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2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

〈一意的描写〉と〈意志決定〉の対立─『Aのネットラジオ』で語られた演劇論からTRPGを考える

 昨日、東京に来ていた氷川霧霞さんと飲んでいて、
「いつになったらちゃんとTRPGの理論的な話をするんですか?(笑顔)」
と釘を刺されたので(アイタタタ(笑))、ちゃんと今回はTRPGの話をしようと思います。はい。

 久しぶりに本格的に長くなったので、本当にヒマな人だけ読んでください。後で文句を言われても、論じる内容がたまたま重かったということで諦めてください。Scoops RPGコラム並みの長さになってしまいました。

 二つの問題を扱っています。「TRPGシステムが写実主義的な演劇の可能性をカバーしてこられなかった理由」と、「〈一意的描写〉を目指し続けると、それは〈ゲーム〉ではなくなってしまうという矛盾」についてです。

 あまりに長いので、今月の更新はこれでSTOPします。暫くコレだけ読んでくださればいいのではないかと思います。もしかしたら、機を見て手直しして、Scoops RPGに投稿するかもしれません。まだわかりませんが。


 『Aの魔法陣』文化圏で、積極的にネットラジオが育っているらしいことを、id:acceleratorさんの紹介記事で知りました。

■accelerator, 2007.08.17「なりきりのモダンとポストモダン
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20070817/p2

 ここで取り上げられていたのが、以下のWebラジオです。

■ウチガネカケル,2007.07.30「【Aラジ】TRPG+演技論【マジガネ】」
http://www.voiceblog.jp/a-radio/389717.html

 ちょっとまだ全部聴けているわけではないので、この「Aラジ」がどういった方法で運営されているのかは私にはまだちょっとわかりません。掲示板上*1でリアルタイムにリスナーの意見を貰いながら進行しているようですね。『アイドレス』*2で名前を聴いたことのあるプレイヤーさんもちらほら見られます。

 このウチガネカケルさんは、アマチュアで劇団を主宰している方? で、演技論については一家言ある方のようですね。TRPGゲーマーみんなにも伝わる、非常に刺激的なことを話されています。

 このラジオでどんなことが話されているかを、私の聞いた範囲で箇条書きで記しておきます。

  • 脚本家の能力は、その状況に関するリアルさを掴み取る想像力によって区別される。たとえば、「なぜジッポライターを探すのに最初から首をキョロキョロするのがいけないのか?」*3という問いにすぐ演技で答えられなければならない。
  • 行動には論理的な〈筋〉を通さなければならない。本当にできない役者は、論理的な〈筋〉を教えてもうまくできない。そして、論理的な〈筋〉の考え方を身に付けるにはTRPG、しかも『Aの魔法陣』が有効だと思われる。
  • 『Aマホ』はエチュード*4に近いが、考える間があるという点で本物のエチュードと異なる。また本式のエチュードは「間がない」というまさにその点で訓練として不適切であり、演劇稽古としては『Aの魔法陣』の方が優れている。
  • Aの魔法陣』のルールブックは、演劇経験者の自分〔ウチガネ〕にとっては、演劇の指導書そのもののように読める。たとえば、まず名前・性別・年齢・設定などを書かせることは、演劇台本を渡された時の俳優のキャラ作りとまったく同じである。
  • 演劇界はどんどんゲーム的な要素を取り入れていくべきだ。また、TRPGにおいても、声による劇団を「劇団」と呼んでもよい時代がもう来ているのではないか。自分は今後も、『Aの魔法陣』で演劇的な能力を育てる活動をしていきたいと思っている

 私はこれらのウチガネさんの言説を「演技論」というよりも「演出論・脚本論」として読みました。ウチガネさんの話は、「おおまかに提示された設定を、どうリアリティあるものに分析していくか」というところに焦点が置かれています。プレイヤー、あるいはSD*5が、「上手な脚本家=演出者=演技者」となって、プレイの場に関わっていくことを論じているようです。*6

 脚本家や演出家、あるいは演技者自身が知っておくべき推論能力を、TRPGゲーマーも理解するといいよ、という議論だと思いますね。

 ところで、ここで披瀝された演劇論は、演劇論としてはかなり古典的なものの一つであるように思います。より具体的に言うと、モスクワの演劇理論家、スタニスラフスキーが編み出した〈スタニスラフスキー・システム〉、そしてリー・ストラスバーグがスタシスに感銘を受けてその手法をハリウッドに持ち込んだ〈メソード〉の思想と、かなり近いのです。詳しくはスタニスラフスキーの『俳優修業』(未来社刊)を読んでいただきたいのですが、最近では下のような入門書も公刊したようです。私はまだ読んでませんので、内容に関する責任は負いかねますが。

スタニスラーフスキイ・システムによる俳優教育

スタニスラーフスキイ・システムによる俳優教育

 実は私も、この〈スタニスラフスキー・システム〉、略して〈スタシス〉の観点からキャラクター・プレイ批判*7を再考しようとした時期がありまして、以前からスタニスラフスキー的な演技の可能性について検討してきました。

 その蓄積から感想を述べますと──つまりこの理屈って、『Aの魔法陣』というゲーム独特のプレイ環境がもたらした議論だよな、と私は思いました。『Aマホ』というゲームが切り開いた新しいパースペクティヴがあって、初めて“まとも”に議論可能になったものなんじゃないかと思うわけです。『Aの魔法陣』が出るまで、この演劇方面へ伸びるTRPGの可能性は、はなはだ不十分なものだったと思います。

 それだけでなく、TRPG全体の特徴から検討した上でも、かなり困難な問題が待ち受けています。TRPGは、それが〈ゲーム〉であるために、台本によってすでに定められた物語を再演する芸術である〈演劇〉とは、究極的には相容れないものなのです。

 以上2つの感想が、ラジオ放送に対する私の意見となります。私は「近代演劇理論」が目指したものと、「ゲームデザイン理論」がそれぞれ目指してきたものとでは、それぞれに目標地点のズレがあると考えています。

 演劇理論の方については、あまり詳しくない人が多いと思いますので、軽く演劇理論のレビューもしつつ、ご説明しましょう。

 まず、もっとも大事な論点は、ウチガネさんの言う〈筋〉の問題です。

 ウチガネさんは、キャラクターの演技をリアルにするためには、〈筋〉の通った想像をできることが必要不可欠であることを説いています。

 スタシスでは、この〈筋〉のことを、〈行動の貫通線〉*8あるいは〈貫通行動〉*9と呼びます。「俳優は、キャラクターの〈行動の貫通線〉をつくるために、与えられた状況を適切に解釈し、それに基づいた自然な演技をする必要がある」──これが、スタシスのかなり重要なテーゼになっています。

 スタシスの重要概念はほかにも色々あるのですが*10、ひとまずこの〈行動の貫通線〉に的をしぼって話を進めていきましょう。

 『俳優修業』から引いてみます。スタシスのほとんどの内容が、ストーリー形式で書かれている本です。著者はスタニスラフスキー自身です。この本の中で、スタニスラフスキーの代弁者であると思われる演出家トルツォフは、「エチュードをうまく演技するためには、ちゃんと行動ひとつひとつの論理的一貫性に考えをめぐらせる必要がある」ことを演劇学校の生徒達に述べてから、こう宣言します。

「今日は、諸君は、動機があって行動したということができる。演劇における行動はすべて、内的に正当化されていて、論理的で、一貫していて、リアルでなければならないということを学んだのである。」
(スタニスラフスキイ[1936]1975:72)

 じっさい、スタニスラフスキイは、こういう風に「キャラクターの内面について常にリアルに考えること」を役者に強制することで、自然な演技を構築していくことを理想としています。これは確かに、TRPGにも適しているお話のように感じますね。

 けれど、ここでみなさんに気づいて欲しいのは、このスタニスラフスキーの演劇理論は、必ずしも「汎用の演劇理論」とは言えない、ということです。

 たとえば、内面なんてものをゴタゴタ言うより先に〈型〉を徹底的に叩き込み、その〈型〉のバリエーションによって演劇世界を構築していく我らが日本の伝統芸能、能や歌舞伎は、スタシスから見ればまったくもってワケがわかりません。能や歌舞伎は、演者の内面よりも外面の技巧をこそ、徹底的に重視するのです。

 さらに、たとえば『スターウォーズ』に出てくる化け物じみた人々や、ファンタジーに出てくるドラゴンの気持ちを考えて演技するといった場合、このスタシスの適用はとても難しくなります。

 西洋の演劇でも例外はいくらでもあります。ブロードウェイの劇団や日本の劇団四季が日夜公演しているミュージカル「ライオンキング」はどうでしょう? 歌唱隊〔コロス〕と劇的行動者〔ヒーロー〕が明確に区別されている古典的ギリシャ演劇なんか、どうなってしまうのでしょう? こうなってくるともう、心理主義とかそういったものがバカらしくなってしまうようなものではないですか。

 なのに、能もミュージカルも『スターウォーズ』でも、ちゃんと、人々を感動させる要素があるのです。それはなぜなのでしょう?

 これと似たようなことを考えたのでしょうか。〈内面〉を重視する心理主義的なスタニスラフスキーとはまったく反対の、〈外面〉を重視するに至った、同時代の演劇理論家がいます。メイエルホリドという人物です。彼は〈ビオメハニカ〉という、徹底的に身体操作にこだわった演劇メソッドを開発して、心理主義スタニスラフスキーとはまるで反対の立場に立ちました。*11

 このようにして、20世紀前半のロシア演劇界では、内面主義(心理主義)と外面主義(身体主義)とが、みごとに対立していたわけです。

 ここまでではっきりしたように、スタニスラフスキーの演劇論というのは、実はすべての演劇に共通するメソッドというわけではありません。チェーホフイプセンなどの、それこそ全然ヒロイックでもなんでもない人物達による群像劇を扱う際に有用であはあるけれども、近代の写実主義的・自然主義的なリアリズムから外れまくった芝居には通用しにくいメソッドだということが言えるわけです*12

 ともあれ皆さんには、この〈内面主義-外面主義〉という、演劇理論史上にある永遠の二項対立があることを、おぼえてくだされば幸いです。

 さて、話をそろそろTRPGに戻しましょう。

 たしかに、D&DやトラベラーやCoCのような「非現実的な舞台背景」についても、内容の一貫性やリアリティについて試行錯誤することは、不可能ではありません。じっさい、今までキャラクターの演技について言及してきた人たちは、「ファンタジー世界にもリアリティある行動はあり得る」「ファンタジー世界にはファンタジー世界の、(写実主義自然主義といった立場とは異なる)リアリズムがあるはずだ」ということを念頭に置きつつ、キャラクターの演技について論じてきたはずです。それは概ね、〈まんが・アニメ的リアリズム*13や〈ゲーム的リアリズム*14といったものに代表されるリアリズムだったように思います。

 しかし、その議論において、自然主義的リアリズムでないリアリズムについての理論構築が、どれだけ進んできたかといえば、じっさいにはほとんど蔑ろにされてきた印象が拭えません。かつて仮想光線氏が論じた『キャラクタープレイング論』*15さえも、「物語創造」の魅力についてはたいへん雄弁に語っていましたが、残念ながら「TRPGでリアリズム演劇的な表現が未だにできない理由」を分析する役に立つ議論ではありませんでした。

 要するにTRPGゲーマーは、TRPGで表現可能な荒唐無稽なセッティングのリアリズムにもとづいてキャラクター・プレイをすることについては絶賛してきたけれども、一方であまりTRPGでは再現できてこなかった自然主義的・写実主義的リアリズムにもとづいてロールプレイすることの可能性については、ほとんど注目しようとしてこなかったし、なぜ不可能なのかについてもほとんど議論できてこなかったのです。議論はされていたかもしれませんが、それが実ってまともに(楽しく)遊べる写実主義TRPGシステムが生まれるまでには、ついに至りませんでした。*16

 TRPGゲーマーの好きな世界観が、ファンタジーだろうとSFだろうとコズミック・ホラーだろうと『涼宮ハルヒの憂鬱』だろうと、そんなリアリズムを真面目に受け取ろうとしない“その他大勢”に対して、今のほとんどのTRPGシステムが前提とするリアリズムが理解される日は、彼らの理解するリアリズムでも十分遊べるTRPGを通じて理解してもらわない限りは、まず永遠にやってこないでしょう。*17私はことあるごとに似たようなことを述べてきましたが、TRPGの問題点は、現実には考えられないような荒唐無稽な世界ばかりを扱っていることなどではなく、荒唐無稽な世界観以外の、写実主義的・自然主義的な状況をも等しくロールプレイできるゲームが“なぜか”全然出てこなかったということ、これに尽きます。

 こんな状況では、「キャラクターの演技を遊ぶのが楽しい」という素朴な主張のもとに擁護されるTRPGの魅力が、間違ってはいないにせよ、いかに片手落ちのものであるかは、明らかでしょう。彼らが「演技」や「良いロールプレイ」の名の下に擁護したいのは、リアリズム演劇をも含みこんだ、本来の意味での「演技」全体ではなく、単に「自分達が演技したいというだけの、TRPG文化圏の外にはまるで通じない演技」だけだったかもしれないのですから。*18

 しかしそんな中で、今回のウチガネさんの議論が、あんなにも勢いよく演劇的〈リアリティ〉について言及しても、私はあまり違和感を感じませんでした。それはもしかすると、Aの魔法陣』というゲームが、とりとめのない日常を扱ってもほとんど矛盾をきたさない*19、珍しいシステム設計をしているからかもしれません。『Aの魔法陣』でなら、やりようによっては、荒唐無稽でない状況もゲームとして扱える可能性が拓けます。ほかのTRPGシステムを基準としたら、こうはいかないでしょう。私は『Aの魔法陣』の特殊さを、この点に求めたいと思います。*20

 私たちの知っているTRPGは、大なり小なりヒロイックであるか、超自然的であるかの、どちらかでしかありません。つまりはギリシャ悲劇的であり、ミュージカル的であり、〈型〉を重視した方が演技しやすい種類の演劇なのです。近代自然主義的な演劇観ではまったく対応できないフィクションばかりなのですね。TRPGの育ててきたリアリティを演劇の方面でたとえると、それは〈外面主義〉の方に近いリアリティなのではないかと私は分析しています。もちろん、メイエルホリドの目指した〈外面主義〉がヒロイック志向なのかというと若干異なるのですが、少なくともスタシスが通用する〈内面主義〉とは、かなり隔たっています。たとえば、「ドラゴンの演技をリアルにやる」って、それってどういうこと?っていわれてしまいますよね。

 どうしてこんなにTRPGは、平々凡々たる日常から遠く離れた、ヒロイックな状況ばかりを偏って記述してきたのでしょう。

 TRPGはそもそも、大規模戦闘を数値化したウォーシミュレーション・ゲームのメソッドを、「一人の人間の記述」に転用することによって生まれたものです。*21そんな風にして「生死に直接関わる危機的状況」を記述するのに相応しい数学的モデルをそのまま持ってきたために、個人としての人間もまた、「生死に直接関わる危機的状況」を扱わないとイマイチ面白くない、ということになってしまった。

 そんなわけで、今のTRPGから「生死に直接関わる危機的状況」を排してしまうと、私たちTRPGゲーマーは、今のTRPGシステムを使って、何を“メイン”にして楽しめばいいのか、まるでわからなくなります。じっさい、TRPGが誕生して30年あまり。一部のTRPGを除いて、ほとんどのTRPGの花形は、あいかわらず「戦闘状況」あるいは「致死的な状況」の再現にあります。それは物語の法則としては、リアリズムよりもヒロイズム、〈内面主義〉よりも〈外面主義〉、人物の微妙な内面よりも、わかりやすく派手な勧善懲悪が占める世界です。

 これは、「戦闘が悪い」というような、TRPGの議論でよく聞かれる安直な論難ではありません。先ほども言ったことをもう一度繰りかえしますが、近代のリアリズム演劇がずっと扱ってきたような種類の「架空の状況」を記述しようとするTRPGデザイン思想が、TRPG文化においてほとんど重要視されてこなかったという、その理由こそが争点となるべきだ、ということなのです。TRPGはヒロイックな方面ばかりに目を向けてきて、超常現象も強靭な肉体も高度な魔術も持たない、「ふつうの人間の悩み」を記述するTRPGシステムを“なぜか”作ってこられなかったのです。

 色々と申し上げてきましたが、いろんな理由から、近代演劇が培ったリアリズム演劇の思想を「既存のTRPGシステム」に求めるのは、ほとんど不可能。ありえないわけです。そういうことができるシステムを一切作ってこようとしなかったのが、良くも悪くも、今のTRPG業界の現実なのです。

 でも『Aの魔法陣』は、このような文脈から言えば、ようやくリアリズム演劇的な状況すらも、ある程度まともにゲームとして記述できるようになったかもしれない、とても珍しい、ものすごく可能性のあるゲームなんです。超例外的に。

 そういった前提を踏まえさえすれば、ウチガネさんの視点はまったく正しい。正しいだけではなく、大変鋭い指摘です。〈超目標〉としての「M*〜〜」書式と、それを達成するために必要なキャラクターの〈内的把握〉、そしてそれを、成功要素の列挙として表していく〈行動の貫通線〉にあたる要素が、確かに『Aの魔法陣』にはある。やや強引かもしれませんが、スタニスラフスキー的な行動表現にもっとも近いTRPGであるということは、十分に指摘できると思います。

 しかしながら、それを裏付けるウチガネさんの演劇の実例は、ゾンビもドラゴンもクトゥルフも異星人も出てこない、非常にリアリズム演劇に近い文脈から述べられているのですね。

 で、チェーホフの『桜の園』をゲームとしてデザインできるようなTRPGシステムはほとんど存在しない。Aの魔法陣』でも、相当苦労するでしょう。『A-DIC:桜の園』とか『A-DIC:人形の家』とか『A-DIC:レ・ミゼラブル』とか『A-DIC:欲望と言う名の電車』とかが、ちゃんと遊べるものとして提示できるかどうかは、かなり疑わしいですよね。

 ここまでが、TRPGに演劇上達を望むのが難しい、第一の理由です。

 さて、ここからは、第二の問題点、「TRPGそれ自体が演劇と相容れない理由」について述べます。

 TRPGにおいて〈行動の貫通線〉を構築するということはどういうことかということについてもう一段深く考えてみれば、「キャラクターはその行動を必ず取る」と確信できる状況を作る、ということことです。

 いきなり話してしまいましたが、この点については、いいでしょうか。「キャラクターは間違いなくこのようにするだろう、ほかは決してありえないだろう」という正解を出せることが、熟達した脚本家にとって必要な能力なわけです。いいですね?

 その〈リアル〉な論理構築を地道に積み重ねていくことが、すぐれた脚本、優れた状況、キャラクターの優れた行為を描写することにつながる、というわけですね。

 このことを(キャラクターの行為の)〈一意的描写〉と呼ぶことにしましょう。何であれ、状況を読んだ結果、キャラクターの行動には何かしらの「正解」があり、それを目指して私たちTRPGゲーマーは演技しなければならない、という立場があると仮定する。それが〈一意的描写〉です。「こうするっきゃない!」という確信こそが大事なわけです。

 はい。では、ここで、演技論をいっかい置いて、TRPG本来の楽しみであるところの〈ゲーム〉*22について考えて見ましょう。
 「コスティキャンのゲーム論」*23から引用します。グレッグ・コスティキャンは『パラノイアRPG』や『スターウォーズRPG』など、傑作TRPGの数々をデザインしたゲームデザイナーとして有名であり、彼のゲーム論は近年では『Game Design Reader』という、ゲームデザイン論を学ぶための一流テキストにも彼の「ゲーム論」が記載されるほど見逃せない論となっています。コスティキャン論は、21世紀の今となっては、もはや馬場秀和氏の専売特許ではなくなりつつあるわけです。デジタルゲーム/アナログ・ゲームを問わず。*24

 コスティキャンは、〈ストーリー〉と〈ゲーム〉との間に、〈直線的-非直線的〉という区別を立てます。

 ストーリーは、もともと直線的なものである。
 登場人物が厳しい選択に直面し、苦悩のあげく決断を下すシーンがあったとしよう。しかし、実はその決断は作者によってあらかじめ定められたものであり、読者が何度ストーリーを読み返しても変化しない。その決断によって生ずる結末もまた変わらない。
 あるいは、こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に、人を感動させる力を持つ。
 作者は、きちんと効果を計算した上で、そのストーリーを語るのに最適な登場人物を作り出し、イベントを起こし、決断を下させ、結末を用意する。
 だからこそ、出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。
 もし、登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば、きっと出来上がるストーリーは、予定よりつまらないものになるだろう。
 これに対して、ゲームはそもそも直線的ではない。
 ゲームには必ず意志決定が関わるが、このとき与えられる選択肢は、どれも本当にもっともらしく思えるものでなければならない。でなければ、すなわち「正解」が1つしかなく、それを選ぶ以外に道がないことが明らかなら、それは本当の意味での意志決定とは呼べない。
 プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び、次にそのゲームをプレイしたときに選択肢Bを選んだとして、どちらも全く合理的な判断に基づいている、というのがゲームらしさなのだ。
 であるからして、ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど、それはより直線的になってゆき、本当の意味での意志決定が少なくなってゆき、つまるところゲームとは別物になってゆくのである。
コスティキャン[1994]1995『言葉ではなく、デザインのみが、ゲームを語ってくれる』)

 先ほど確認したことと、このコスティキャンの論を照らし合わせてみましょう。

 プレイヤーの行動を一意的に、リアリティあるかたちで描写すること。「キャラクターは間違いなくこのようにするだろう」が、俳優の演技にとってとても大事なことである、ということでしたね。これを私たちは、キャラクターの〈一意的描写〉と呼ぶことにしました。

 しかし一方で、コスティキャンは、ストーリーを直線的に決めることが、プレイヤーの〈意志決定〉の機会を奪うことを指摘しました。そして、むしろそういった直線的な「正解」を定めることがいつまで経ってもできないような困難な状況下においてこそ、プレイヤーは〈意志決定〉の醍醐味、つまり「ゲームとしての面白さを味わうことができる、というわけですね。

 つまり、最終的に美しい〈一意的描写〉を目指す演劇と、最終的に面白い〈意志決定〉を提示しようとするTPRGとは、根本的に相容れないわけです。

 このような議論をしたのは、私が初めてではありません。過去に馬場秀和氏が、「萌え」と「TRPG」を比較するために、まさにコスティキャンの同じところを引いて、このコスティキャンの発言が意味するところについてコメントしています。

 これは、要するに、真の葛藤がなければ〈意志決定〉は成立しない、ということを言っている。つまり、プレーヤーが選択肢Aを選ぶときに、その選択に確信を持っていてはいけない、「次にプレイするときに、同じ局面で自分は選択肢Bを選ぶかも知れない」と心から思えなければならない、そうでないなら、それは本当の意味での意志決定ではない。

 逆に言えば、「自分の選択に確信を持たせるようなもの」は、それが何であれ意志決定を阻害し、結果としてゲームを台無しにしてしまう恐れがあるわけだ。
馬場秀和,2004.10.01『都ちゃんに萌え萌え(3)』)*25

 この「自分の選択に確信を持たせるもの」、「もし(IF)」の可能性を排除したものは、もはやゲームとは呼べないわけです。

 スタニスラフスキーは、この「もし(IF)」によって生み出される想像力を利用して、内面主義的な演劇能力を養うことを推奨しています*26。けれど、その行き着く究極点は「与えられた脚本に乗っ取って美しい演技を行うこと」であり、「与えられた状況で魅力的な意志決定に挑むこと」では、全然ありません。

 このことを捉え違うと、TRPGというツールの本来の楽しみを損なってしまうことになりかねません。演劇訓練のために『Aの魔法陣』が有効であることには私はある程度同意したい気持ちがありますけれど、TRPGゲーマーの目指すべき目標地点は「演技すること」ではありません。少なくとも、私はそのようにTRPG文化を考えていかなければ、TRPGのゲームとしての面白さというのはどこにも見出せなくなってしまうのではないかと思います。*27

 この〈一意的描写〉と〈意志決定〉、それぞれの楽しみの対立は、色々なところにみられるはずです。

  • 私たちはTRPGという自己表現装置を通じて巧みな〈一意的描写〉を楽しみたいのか?
  • それともTRPGというゲームデザインツールを用いて複雑な〈意志決定〉を楽しみたいのか?

 もしTRPGに演技能力を要求するというのであれば、私たちはこの二者択一からどちらか一つを選ぶところから始めなければならないのではないかと思います。*28

 最後に、考えるヒントとして一つ提示しておきたいのは、「脚本家に求められる“舞台考証の力”は、最終的に〈一意的描写〉を目指すにせよ〈意志決定〉を楽しむにせよ、GM・プレイヤーの両方にあったほうがいい」ということです。架空の状況に存在する要素を、演繹的あるいは帰納*29に推測して把握する能力は、すべてのTRPGゲーマーにとって重要な能力であり、それはプレイスタイルによって必要になったり不必要になったりすることはないでしょう。

 ウチガネさんの今回のTRPGに関する主張も、このレヴェルにおいてまず肯定されるべきではないかと思います。

 ここを出発点として、どこからTRPGは〈一意的描写〉と〈意志決定〉とに枝分かれしていくのか、そのことについて考えていきたいものです。『Aの魔法陣』には、確かに〈意志決定〉の部分も多分に含まれますので、なかなか難しいところだと思いますけれどね。

 ところでこのウチガネさん、『A-DIC ラジヲの時間』を作っている方だったのですね。これはぜひサポートしたいものです。

■巻末参考図書

推理小説作法 (創元ライブラリ)

推理小説作法 (創元ライブラリ)

俳優修業 第1部

俳優修業 第1部

俳優修業 第2部

俳優修業 第2部

The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology (The MIT Press)

The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology (The MIT Press)

ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

*1:http://aradi.huu.cc/

*2:Aの魔法陣』のデザイナーである芝村裕吏氏がここ1年ほど取り組んできた大規模オンラインゲーム。WeblogやBBS、リアルタイムチャットシステム等をふんだんに駆使しながら、数百人規模の架空国家運営ゲームを運営した。先日本編が終了し、半年の休憩期間に入った模様。

*3:「喫煙所のベンチにまず真っ先に駆け寄るのが常識的に見て正しいから」。私は解りましたが、同時にこの「確定された表現」に関する意見は、TRPG論としては違和感も感じました。その理由はこのエントリの最後の方で、〈一意的描写〉と〈意志決定〉の対立として論じました。

*4:演劇稽古のための即興芝居

*5:セッションデザイナー。いわゆる「ゲームマスター」にあたる

*6:ただTRPGにおいては、この「脚本家/演出者/演技者」の区別は、実はけっこうあいまいです。

*7:http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000523.html

*8:through action

*9:continuity

*10:〈内的把握〉〈行動の貫通線〉〈超目標〉。この3つが複合的に理解・体得できれば、スタニスラフスキーの演劇理論の柱は理解できたということになるそうだ。

*11:ちなみにこのスタニスラフスキーとメイエルホリドは、ともにロシア演劇の名門、モスクワ芸術座に所属していました。モスクワ芸術座自体がかなり心理主義的な傾向があったため、メイエルホリドは早々に脱退してしまいましたが、スタニスラフスキーは晩年まで芸術座の中心人物として残り続けて、近代自然主義的な演劇の確立に全力を注ぎました。こうしたロシア演劇の歴史に突っ込んでみると、もっと面白いものが見えてくることでしょうね。

*12:しかしながら、このスタシスの限界は、スタシスの子孫であるところの「メソード」がマリリン・モンローやアル・パチーノなどを始めとする名優達に影響を与え、その結果成立した「ハリウッド黄金時代」の成功を、何ら否定するものではありません。20世紀の映画・演劇にスタシスが与えた影響を完全に無視することは、難しいでしょう。さらには、アニメや洋画のアテレコを担当する声優業などでスタシスを再評価する動きも一部にみられるため、単純に「写実主義でない演劇にはスタシスは通用しない」ということも言えないようなので、この辺の微妙なところは、プロの演劇理論家に一度インタビューしないとわからないかもしれません。

*13:大塚英志の提示した概念。〈自然主義的リアリズム〉と対立する。

*14:東浩紀の概念。これもまた〈自然主義的リアリズム〉と対立するが、〈まんが・アニメ的リアリズム〉とは違う含みを持たせていることが特徴的。

*15:http://www.scoopsrpg.com/characterplaying.html

*16:もっとも近いので『月夜埜綺譚』くらいのものでしょうか。『月夜埜綺譚』も超常現象を認めていますが、これまでにないやり方で日本の郊外を数学的に記述しようとしているところが評価できます。国内プロ作品では……『ボールパーク』? 実際に遊んでいないのでちょっとわかりませんが。

*17:「いやいや最近、オタクが世間でも認知されてるし、TRPGにも芽はあるよ」と考える人がもしいるならば、その人は、オタク作品を楽しむことと、オタク的なシチュエーションをロールプレイすることの間にどれだけの高く厚い壁があるかを、あまりにも度外視しているでしょう。オタク作品に触れる人の中で、わざわざ『Fate』の士郎や『ハルヒ』のキョンをプレイしたいと思うような人がどれだけいるというのでしょう? いや、実際にいるのかもしれませんが、TRPGの「ゲームデザインを通じて架空の状況をシミュレートし、葛藤する楽しみ」を本当により多くの人に普及するには、はなはだ誤った想像であると私は思います。

*18:本当に理想的な「演技のためのTRPG」は、写実主義的なTRPGシステムも、荒唐無稽で稀有壮大なTRPGシステムも、等しく演技できるようなTRPGでなければならないのに、実際のTRPGシステムはそのような商売としては、まったく成立していません。そのイビツさの原因がどこに発しているかについて答えられる人は、「TRPGは物語創造の遊びである」と主張する人の中に、どれだけいることでしょうか?

*19:こういう微妙な言い方をしているのは、芝村氏自身が展開する背景設定が完全にヒロイックであり、『Aの魔法陣』でリアリズム的な芝居を志向する人にとってたいへん参考になりにくいからです。この点について不平を零す人は私の見た限り少なくないようなのですが、芝村世界観にリアリズムを求めるのはどだい無理な話ですので、やりたい人はさっさと自分勝手にやった方が近道です。間違いありません。

*20:もっとも、『Aの魔法陣』の最大の問題点は、プレイヤーに等しくふりかかる「状況の描写の重さ」なのですが。SDがうまく公正さを保ちつつ誘導しなければ、プレイヤーは、一生懸命作り立てのキャラクターで状況を描写するだけで終わってしまい、『Aの魔法陣』の可能性を知る前にくたびれてしまいます。

*21:D&Dが中世の戦闘を再現したウォーゲーム『チェインメイル』から生まれたという話をここでは意識しています。詳しくは安田均『SFファンタジイの世界』を読んでいただきたい。

*22:ここでいう〈ゲーム〉とは、【参加者が、「ゲームトークン」の操作による「資源管理」を通じて、「目標」の達成を目指し、「意志決定」する、全ての営み】であると定義されます。

*23:http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

*24:したがって、「馬場理論TRPGをダメにした」などといつまでも昔のことを言いたてて、馬場氏が積極的に言及したコスティキャン論にいつまでも触れようとしないのは、今や政治的な判断をしているフリを装った、単なる知的怠慢に過ぎないと私は断言します。

*25:http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20041001.html

*26:これも詳しくは『俳優修業』に書いてありますので、読んでみてください。

*27:飛躍かもしれないことを承知で言うと、この二者択一の問題は、ある状況において私たちが「決定論(運命論)」と「自由意志論」のどちらをより好ましいと感じるか、という哲学的問題に行き着くのかもしれません。「キャラクターは間違いなくこうするだろう」という確信と、それに基づく〈一意的描写〉の茂樹をTRPGで楽しむのが「決定論的プレイ志向」であり、TRPGにおける選択の多様性と、そこから生み出される〈意志決定〉を楽しむのが「自由意志論的プレイ志向」である、と。そして私は、そもそも乱数表現によって物語を生成するTRPGで「決定論」を志向するのは不毛だと考えているのです。これが、私が〈意志決定〉を最終的には選ばざるを得ない理由です。

*28:そしてこれこそが、馬場秀和氏が『ライフ・アズ・ア・ゲームマスター』で問いかけた〈ゲーム〉〈遊戯〉の区別ではなかったでしょうか。〈一意的描写〉はあくまで〈遊戯〉であって、〈意志決定〉をせまることを本質とする〈ゲーム〉とは、まるで別物であるはずです。

*29:演繹と帰納それぞれの意味については、リクエストがあればTRPGに沿って説明します。