GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

090128_Wed 東工大シンポジウムをポメる――〈切断〉と〈署名〉

 筑波批評社の面々が都内まで来て聴講しに来るということを聴きつけ、補講終了後、だらだらと大岡山に向かいました。


 到着するまで、大学の教職で知り合った親切な教官から印刷代をお支払いして譲っていただいた、J.ジェインズの私家版訳を読んでいました。ISBNコードがついた本もちゃんと出ているのですが、この同人誌の方が翻訳に気合が入っている(らしい)。
 面白いです。神話・哲学・心理学・物語論・レトリック論が渾然一体となったような魅惑的な議論が序盤からひたすら続いている。しかもアイディアの核となる〈双脳精神〉という概念がとてもよい。私たちの祖先は、「意識」と呼んできたものを外にも置いていた頃があったかもしれない(そしてそれが「神々」と呼ばれていたのではないか)というようなことが仮説として論じられている。トンデモ一歩手前ですが、これって宮崎駿映画の主人公達にそのまま当てはまりそうです。彼・彼女らは、自我の葛藤なんかわりとどうでもよくて、超越した神々のほうがよほど悩んだ結果として即断即決で行為しているので。
 ヒロイックファンタジーや児童文学を哲学的に論じたい、という人にとっては、膝を叩きたくなるような内容なのではないでしょうか。

Jaynes, Julian, [1976]2000, The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind, A Mariner Book.(=柴田裕之訳,2005,『神々の沈黙――意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店.)

The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind

The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

 そしてシンポジウムに到着。面子が豪華だったせいか、会場は映像中継をしている第二会場まで含めて満杯でした。濱野智史さんの発表が終わってしまったばかりのところで、第二会場でポメラを立ち上げ、話を聞くことに*1
 ちなみに参加者は

 という面々でした。内容の紹介はこちら。

 以下、ファイル1つぶん(8000字)まで使い切ったものに、後で加筆・修正したものです。
 内容に関する誤解に関しては、私の聞き取りのミスもあると思います。出来に関してはご容赦願います。
 ちなみに、このシンポジウムの核は、濱野氏の発表において磯崎新の〈切断〉概念を評価するという流れから最後まで引っ張っていたので、そもそも濱野発表および、途中の40分間(合計70分ほどの内容)をまったく聞けていない私のエントリは、そもそも完全なものになりえません。どなたかトラックバックなどで補足していただければと思います。

 追記。ニコニコ動画で当日の様子がUPLOADされていました。よくないことだとは思いますが(笑)。


D

 濱野さんの発表と、その後の空白の40分をチェックした後、後で追記するかもしれません。
さらに追記:聞いてみましたが、発表を改めて書き起こすのは面倒なのでやらないことにしました。

090128_Tue_Symposium*2

宇野の発表

宇野:批評の構図は、浅田彰福田和也として整理できる。つまり、アカデミズムVSジャーナリズム。
そして90年代以降、福田和也的な批評が全面化した。*3

東:宇野の話はハイコンテクスト(=高度に文脈依存な話)なので簡単なまとめ。ここ10年間くらい、批評は単なる一部の人たちの癒しの言葉になった。(私の議論も、主に)非モテオタクの言葉として消費されている。むしろ批判ってそれしかないんじゃないか。アーキテクチャなんか考えてもしょうがないだろう、むしろ癒しの言葉としてしか存在しないんじゃないか。コミュニティの層に対する実存の問題とアーキテクチャの問題は切っても切り離せないという話。

浅田彰のコメント

浅田:私はこのシンポジウムの趣旨もよくわからず、(東が主宰している)雑誌『思想地図』*4もぱらぱらとひらいたことくらいしかない。二人の仕事も眺めた程度しか知らないし、文脈はわからない。ただ、旧い世代として呼ばれているのでそういう話をしたい。
 私はすでに経済学者を廃業してるが、1975年に私は京大経済研究所にいて、アルバイトをしてた。メインコンピュータをパンチカードで入力していた頃だ。それが80年代からMacが普及した段階、Win95が出た段階。そういうのはあるが、(いま、ここで若手研究者、つまり濱野・宇野が論じたような問題に関しては)基本的な問題は四半世紀前から変わっていないように思う。
 たとえば建築でいうと、ル・コルビュジエ有機体モデルを経て、磯崎のサイバネティックな情報環境建築のヴィジョン。それは変わっていないだろう。そこで情報処理のモデルが中央型から分散型に変わっても、驚きを感じない。
 メディア論でいうとマクルーハンがいて、彼は「メディアはメッセージである」という言葉で有名だが、本当は「メディア“が”メッセージだ」と書いたんだ。そしてメディアの内容はどうでもいい。彼が言ったこと自体は今も変わっていないだろう。彼が言ったグローバルヴィレッジが、今は単なる島宇宙的なローカルヴィレッジズしか生み出さなかった、ということくらいか。アゴラモデルではなく、祭りを楽しんでいるだけ。マクルーハンカトリックだからエキュメニズム的な未来を望んでいたのだろうけれど、まあ当時からあんまり変わんない感じがするよね。*5
 ところで経済研究所で、計量経済学青木昌彦*6とか、合理的選択理論の鈴村興太郎*7みたいな人がいた。あとマルクス主義も(流行ってて、青木が運動していて)逮捕されるのは西部邁さんだけとか。その後、悪く言えば転向だが、青木さんはメカニズムデザインに行った。
 共産主義スターリニズム的なナイトメアをうみだしたのに対して、ハイエクは、パッチをあてる設計主義。*8大事なのは、これが“部分的な設計主義”であること。四半世紀以後になっても。レッシグで言うと、市場もアーキテクチャで手直ししよう、という話をすでにしていた。*9だから1975年と状況があまり変わった感じがしない。批評に関しても、マルクス主義が失敗したんだから批評の場所なんて最初からなかった。アドルノの否定弁証法によれば、実現の機会を逸したから……。

ここでアクシデント。

 第二会場の中継放送が切れる。
 結局、18時30分ごろから19時14分まで、第一会場の様子を確認することができなかった。
「あっちに移動すればみられるんですか?」という参加者のコメントに対しては「人が多すぎてムリです」との返事。IP通信で通していたらしいが、機械の動作不良は直らなかった。
 多すぎた会場の人は、適性人数になり、床の上で蹲踞をしていた私は空いた椅子に座り、再びジェインズの話を読んでいた。「思考と場所」の関係について論じるため、メタファの意義を確認しているところがあり、「なんだ、こっちの方がシンポのテーマっぽいじゃん」とか意地の悪いことを考えていた。
 19時14分、放送再開。ポメラのF2キーでタイムスタンプを押して、書き取りを再開する。

#2009/01/28 19:14復活

 宮台が語っている。

宮台の批判――政治学的観点から

宮台:ゼロ年代批評家の言説が「公共的」であると私には感じられない。アドヴォケータではない(advocator, 主唱者)。冒頭に東君が言ったとおり、アドヴォケータとして振舞うことは可能か不可能か(という問題があるが)、かつては人に対して公共的なスタンスをとり得たが、今は難しくなった。今はアドヴォケータとして振る舞うと、単に「イタい」ということになる。私は、それは構造の問題だと思って切り抜けているが……(会場笑)。ウルリッヒ・ベックが言ったような、リスク社会における市民政治の、困難な要素として感じられる。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

 これはネガティヴにとどまらない重要な問題を含んでいる。湯浅誠君がやっている派遣村が、厚生労働省のそばで陣取ったけれど、社会(科)学者みんなが知っているように、雇用コストの高いところで、企業は人を雇わない。スティグリッツクルーグマン(註:どちらも著名な経済学者)が言っているよね。今は空間が重要じゃなくなったと言われているけれど、そうじゃない。従来考慮しなくてよかった要素がどんどん増えていく。たとえば僕が官僚だと、それを言うと、首を絞められるだろう。だからみんなに任せましょうみたいな。リスク評定が合理的に難しくなった。多くの方が想定している状況が実は難しい。個人的には不合理な選択をポピュリズムが要請する。愚行権を集団で行使してください、ということ。*10
 新しい変数が入ってきたけれど、その変数が入ってきたことを自覚していない人間がいるゆえに、困難に直面している。
浅田:シンポジウムが失敗しているとは思わない。濱野君は切断がないと言っている(註:どうも放送再開直前、宮台が「このシンポジウムは失敗だ」と発言したらしい)。
東:このシンポジウム失敗だって言われる。僕司会ですよ!(会場笑)

浅田による、建築論の再提起

浅田:せっかく磯崎さんがいるから(建築の話を)。黒川紀章について。*11国立新美術館、あれ怒り狂ってた。どんどん建て替えるのがメタボリズム(これは、新陳代謝を善しとする発想、という意味か)。高度資本主義の使い捨て。黒川自身が使い捨てられたのだ。
 そして(ここにいる)磯崎さんはポストメタボリズムを担っていて、不可避的に〈切断〉している。成長と死。切断する人というのが、匿名だけどシンギュラー(singular, 唯一の)な存在としての建築家。逆説的なポジション。いってみればオプティミズムに対して言うと、未来都市は廃墟であるというペシミズム。そこで逆説的に建築家というものが成り立ちうる。
 さて、幸か不幸か、〈切断〉がなくてすむというとどうなるのか、というのが濱野さんの議論の重要なポイントではないか。

建築の解体―一九六八年の建築情況

建築の解体―一九六八年の建築情況

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

浅田:建築というものはネガティヴにしか規定できないが、規定はできる。一方、都市の建築については、作っては壊し、作っては壊した。私はコールハース(のことを考えると)、濱野の議論には違和感があると考える。コールハースは規制された無秩序がおもしろいと考えていた。*12幼年期にインドネシアにいたことがあって、混乱した自生的秩序。コールハウスが、言ってみればメタボリズム的なものをヤケクソで突き進んでいって、エンドレスで立ち向かった。それに対して磯崎さんは、エンドから〈切断〉を持ち込む。〈切断〉からかろうじて署名することが可能。

2ちゃんねるの公共性

東:(ネットに対する論者の素朴な感覚について、補足したい。)物理的制限のある生成と、物理的制限のない生成。わずか10年しかないのにネットが自然のように感覚されてしまうということが、世代が強調されているので、そのまんなかあたりの、「ネットが自然に見えている」というのがおかしいんじゃないの。だが、東あたりの世代を境目に、ネットが自然に見えてしまっているというのも事実。それが倒錯しているのも事実。濱野は、ネットには極端な成長性があると述べる。しかしここで宮台さんなら、「ネットが自然なんてバカ、歴史を学べ」と言うだろうが。(ここで濱野に振る。会場笑)
濱野:磯崎さんと比較するのはおこがましいかもしれないが、ここで2ちゃんねる西村博之(について言及したい)。以前彼は、インタビュー記事において、「コミュニティをつくりたいんじゃなくて、都市を作りたい」と言った。彼は、名前があるとつまんなくなる。常連が増えて(負のフィードバックが発生して)中長期的には存続しない。だから2ちゃんねるは匿名なんだ、と言っている。

 ここで、参考までに、上記リンク先より引用してみたい。

4Gamer:「2ちゃんねる」を居場所として捉える考え方がありますよね。そうした考え方と,人がいられる/いられないという問題については,どう考えていますか?
ひろゆき氏:そこはたぶんバランスの状態で,「ニュース速報掲示板」ていうのがあるわけですけど,最初に「2ちゃんねる」が流行った頃は「ロビー」って掲示板が流行ってて,そこはいろんな情報をみんなが持ち寄って流行らせていたわけです。
 ところがそのうち,属人的な,要はハンドルを持っている人が会話をし始めて雑談が増え,そこにいたい人はそのままいた。でも,その場にいたい人の話って,面白くないんですよ。今日何食ったとかそんな話だから。そうすると他人から見て面白くない情報が多いので,新しい人が入ってこなくなって,新しい情報が少なくなって,廃れていくんですよ。
 で,その次に「ラウンジ」って掲示板がまた出てきて,でもやっぱ雑談が増えて廃れて,で「ニュース速報」ってのが出て,割と廃れそうになったので,いろいろ排除する仕組みを入れてみようとかで,いまいじったりしている,という感じです。
4Gamer:ああ,居着かせちゃだめなんだ。
ひろゆき氏:僕は基本的に第三者とか,まったく前提知識のない人が見て,面白いものであったほうが面白いと思うタイプなので。(中略)こういうコミュニティって,だいたい2,3年でつぶれるんですよね。つぶれる理由ってやっぱり,常連が幅を利かせるからで。そうすると新しいところに行くっていうのが,いままでの解決策だったんですけど,そこをなんかシステム的にいじって解決できる方法があるかな,というのを,いろいろと試しているんですけど。(中略)双方にとって快適な居場所を共存させるなら,それぞれ別の場所に作ったほうが早いかなあと。新しい人にとって快適な場所を別に作っても,古い人達にとって古い場所は快適なままなので,新しい人にとってみれば,古い場所を変えるよりも,新しい場所を作ったほうが早い。
ひろゆき2008)

 続きに戻る。

濱野:つまり、ひろゆきは、2ちゃんねるを、コミュニティアーキテクトではなくて、都市アーキテクトとして理解している。じゃあ、西村が磯崎のようなアーキテクトとして立ち上がれるのかというと、そうではない。西村自身は、「自分は死んでも2ちゃんねるはコピペできる」と言う。シンガポールのダミー会社もすでにある。
 悪い場所性について考えた場合、どうしたって西村みたいなやつはでてくる(=社会から排除しようがない)。私(濱野)は、そこで西村みたいな人間にシンギュラリティを与えて議論したいのに、(世間的には)そうはならない(それが歯がゆい……というようなニュアンス)。
東:彼(=ひろゆき)ほど不真面目で、なぜ影響力があるのか、ということだ。なにが公共的でなにが公共的でないのかが、(ひろゆきのような人物においては)決められなくなっている。2ちゃんねるが公共的でないかといえば、そうでもないだろう。もし、ここにおいて問題があるとすれば、固有名の使い方。ほとんどそれだけの問題ではないかという気がする。しかし、今、あえて「イタい」ことをしなければ公共的な議論なんかできない。
 以前のシンポジウムにおいて。ソーシャルデザイナーには全体的な知が必要だとする宮台、分散しか無理じゃないかという東(そういう区別があったが……)。
宮台:僕、社会システム論やってますよね。で、均衡という概念よりも恒常、対流という考え方(がある)。免疫システムの話。タンパク質が異物として入ってきたんじゃなくて、私の履歴メカニズムが可能としているために、異物を異物として把握している。二クラス・ルーマン*13の話をすると、たとえばエコロジスト(という政治的立場)は、地球環境が社会より大きいという発想をもっている。しかし、これ自体、社会の生産によるもの。*14京都議定書は、1990年の基準で削減目標を決めている。これ全部政治プロセスであって、新しいレジュームで政治的ゲームである。今さら我々は「CO2がどうのこうの、本当はCO2が温暖化の原因じゃないんじゃないか」なんてと言っているが、「今更なにいってんだばーか」という話だ(政治ゲームだと気づかなかったのが負けだというだけ)。
 そうなると、全体性に意味がある、ないという議論自体に意味がない。先験的に全体性がある、ないという議論それ自体意味ない。
 ハイエクスポンテニアスオーダー(spontaneous order, 自生的秩序)、ポパーのピースミールエンジニアリング(piecemeal engineering, 漸次的技術)、部分的、プロセスプランニングなど(の解決策?)を推奨しているような構えがあるが、福祉社会国家を作ろうとしてた人間として、どちらがセンスがあったか。これはハイエクだったと思うんですね。コミュニケーションの接続を可能にするような概念を提供できれば、プラグマティックには十分かまわない。それでコミュニケーションが転がっていくのであれば、それは別にかまわない。
東:とどのつまり、ひろゆきが公共的だと見なせるかどうかが問題だと私は思う。ひろゆきみたいな人間が存在できるのは、結果的に悪くない可能性がある。しかし、それを「悪くない」と言うことで、思考それ自体は麻痺する可能性がある。

再び建築論――終わらない建築、〈切断〉、更新履歴

磯崎:プロセスプランニングにおいて、〈切断〉について言った。プロセスについては常識をしゃべったにすぎない。僕は、浅田さんと一緒に会議にでているが、グレッグ・リンという建築家がでてきた。そして、コンピュータが建築の設計図を自動生成していくものをみせられた。「どうだ。これがコンピュータが自動的につくるもので、ここから新しい建築が生まれるよ」という話。だけど、建築というものは、それを〈切断〉しないと……つまり、どこかストップをかけてフリーズしないと、実際の建築物に転換できないと。それがずっと動いていたら、いつまで経っても建築物にならない。
 グレッグ・リンにそう質問したら、そのときははっきりしなかった。次に行ったら、グレッグ・リンは「はっきり決まらない。止めるわけにいかない」と言った。「住宅屋さんが、カタログに沢山の建物を出すのと同じ。(切り出したものを)いくつも作っていく。これをマーケットに出すんだ。そしたら、100のバリエーションに対して、好き嫌いで答えるだろう。そのうち一番数の多かったものが一番いい建築になるんだよ」と言った。これは、非常にプリミティヴな設計部分をマーケットに出して、おそらくは確率・投票みたいな数によって動いていく。そういう意味で、「自分で決定する」ということを回避していく。会社が出せばいいんだ。そういうことになっていった。*15
 今までは、建築家が自分で〈切断〉をしなければいけなかった。昔はミケランジェロが図面を引いて決めたから、それでよかった。しかし、今はそれが変化していくもの、無限に変化させうる*16その上で、価値を決められない。これは決定不可能性がそのまま建築の表面にでてきている。あとは選択が、マーケット(=市場)の選択しかない。社会が勝手に決めていくものになっていく。そういう資料を提供するにすぎない。こういう反応であった。これは、グレッグ・リンの提示した一つの見方ではあるだろう。しかし、それで新しい一つの見方ができたとして、その動く、変化するシステムと、インプットした設計者の〈切断〉をする他人。この別なステップ(を、どう考えればよいのだろうか)。
東:第三のやり方があるのではないか。デリダだと、紙とインクがある。(だからいったん作品としてケリはついたようにみえるが)〈切断〉を仮にしたとしても、これが暫定的な〈切断〉にしかならないのではないか。
 実は、若手建築家の藤村龍至さんに、濱野君と一緒に話を伺いに行ったとき、(今のプロジェクトは)パターンナリッジの進化系として作られていると言っている。建築の作業過程は、ログとして全部残っており、そのプロセスによってクライアントとコミュニケーションをとっているのだという。これが、「みんなで決めた」という幻想を作っている。
 藤村さんが意識してるかはわからないが、これがまさにネット的なやりかたではないか。すべてのログ(変更履歴)が残っている。この表紙のデザインを1個つくる。その〈切断〉をやるのは自分なのか。しかし、ネットのクリエイティヴィティがあって、無限のUndoがある。これが畳み込まれているかたちで作品がでている。
 物理的限界がない、クライアントも〈切断〉できない。すべての可能性を保存しておくということが、メタボリズムがやろうとしてできなかったこと、情報の次元で可能になっている。プラグマティズムの立場からいえばそれでいいが、思考や批評がそこにどこに関わっていくか。
浅田:すべてのログを採るということ(について言及したい)。古代ギリシャにおけば、ドクサ(偏見)をパラドクサ(逆説の提示)で追いつめる、そこからエピステーメー(真理)へ進めるのが、(ソクラテス以来の哲学的)思考だとして、現在のGoogleランクにはパラドクサもエピステーメーもない。批評のジェスチャーが、意味を持たなくなっている。
 では、ドクサによるドクサの解体と再構築はどうすればいいか。東工大なので工学的なことをいうと、チューリングマシンの停止問題に近い。すべてはセルオートマトンであり、すべての粒子が勝手に計算していてエンドレス、そこから驚くべきクリエイティヴィティが立ち上がる、みたいな。(しかしそこでも)基本的にエピステーメーが成り立たなくなっている。そこからある種の批評性が見つけられないかという話なんですが。
東:浅田さんは面白そうだが、今は宮台さん。かなりつまんなさそうではないか。なにがつまんないか教えてください。(会場笑)

前向性記憶障害?

宮台:ここでの話って結局のところさ、前向性記憶障害じゃないの。

(会場「ぽかーん」。宮台結界発動)。

 キーワードは、映画『メメント』の話。

メメント [DVD]

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 〈切断〉とか持続性に意味があるのか。ベンサムは規則功利主義を提唱したひと。効用が上がるかどうかを基準に設計すべきだ。効用計算、効用集計をする際の準拠枠があったとして、新しいパラメータが生じて古いパラメータが消えた際、主体的に準拠枠を論じることが無意味になってきた。そして、前向性記憶障害みたいな人ばかりがでてきた今、「なにが批評的か」を論じるパラメータが変わってきている。パラフレーズ(=言い換え)すると、こういう話だったと思う。今やってる議論がつまらない・おもしろいはこの際脇において、やはり(このシンポジウムは)新しい議論をしていないようにも感じる。
浅田:(シンポジウムの議論に)新しいことがなくても、おもしろいとおもいますけど?(会場笑)
東:ところで、(われわれが罹っている)その記憶障害は、治せるんですか。
宮台:治す必要は、ないんじゃないかな(会場笑)。

ログが残って、何がいいわけ?――莫大なログを秩序付けるアイディア・鍵の不在

東:……宮台さんの、国益を考えるエリートが育たないからだ、という話について。インターネットは人が死なないからおもしろいことがいえる。ログのバージョンは、全て残る。
宮台:つまらないこともおもしろい。ログに関して言えば、『メメント』もログを残した。至る所にログを残す。だけれど、ログを解読するためのものは失われる。*17
 エリートじゃなくたって、地球温暖化をどう議論するかってことは、浮沈がかかる問題だとわかる。エリートでなくても、戦略的思考ができる人間ならわかってるんじゃないか。たとえば、沈みゆく麻生太郎政権の時になぜ増税の話がでるのか(戦略ミスだろう馬鹿)。昔の財務官僚だったらそう考えたはずなんじゃないの。コンテクスチュアリティ(contextuality, 文脈性)が失われてることに(政治レベルで)危惧を感じている。
 文脈を理解して、戦略的に行動する人間が増えないといけない。それが、ソサエティプランナー、ソサエティデザイナーとしての私の意見だ。
東:宮台さん、「一人一人頑張れ」っていうのと、「世の中の前向性記憶障害」を治すのは違う話でしょ。
宮台:「一人一人頑張れ」なんて僕が言うわけないじゃない!(会場笑)。そして、治す必要はないんだ。
東:僕の記憶が確かなら、『メメント』は、記憶障害に立ち向かって大変戦略的にやったあげく、自滅する話だったんじゃないですか(笑)。我々が全ての文脈を理解することはできない。ベックのリスク社会論でもそうだけど、どのみち自滅する。

ハッカーの功利的判断と公共性との関連付け、そこに正当化は必要や否や

浅田:西村博之問題に戻ると、世界の全ての情報をオーガナイズ(organize, 組織化)すること、そして善をなすこと。こういう理念はある。しかしひろゆきにミッション、使命はない。しかし別の意味で、公共性をもつプラットフォームを作っている。なお私は、宮台と同じく「どのみちだめ」だと思っている(会場笑)。
宮台:彼(=ひろゆき)は、おもしろいものを参照することには優れている。彼のパーソナリティ自体は非常に功利主義的で、自己評価ができている。*18その意味で言えば、公共性/非公共性という区別は(そもそも)はミスリーディングだと思う。
東:その通りです。公共倫理だとかどうのかってのが、ハッカー倫理の問題に近い(ひろゆきハッカー的)。クリエイティヴクラスの話に、そういう話がやたらでてくる。楽しいから作ると、結果的に公共的になる。まったくこれも裏返せる。「公共的なことをなしたいとしてもなにをやればいいのかわからない」ということでもある。今、公共的であるためにどうすればいいのか。
濱野:アメリからしか生まれないもの。インターネット自体が「楽しければいいじゃん」でやっている。結果的に自分たちが公共性になっていることを意識している。そしてひろゆきもそう。「ニコニコ宣言」について。「俺たちは集合愚をやる!」と。そこに公共センスが働くというのは、そういうネタ的なセンスがないと注目してくれない。この日本の傾向は、今に限った話ではない。ネタにひっかからないと日本では反応されない。裏返った公共性、北田暁大さんが述べた〈繋がりの社会性〉の話だ。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

アイロニカルな消費。無駄に発達するネタ精神の暴走はあるが、何か戦略があったのか、現在のニコ動は、2ちゃんねるほど暴力的なものでない。

ログを残せない身体性の問題を、現代においてどう考えるか――磯崎の提起

磯崎:建築とはフレームを組み立てることだ。とすると、それが開放なのか、自閉なのかで判断が変わる。*19マーケットは、先送りすることだ。今、アーキテクチャで次々できていく。その結果を、ヴァーチャルの中でしかないものをアクチュアル(=身体性がどうしてもかかわるもの)に変えていくことについては議論されていない。(そして今のアーキテクチャは)判断にどう応用できるか。
東:メタフィジカルなものをフィジカルに落とすことは大事だが、落とさなくていいものと落とさなきゃいけないものでいえば、「落とさなくていいもの」の割合が増えているのじゃないか。文・絵・音はそう。だが、演劇・建築は残り続ける。しかしグラデーションの問題でしかない。

まとめ、そして突然のニコ動カミングアウト(初音ミクとおっさんアラフォー)

浅田:オバマ大統領の話について言及する。Facebookの気持ち悪さというのがある。今回の大統領選は、ネットオタク(=オバマのこと)がネットオタクの力で勝ち取ったが、あれはボナパルティズムになっている、それに、私は日本のWebサー日ビスよりもある種の脅威を感じる。私は日本のダメさのほうがいいかなあ。(ここで浅田、時間の都合で退場。会場拍手)
宮台:ところで私はニコ動が好き。Deepユーザなんです。ネタ的なコミュニーション、プログレロックから歌謡曲にくる。初音ミクというVocaloid(これもHIGH-CONTEXTUALITYだ)のおかげで歌謡曲が復活したな。クリエイタは40代が多い。歌謡曲という日本の伝統芸能が生き残れるんじゃないか、という。
東:……まず今までいっていたことと180度違うということは認めてくださいますね?(笑)
宮台:はい(笑)。
東:では最後に一人一人まとめの発言を。
濱野:先日ニコ動勉強会をやったんですが、「初音ミク」と「オッサンホイホイ」のタグがすごく近いらしいということが実証されたんですよ。そして、ユビキタスが今後普及していく。iPhoneやARなどの新しい技術についても。(本当は「今後はニコニコ現実だ!」と言いたかったのではないか)
宇野:勉強になるなあと思いながら聴いていた。ただやっぱり自分は今回のシンポの話の6割は興味が無かったということは申し上げておきたい。
磯崎:最後にコンクリートの話をしたい。建築には、身体が感じてる物質によってトレーニングされるものがあるのだが、現在は、重さを感じずに物体の設計をしている、してしまえるという問題がある。それが実際、僕の周りに起こっている。ヴァーチャルな操作のまま図面が進む。前後左右の感覚が建築家のポイントだったのだが……。そうした、建築家の身体性の希薄化が全世界・全世代で起きている。*20
東:ところで、磯崎と濱野の年齢は半世紀離れている(実際に立ち上げてみて驚き)。

 こんなところですかね。
 このあと、筑波批評社id:sakstyle, id:klov, id:tsuttonと会って、東浩紀のファン・聴講生の皆々様がオープンスペースでパーティやってる隅っこで、Twitterライフログ、ゲーム論、哲学的小説の話をしておりました。初めてオフであった人に、「細身の眼鏡青年だと思っていたらゴツい体育会系兄さんでびっくり」という第二印象報告は相変わらずです。

*1:でも、宇野さんの話は非常につまらなかったので後でまとめて削除しました。すみません正直で

*2:私がポメラの冒頭に必ず書くもの。あとでWordアウトラインの見出しとして使用する

*3:この辺、本当に福田がジャーナリスティックなのかは疑問が残るが、私が不勉強なせいか典拠がよくわからない。ともあれあまり説得力が無かった。プレゼンも第二会場からはさっぱり見えなかった。

*4:

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

*5:

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成

*6:

比較制度分析序説  経済システムの進化と多元性 (講談社学術文庫)

比較制度分析序説 経済システムの進化と多元性 (講談社学術文庫)

*7:

アマルティア・セン―経済学と倫理学

アマルティア・セン―経済学と倫理学

*8:

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

*9:

CODE VERSION2.0

CODE VERSION2.0

*10:この辺、功利主義の思想が徹底しているなあと感じた部分。私の功利主義に関する知識は

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

にかなり拠っている。

*11:

都市革命―公有から共有へ

都市革命―公有から共有へ

*12:

錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)

錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)

*13:

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

*14:社会構築主義的な観点だなあと思った。

*15:こうした楽観的な言説が、結局のところポピュリズム的な商業主義に着地してしまいがちであることを指摘したという点で、この話は〈切断〉を回避する際の問題提起として素晴らしい議論だったと筆者(高橋)は感じている。

*16:作品がオープンエンドだと、いつまで経っても評価できない、という問題は、たとえば近代のゲームデザイン、特にM:tGTRPG、限りなく拡張していくUGC, CGMを「作品」として評価することができない。そういう意味で、ゲーム批評のみならず、文芸批評、あらゆる作品批評において、〈切断〉をどこでやるのか、〈切断〉の責任を取る主体は誰なのか、アーキテクチャは〈切断〉の責任をどのようにうまく回避して公共的によいもの・わるいものを作り出すような仕掛けとして機能しているのか、と言う話が可能だろう。

*17:これは、私は直接読んではいないのだが、円城塔が2008年のゼロアカ同人誌インタビューで述べた「indexing」の話と、その困難さに近いようにも思う。

*18:これも、リベラリズムが機能しているからOKというような論法であり、それを徹底して前提といて議論している宮台氏の立場は興味深い。骨の髄からリベラリスト、と言ってもいいんじゃないか。

*19:この指摘もGOOD。

*20:西垣通『聖なるヴァーチャルリアリティ』の話につながるか。