GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

Scoops RPG向けのアイディアメモ(罠四題ほか)

 acceleratorさんのところで、表紙問題についてコメントしました。
 そこで、補足記事でも書こうかと思ったのですが、書いているうちに綺麗にまとまりそうなアイディアが出てきたので、これは2009年03月のScoops RPGにとっておこうかな、と思います。2月号は筑波批評に投稿したものを送ったのですが、2月中に載るかはわかりません。(追記。結局、3月号になりそうです)
 前に書いたものは「文芸批評家のためのLudology入門」で変わらずですが、今書いている文の仮題は「TRPG論の論理トラップ」になりそうです。たぶん、後半には馬場秀和批判も入って来ます。

  1. 美的判断の罠
  2. エヴァンジェリストの罠
  3. アイロニストの罠
  4. 規律訓練の罠

 表紙絵問題から始めて、この4つの論理トラップを順々に抜けることで、TRPG論はより整理されたものになるだろう、というような話です。
 コンパクトに要旨だけまとまった話を数十本集めたようなものを、ScoopsRPGに送ろうと思っていたこともありましたが、今回ようやく構成アイディアが降りてきた感じです。
 表紙絵問題、面白いなあ。

 ところで私は、馬場秀和さんと私に共通する規律訓練的なプラン(つまり、ゲームデザイン的な技法の評価基準や技法、教育方法などを学ぶことによって、趣味文化としてのTRPGを育成していくようなTRPG観)というのは、すでに現代思想的にムリがあると自己批判しております。個人的に求道するならさておき、人間そんなに理性的にゲームできないって。
 むしろ、FEARが進めているような、「遊んでいるうちに、TRPGにおいて必要な運営方法が自然に身につく」ような、どちらかといえば環境管理的なデザインの方が、実践においては正しいと思っている。楽しさ、という言葉が魔法の杖として使われているのは愉快ですが、楽しさを一人一人分析すること自体が、ユーザーにとって負担になるというのは当然のことです。そしてそれは、結局回転翼さんがかつて批判した「碩学モデル」の批判とほとんど同じ立場に私も到達してしまった、ということです。
 しかし私は、ルールブックに「楽しさ」の設計を余すことなく伝えるには、FEARが提示し、使い倒しているモデルだけでは、不充分だと思っている。それは紙魚砂さんのTRPGシナリオ13分類とかを見れば自明で、FEARの「楽しさ」の伝達の巧みさは、どこまでほかのシナリオ記法で通用するかは、まだまだ論じる余地がある。
 シナリオ記法について考察するは、そのままTRPGデザインの多様性・複雑さを縮減する役に立つ。私たちがTRPGというものを受容する際、システム、シナリオ、現場でのハンドリング&プレイという3段階があるけれど、結局降りてくるので一番重要なのはシナリオデザインにこめられた具体的なデザインテクニック。
 RPG日本の鏡さんの努力を否定するつもりではないけれど、おそらくTRPGというのは「自由」という概念で切るのは少し難しくて、むしろどのようなシナリオ記法を仮定することによって「特定のデザイン」が立ち上がるのか*1の方が、鏡さんの欲しい自由の余地を確保するには重要だと思うんですよね。岡和田晃さんが、TRPGのフレーバーテキストに換喩的想像力という形で読み取っているようなことは、たとえば私たちのナラティヴな思考、文学的解釈(ガダマー的?)がどういう風に数値ゲーを数値に還元されないものに変形していくかというような議論をしていて、このようなアプローチの方が「自由」を考える上で具体的な前進をしているように思えるし、あるいはVampire.SさんがArs Magicaのシステム内にある「美点」の、「データ=シナリオフック」的なデザインの美しさを褒めていることも、デザインレベルでは的を射た議論だと思いました。(2008年のチャットにて)

「あるかもしんない」というような、余地を論じるような曖昧な議論ではなく、具体的に、どのような制約(=ルールのパーツ)が採用されることによって面白さが生まれるのか。また制約同士の関係がどのように立ち上がってくるのか。それを、システムデザイナーが事前に考えるのではなく、ゲームマスターやプレイヤーが考えて行く。
 これは大変難易度が高くて、というか、一人一人がボードゲームデザイナーの専門家になるようなもので、「そんなのユーザー個人でできるわけねーし楽しくもねーだろボケ」というのは、言われるまでもなくもちろんそうなんですが(いや私は楽しいんですが)、実際には、何も考えずに環境の中で戯れられるTRPGと、糞ゲーとも言えるような状況を自分たちの知で心地よい環境に再設計するTRPGとが、まったく同一のシステムで可能だったりするならば、それはそれでスゲエTRPGシステムじゃないかとは思います(たぶん、それは天才的なデザイナーじゃないとムリです。大半のデザイナーは、自分の技量でユーザーを喜ばせるか、自分の技量の及ばないところでユーザーのデザインテクニックを信じるかのどっちかを重視することになるのではないかと)。
 そもそも馬場秀和さんの議論って、突き詰めれば「一人一人がボードゲームデザインを学びながら、TRPGという遊びを無限に面白くしていくような秘儀に参入し、その面白さをできるだけ多くの人に理解して貰うような教育方法までかんがえるんじゃー」という話で、大変インテリ的な話としてはうなずけるんですが、それを素朴に実践するのはまず不可能ですね。そもそもボードゲームデザインって面白いの? という仮定を、馬場さんは保証仕切れてないし(実感としてはわかるんだけど、それこそ「外に向かう言葉」になってない)。
 まあ、システムレベルで自由度が高くても、デザイナーは質の高いシナリオを提供することでいくらでも追加の環境管理ができるんですけどね。ただし、それを読み上げるゲームマスターの訓練の問題がいつまでも残るので(読み上げるだけではいつまで経っても、TRPG的に面白いゲームは立ち上がらない)、難しいものです。TRPGボードゲームデザインというメディアに立脚しているために、どうしても規律訓練的(この場合、自発的学習が必要という程度の意味ですが)な要素が入り込む。そして、上達すると、規律訓練的な発言を連発して、まだデザイナーの知に戯れていたい人にとって「ウザい老害」とかになっていく。この構造、今はわりと楽しく俯瞰できるんですけど、どうにかならないもんですかね本当。
 そもそもボードゲーム的な思想というものの限界が、今TRPGを論じるにあたって試されているようにも思うんですよねー。
 と、珍しく馬場さんを論難するような話をあえてしてみました。こういう立ち位置をつくってみるのも、面白いと思って。結局Blogは、具体的な議論するなら、いつまでも静的構造を保っている論文をきっちり書いた方がよくて、ポジショニングの戯れの中で新しいものを生み出す余地を作り出していくような文章以外載せなくてもいいんじゃないかって気もするんですよ。あとは、2ch的に「>>1」になるというか、ニコ動的うp主になるというか、そういう風に断続的にカーニバルの神主になり続けることでフォーラムを確保することでしかない。まともなフォーラムが存在しないTRPG論壇でそういうことをするのはまあ有効なんですが、本当に欲しい世界はそんなんじゃないんですよねー。

*1:そこをルールブックの記述によって制御し、ある程度安定した楽しみを提示してきたのがシステムデザイナーなわけです。そしてシナリオとハンドリングの段階にまで大胆に介入して、システムデザイナーの仕事を増やすかわりに安定したゲームの楽しみを与えられるようにしたのがFEARの商品戦略と言える。これによってTRPGデザインの思想は前進したとも言える。より正確に言うと、システムコンセプトレベルよりディヴェロップメントの前進の方が大きいが。