキャンがデザインしたゲームや,『ワールド・オブ・ダークネス』シリーズや『シャドウラン第四版』,『クトゥルフ神話TRPG』に見られる冒頭小説なども含めて記述されます。こうした情報を「なんらかの遊び方の指示」として解釈したとき,はじめてTRPGのルールブックの“いかにもデータ的/定量的でない部分”も,ゲームシステムの一部として解釈可能になる。これが,Vampire.Sさんのポリシー/メカニズム論の一つの眼目であると私は考えています。

*3:私はこれを〈ナラティヴ・ゲーム〉と呼んでいます。これは,後述する「マリオ的TRPG」のようなタイプの言葉遊びが,運用の努力を完全に排除しうるものであるがゆえに,既存のTRPGより広い範囲からTRPGというゲームジャンルを捉える必要があると考えたためです。馬場秀和RPG定義から〈ゲームデザインの補完〉の条件を外したものが〈ナラティヴ・ゲーム〉の条件的定義となります。

*4:井上明人の〈リテラシー〉の概念を意識している。