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TRPG理論クロステーブル&再度、馬場秀和氏について

id:mallionさんが「理論」と「実践」の関連について論じる際、私の活動に言及してくださったので、私が「理論」と「実践」をどのように考えているかについて、私の考えを表明しておく。またその流れで、TRPGにおける「理論」の重要性を一貫して主張し続けてきた馬場秀和氏の立場を、彼自身の立場に即しつつ、あらためて確認しておきたい。

 (図表が大きいため、隠しました。「続きを読む」をクリック。)


 まずはこの表を見てほしい。

 〈基礎理論〉*1〈表現技法〉〈教育方法〉*2を、TRPGにおける3つの表現分野と3×3でクロスしたものである。〈基礎理論〉のサブカテゴリも含めると、実に12のカテゴリがあることになる。
 上に述べた用語のそれぞれの定義については『ロールプレイング・ゲームの批評用語』で定義してあるので、ぜひリンク先で確かめていただきたい。
 「マスターリングの表現技法」以外ほとんど空白なのは、まだまだこれらのカテゴリに何が入るのか、私自身も含めて綿密な検討が加えられていないためである。*3
 さて、私にとってのTRPGの「実践」とは、これら9(+3)つのカテゴリを参照しながら〈システムデザイン〉〈マスターリング〉〈プレイング〉のいずれかを行うことである。 
 2007年現在、特定のシステムに依拠しないロールプレイング・ゲームの理論は、まったく完成していない。そのかわり、それぞれのベテラン・ユーザーや、特定システムで示されたプロのデザイナー達が発見・発明・提唱した思想が、その代替的な役割を担っているといえる(そして、それで十分だ、という声もきっと多いことだろう)。
 ところで『馬場秀和のマスターリング講座』は、「マスターリングの表現方法」を、「マスターリングの定義論」「マスターリングの構造論」とともに示そうとしたものだった。しかし、もし「TRPG理論」を9つ(あるいは12)に細分化して考えた場合、馬場の作業は残念ながら不十分なものだと言わざるを得ないし、本人もそのことを認めている。

 そしてまた、このことを強調しておきたい。私の「小さな論考」は、仮にその全てが正鵠を射ていたとしても、なお恐ろしいほどに不完全であり、我々が必要としている完成した「TRPG理論」からは、ほど遠いのである。
 私の「小さな論考」には、その是非はともかくとして、基礎理論と表現技法の一部が含まれている(特に、定義、構造、マスターリング技法)。しかしながら、ゲームデザイン技法についてはほとんど語ってないし、ゲームプレイング技法についても沈黙している。訓練方法(メソッド)については、何度かその必要性を指摘しているだけで、具体的なことは何も提示してない。教則もしかり。
 基礎理論に限っても、TRPGのゲーム的側面に集中するあまり、演劇的側面、芸術的側面、祝祭空間的な側面、などを軽視しすぎているという批判があるし、それはそうかも知れない。(正直いって、自分ではそうは思ってないが)
 私が、いずれこのようなテーマについても論考を発表するだろうと思っている人がいるとしたら、まことにお気の毒さまである。私がTRPGについて重要な何かを書いてないとすれば、それは自分には書けないからである。いつの日か、上で強調表示した重要なテーマについて、優れた論考を書く人が現れるだろう。だが、それは私ではない。
(馬場2004)

 こういった発言を改めて検証してみたとき、実は「馬場理論」と呼ばれるもののうち、「理論」の一部をなすものとして考えられるのは「マスターリング技法」と、それに関わる範囲での最低限の「定義」「構造」のみであることに気づかされる。
 したがって私は、もはや「馬場理論」という呼び方自体を採用しないほうがよいのではないか、と考えている。かつて私は、『ロールプレイング・ゲームの批評用語』を作成するにあたって、「馬場理論ディレクトリ」というエントリを仕上げたが、あそこで述べられたものをすべてかき集めても、「TRPG理論」そのものにはなりえないことは、誰の眼から見ても明らかだろう。

 ただし、私は自分の論考に多くの誤りや偏見が含まれてあろうことを、喜んで認めるし、そのことを何ら恥じるものではない。論文の著者は、それが真摯かつ責任ある考察の産物であり、積み重なってゆくもので、他の人の知的反応を引き出すに足りるものであったなら、たとえ結果的にその主張自体は誤っていたとしても、理論全体の発展に寄与したことを誇りに思うべきだと、私はそう確信する。
 だから、私を批判する人々に対しては、「では、より優れた論文をぜひご提示いただきたい。どうか、私の理論を乗り越えたまえ。それにより貴方がTRPG理論を発展させるのであれば、私はそれを称賛し、貴方が優れた業績を残すのに貢献できたことを誇りに思うだろう」と告げるものである。
(同上)

 ここまで主張しているにもかかわらず、相変わらず馬場氏の一連の主張が要らぬ誤解や中傷を受けているように思われるのは、一体なぜだろうか。
 私はそうした閉塞的な状況に、強い違和感を覚えている。以前からずっと。

*1:〈定義論〉〈構造論〉に二分される。

*2:厳密には「教則」と「(自己)訓練方法」に2分される。

*3:俵ねずみ氏の議論は「プレイングの表現技法」に含めてもよいかもしれないが、まだ私の方では検討を終えていない。また、馬場秀和の議論から、〈課題の解決〉〈役割分担〉〈ロールプレイング〉〈ゲームコンセプト(の再現)〉の4つをプレイング・テクニックの4本柱とすることも可能だが、ではどのように「テクニック」として示すのかについて詳しい議論はまだできない。議論の大枠が用意されているに過ぎないのだ。