GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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アクセラレータさん向けの私信

 正月まったく動いてませんでしたが、思い出したように。
 ゲーム批評におけるモダンとポストモダンについて関心をもたれていたid:acceleratorさん向けに、文献を一つ紹介します。現代思想というわけではなく、もう少しゲーム自体にアプローチをした、とても史学的な試みです。

 田中治久,2005b「ゲームの中のモダニズム」(http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213

 ゲーム受容におけるモダンとは何かについて、基本となる議論をしていると思います。こないだの私の用語で言うと、playばかりだった伝統ゲームの時代から、どのように近代ゲームのdesignが生じてきたか、ということを、歴史的実証でもって論じる切り口を提供してくれています(牡牛さんがメタ将棋で行っている論証に近いですね)。
 私自身は、ぶっちゃけ「コスティキャン-馬場」路線を整理することはもう大体終わっちゃった感があるので、今度はほかの議論との関連付けの中で解体・再構築してゆくことになると思います(時間が無いので、新しい文書を書けないでいるのが現状ですけれども)。
 ちなみにid:hallyさんこと田中治久さんは、ゲームの歴史的起源についてもっとも縦断的に語ることのできる国内ゲーム批評家の一人です(その他の分野でも活躍されていますが)。TRPGについて考える際にも、得るところは多いように思います。
 またこれは個人的な見解となりますが、私は「モダン(端的に「近代的発想」といってもいいでしょう)」の一つの特徴として、「歴史的文脈・過去の判断や、伝統と見なされてきたもの、言説として捨てられず残ってきた過去のすべてのものなどを、基本的には捨てず、重視する(あるいは、方法的にそうせざるを得ない)」という作法が尊重されていると考えています(これは、啓蒙とか進歩とか、そうした素朴な考え方が通用しなくなった今も、まったくの無価値となったものではないでしょう)。
 そして私は、TRPGを論じるという作業をやる上で、先行する論者を無視しにくいと感じていて、できるだけその取捨選択に務めようとしています。馬場秀和コスティキャンといった論者は、単に「誰も無視しえていない」という点で、私にとって長らく作業課題となっていた人々でした(今は多少、事情が異なります)。
 今後については、TRPG論壇では、安田均多摩豊水野良などの初期TRPG言説の立役者についても言及していくことになると思います。私は、80年代における安田・多摩の仕事については、まだまだ発掘すべき内容があると考えています。
 なお、同じく田中さんはポストモダン的なヴィデオゲームについても言及していますが

田中治久,2005a,「ポストモダン化するコンピュータゲーム」(http://d.hatena.ne.jp/hally/20051109

 このように、脱モデル化を主題としながらも、モデルとされてきたものに対する批判が必要であることには変わりなく、要するに「過去の蓄積に対してどのように介入するか」は多少異なれど、今与えられているデータを適切に読み解く能力は、ポストモダン的な議論をしていく際にも必須といえましょう。
 それが出来ているポストモダニストは、なんだかんだで言及するに足る歴史がなんだったかを勉強されていますし、その上で歴史の有効性の有無を論じるという挑戦をしています。その作業を怠ってしまった場合、それはポストモダンという言葉を使うまでもなく、単に自分で挑もうとしている課題に対して怠惰で不実なだけ、とも言えます(自戒として)。
 一般的に言って、ポストモダン的なものが相対主義日和見主義でなくなる場合というのは、伝統とか先行研究とかが無効化されるような具体的な事例として持ってくる「アイディアそれ自体」が、斬新で優れている時に限ります。
 私は、もしゲーム批評(べつにもうゲーム批評に限らなくてもいいんですが、とは最近の実感ですけれども)にポストモダン的なものがありうるとするならば、歴史的文脈より優先すべき課題を見出した、その創造的なアイディアを持ってきた人にこそ、ふさわしいものと思います。
 そういうことをする前提となる、先行研究の整備が進んでいない現状、ポストモダン的な議論が可能な人は、(少なくともTRPGを語る、という作業においては)ほぼ皆無ではないかと思っています。ようするに、私も含めて、モダンな議論にさえ至ってない。今は「プレモダン」なわけですね。きわめて原始的な状況といえましょう。
 モダン/ポストモダンというものが、具体的に何を名指しているのかがしばしば混乱しがちな、荒っぽい概念であるということはアクセラレータさんご自身でもおっしゃられている通りだと私も思いますので、私もこれ以上何か議論を展開したいということはあまりありませんが、とりあえず、文脈を受けて私がコメントしたかったこととしては以上となります。