GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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新清士のMOD論から“ゲーム開発キット”としてのTRPGを捉えなおす(2)─「自動マリオ」が〈ゲームデザイン〉と言い切れない理由

 私は今年の6月下旬に、「〈MOD〉の観点からTRPG評価の軸を考えてみようじゃないか」という趣旨の話*1をしました(新清士の議論については、ぜひリンク先から辿って一読してみてください。ゲーム産業研究の最先端の立場から、刺激的な知見が述べられています)。

 今回はこの話の続きになります。同じ〈MOD〉を使っても、そこから生まれるモノが必ずしも「ゲーム」とは限らないということを、新しい「改造マリオ」の動画を例に引きつつ、論じたいと思います。


 以下は、「自動的にゴールまで連れ去られるマリオ」の映像です。
 前回はプレイヤーが超難関コースにチャレンジしていたのに対し、これはステージを編集した人がそのまま、実行した画面を撮影しているようですね。

 いやはや、すごいすごい。芸術的ですね。

 でも、なんだか前回の「改造マリオ」と較べて、なんだか手に汗握るものがないですよね。また、これは果たして〈ゲームデザイン〉なのか、それとも〈プレイ〉なのか、といった概念的な区別も、だいぶあやふやに思えてきます。
 この辺の疑問を、前回の〈MOD〉の議論を踏まえて、考察してみます。

 まず、私はこの動画の〈プレイ〉に良く似たゲームソフトを知っています。『インクレディブル・マシーン』という海外のPCゲームです。
 以下、とても詳しく情熱的に紹介しているページから引用します。

 『もっともっとインクレディブル・マシーン(以下インクレ)』は先ほども言いましたが、面クリア型のパズルです。
 内容は一言でいうと、『仕掛けを作るゲーム』
 なんといいますか、ほら、漫画とかでよくある、ある仕掛けを一つ動かしたらそれが次々と他の仕掛けに連鎖、連動していき、最終的に何かしら達せられるというやつです。
 昔風に言うと、『風が吹けば桶屋が儲かる』という感じですか。
 たとえばねずみ滑車にベルトコンベアをつないで、コンベアの上にボールを設置し、その先にはトランポリンがあり、ボールがトランポリンで跳ね返り、先にある電源スイッチを入れて扇風機が回りだし、その風でネズミが飛ばされて、その先にはシーソーがあり、ねずみによってシーソーが動き、そのシーソーにつなげられているロープが電球のヒモを引っ張り、その電球の光で太陽電池式の電源ユニットが動き、そこに繋げられている掃除機が動き出し……という具合。
 映画でいうなら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の冒頭で出てきた自動ドッグフード設置マシーンみたいな感じですか(マニアックだあ)。
 つまり、アメリカのコメディ番組でよく見られるような、素朴でユニークなギミックを作り、ステージ事に定められた条件を満たすゲームというわけです。
(ほのん「もっともっとインクレディブルマシーン」より抜粋)*2

 この『インクレディブルマシーン』は、日本ではそれほど認知度が高くないと思いますが、とてもよくできた名作ソフトです。私も中学生の頃に、ずいぶんとやりこみました。

 でも、日本人なら、NHK教育の「ピタゴラスイッチ」や、毎年末にテレビ特番で行われる大規模ドミノ倒しイベントなどの方が、なじみが深いかもしれませんね。
 たとえば、長崎県のとある学校で作られた、以下のような装置。

 

 ついつい、じっくり見入ってしまいますね。

 ところで、これらのような「風が吹けば桶屋が儲かる」式のもったいぶった仕掛けのことを、まとめてルーブ・ゴールドバーグ・マシーン(Rube Goldberg machines)」といいます。このルーブ・ゴールドバーグというのは20世紀前半に活躍したアメリカの風刺漫画家の名前で──と言えばすぐに想像がつくと思いますが──こういった冗長な仕掛けを風刺画で発表した、最初の人物として知られています。

■Robe Goldberg Official Website
http://www.rubegoldberg.com/

 リンク先のTOPページでは、典型的なRobe Goldberg machinesがFLASHでゴリゴリ動いているのをみることができます。
 またサイト中のギャラリーには、こんな写真も紹介されています。

 キャプションは「エンピツ削りをカンタンにしてみました」*3。なかなかしゃれが効いてますね。元々、工業機械に対する国内のゆきすぎた信仰に「待った」をかけるためのナンセンス画として書かれたそうですが、それが実際に一種の思考遊技として普及していったのですね。

 そしてまさにこの「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」文化の最末端に、「自動マリオ」を置くことができる、というわけです。

 ここまでは歴史のおさらいですが、ここからは本題。

 私は前回の「改造マリオ」におけるチート行為が、ゲームデザインにおける〈MOD〉の新たな可能性を示唆する、素晴らしい試みだ、ということを述べました。

 しかし、今回の「自動マリオ」は、同じチート行為を行ったという点では〈MOD〉の可能性を相変わらず保ってはいるのですが、ゲームデザインの面で見ると、特に刺激を受けるものがありません。

 確かに、「オブジェクト(=マリオ)をゴールまで運ぶために、環境をいじる」という発想は、『インクレディブル・マシーン』と共通しています。

 けれども、この動画の作者は、その先にあったはずのゲーム的楽しみを、全て自分の手元で消化し尽くしてしまっています。したがって観客はただその作る過程を「へー、すげえこと考えるな」と眺めるしかない。しかもそのせいで、いくらこの動画自体が華麗に見えても、チート行為を覚えてまで楽しみたいと思うような“想像力の隙間”も、大して与えられていません。

 もし、このゲームコンセプトで〈MOD〉の楽しみを提供しようとするならば、プレイ動画には「ゴールへ運ぶまでに、設置ミスをして死ぬたくさんのマリオ」も含まれなければなりません。「何度も設置ミスをする」ところが、この種のゲームのまさに一番知的かつエキサイティングなところのはずです。ですがこの動画には、「設置して試行錯誤する楽しみ」という、一番大事なものが抜け落ちてしまっています。*4

 つまり「自動マリオ」は、このチート行為の本当のゲーム的な面白さが「設置=プレイングの失敗」にあることをうまく提示できていない*5ために、ゲームのプレイ動画としては、はなはだ味気ないものになってしまっているわけです。*6

 ですがこのことを裏返せば、プレイヤーが試行錯誤した「プロセス」を想像させられるよう工夫すれば、それがたとえ、介入の余地がない「見世物」であっても〈MOD〉の楽しみをうまく紹介することができる、ということでもあります。

 「改造マリオを友人にプレイさせる」が成功して、「自動マリオ」が失敗している、その違いを生み出しているのは、まさにその点にあるはずではないかと、私は思います。

(今回のメインの論は以上で終わり。以下はTRPGゲーマー向けの補足です。)

「見世物としてはよくても、ゲームの楽しみを伝えるものとしては、不十分である」──これは、TRPGリプレイを執筆してきたあらゆる人たちの悩みと似通っているのではないかと思います。リプレイの記述から、その場に居合わせたプレイヤーの頭の中を読み取ってもらえればいいのですが、なかなかそううまくはいきませんよね。ゲームマスターの意図(ねらい)とプレイヤーの意図(ねらい)、双方の意識がよく読み取れるリプレイを、実際のプレイの参考になるように記述するのは、なかなか大変な作業です。

 その意味で、近年TRPG界隈で話題になった『アリアンロッド・リプレイ・ルージュ』第3巻後半の記述は、TRPGにおける意志決定*7とその結果の反映を、なるべく忠実に写し取ろうとした、優れたリプレイだったと思います。TRPGゲーマーでまだ読まれていない方は、一読をおすすめします。


(補足)

 2007年08月06日に、id:kilica(氷川霧霞)さんからのご指摘を受けて、定義が本来の用語とかみ合わなかったミドルウェア」の語を「MOD」あるいは「(ゲーム)開発環境キット」にすべて改めました。氷川さん、ありがとうございます。

*1:ここでいう〈MOD〉は、もともと「デジタルゲームのデータを書き換えるための拡張パッケージ」(Modify)のことを意味していた。しかし、このMODが、ゲーム開発ノウハウのないアマチュアにもゲーム開発環境を提供する役割を果たすようになってきたり、また経済的にも世界規模でMOD発の製品『カウンターストライク』が爆発的に売れてしまったことなどにより、MODが業界に果たす役割は一昔前と比べて飛躍的に向上しつつある。筆者は、このMODにある「多くの人たちに、お手軽にゲームを開発する環境を与えることができる」というメリットが、1970年代からのTRPGシステムにも当てはまっていたのではないかという立場に立って、アナログゲーム版〈MOD〉としてのTRPGを論じ、再評価しようとしているのであった。

*2:http://www.wshin.com/games/review/ma/incrediblemachine.htm

*3:Simplified Pencil Sharpner/http://www.rubegoldberg.com/gallery_02.php

*4:少なくとも『インクレディブル・マシーン』は、その試行錯誤の末に、意外なクリア方法を発見した時に最高のカタルシスが訪れるゲームでした。

*5:あるいは「見せるべき魅力」を別のところに置いてしまった。

*6:ここで本質的なのは、〈ゲームデザイナー〉と〈プレイヤー〉が同一人物である、ということではありません。〈ゲームデザイン〉と〈プレイ〉両方の過程があったはずなのに、この「自動マリオ」の動画には〈プレイ〉の痕跡が一切みられないことが問題なのです。もし、エディット画面も含めた「自動マリオ」があれば、〈ゲームデザイナー〉と〈プレイヤー〉が同一人物であっても、問題はなかったはずです。……おそらく非常に冗長な動画になることは間違いありませんが。

*7:コスティキャン的な意味での