GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

「新清士のMOD論から“ゲーム開発キット”としてのTRPGを捉えなおす」


TRPGはキット(半完成品)のゲーム」だ、と明言したのは、『Aの魔法陣』をデザインした芝村裕吏氏ですが*1、この話を、ゲーム界の一線級ジャーナリストとして活躍していらっしゃる新清士氏が着目している〈MOD〉の概念と接続できないかというアイディアを今日、思いつきました。*2

 新清士氏が最近〈MOD〉について語っている記事は以下の2つです。

新清士,2007a「ユーザーが勝手に作ってしまった『ガンダム』新作ゲームタイトル」
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/gamescramble.aspx?n=MMITew000013042007 , 2007.04.13)

新清士,2007b「ゲーム業界のユーザー参加型コンテンツ『Mod』が流行る理由」
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/gamescramble.aspx?n=MMITew000019042007 , 2007.04.20)


 まずは、この記事のレヴューからはじめましょう。

「Mod(モッド、Modifyの略)」というのは、企業が公開した開発ツールを使ってユーザーが自分の好みのゲームキャラクターを作成したり、果ては本格的なオリジナルゲームまでを開発したりすることを言う。作成したデータやゲームは商用利用をしない限りは他のユーザーに公開してよく、北米のパソコン用ゲームではMod用の開発ツールを公開していない方が珍しいくらい一般的になっている。(新2007b)

 日本でMod戦略が有効に機能していないのには理由がある。以前紹介した「忍道 戒」(PS2、アクワイア/スパイク)のように、日本にもMod環境を提供しようとしたゲームは過去に複数存在している。しかし、それらのゲームがModコミュニティーを形成できなかったのは、今までの家庭用ゲーム機にはコンテンツを公開してフィードバックする仕組みが存在しなかったためである。(新2007b)

 サイバー法の権威として知られるスタンフォード大のローレンス・レッシグ教授の考え方によると、現在のインターネットでは著作権の概念が著作権者によって果てしなく拡大解釈される方向に進んでいる。今ほど、著作権者の立場が強くなった時代は歴史上存在しないという。
 技術は、法とその運用の的確なバランス感覚を持つことで発展するため、単に規制するという一点張りではトータルな社会的コストが上昇してしまう。そうなると権利者も損をする可能性があるため、線引きは容易ではない。
(中略)
 北米企業は、Modコミュニティーをうまく利用することで有能な開発人材を確保したり、単独の企業だけではリーチできない新規商品の開発につなげたりできることを経験的に理解している。日本のゲーム会社でも、そういう利用方法があってもよいのではないかと思い、あえて取り上げた。悲しい結末は、私の記事がきっかけで、このタイトルの存在自体が潰されてしまうことではあるのだが。(新2007a)

 デジタルゲームの業界では、開発の効率化を目指して、限りない分業化が進んでいます。しかし、〈ソースコード〉から〈一個のゲームソフト〉まで作っていく過程の全てを把握できなくなりつつあるのも事実です。

 そこで、ゲーム開発が一人からでもできるような開発支援ソフト〈MOD〉をアマチュアのユーザーに提供して、ゲーム産業に参入する活きのいい人材をどんどん発掘していこうではないか──そういった期待に基づいて、北米のデジタル業界では〈MOD〉文化がどんどんと普及しているようです。

 しかし、上で新氏が取り上げている通り、日本のデジタルゲームをリードしてきた家庭用ゲーム機ベンダは、〈MOD〉環境をユーザーに提供するような機会をほとんど用意して来ませんでした。日本の家庭用ゲーム市場は、自社のゲームソフトを囲い込み戦略によって売り続ける方向以外のソフトウェア開発を軽視してきた傾向が強いのです。*3

 その結果、日本国内ではどのようなことが行われているかというと──いわゆる〈チート〉*4行為を「自分のデザインしたいゲームに改造する」ために利用し、それを公開するという文化が花咲きました。

 実のところ、私はここ最近まで、デジタルゲームの〈チート〉文化についてはまったく興味がありませんでした。ですが、そのような考えを一挙に吹き飛ばす先駆的な例が、昨今の動画文化に登場してきました。

 以下に紹介するYouTube動画「自作の改造マリオスーパーマリオワールド)を友人にプレイさせる」*5は、〈チート〉で『スーパーマリオワールド』を凶悪なゲームに変えてしまった〈うp主〉*6と「アクションゲームの上手な〈友人〉」とのやりとりがあるものとして公開されています。実際にクリアしているのは〈うp主〉なのか〈友人〉なのか、その点については明らかではありませんが、ともかく、〈チート〉行為がこの水準まで来ると、『スーパーマリオワールド』を仮想の〈MOD〉に見立てた「ゲームデザイン」と言っても差し支えのないものになっているのではないでしょうか。

■「自作の改造マリオスーパーマリオワールド)を友人にプレイさせる」

 これはもはや、私達が日ごろ商業ベースで親しんでいる「アクションゲーム」というよりは、『ICO』や『ゼルダの伝説』のような、「何度も死にながら(失敗しながら)提供されたエリアの静的構造を学習していくパズル・アクションゲーム」と言ったほうがしっくり来ます。『スーパーマリオワールド』が想定していたアクションゲームの範囲を、卓越した〈チート〉行為によって別の方向へと力技で持っていってしまった。しかも、クリアできるかどうかはともかく、『マリオワールド』が潜在的に秘めていた面白さを引き出しているように見えるのです。これは、合法だとか違法だとかいった議論はさておいて、ゲームデザイン一般について考える上で、非常に興味深く、またなるべくなら肯定すべき事態ではないかと私は考えます。

 さらに、この動画が他のいわゆる「スーパープレイ」や「改造アクションゲーム」と一線を画しているところがあります。それは、〈チート〉行為で擬似的にデザイナーになっている人間とそのプレイヤーとの間で、「一定の需要に則って行われたアマチュアゲームデザインとその受容」という、相互解釈の関係*7が成立している*8という点です。このやりとりにおける『マリオワールド』に対する〈チート〉行為は、実のところ、私達がTRPGをプレイする際、ゲームマスターがプレイヤーに対して「面白いゲーム」を提供するためにシナリオを組む、その際のTRPGシステムの位置づけと、ほとんど何も変わらないといえないでしょうか。

 こういったコミュニケーションは、デジタルゲームTRPGそれぞれの黎明期(つまりLoguelikeやNethack, MUDなどのソロダンジョンRPG文化とD&Dブームが同時進行していた70年代後半から80年代前半にかけて)には明確にあったものでした。ところが、90年代以降のデジタルゲームの急激な成長と限りない分業化のために、いったん忘れ去られてしまいました。

 ですが意外にも、商業的にはまったく振るわないアナログゲームが細々と残してきたアマチュアゲームデザインが、業界全体にとっても重要なものであることが、次第に見直されつつあります。*9。それが、〈MOD〉が今になって注目を浴びている理由です。今後デジタルゲーム業界では、人材育成と産業全体の興隆をめぐる〈MOD〉の位置づけについて、さまざまな議論が飛び交うことになるでしょう。

 さて、これまでTRPGシステムは、「物語の再現」や「即興演劇」の枠組みで説明されることが多々ありました。しかしながら、TRPGを「アナログゲームの一ジャンル」として説明しようとする場合、今後はこのようなデジタルゲームアナログゲームの両方に共通したアプローチ、そしてTRPGがその誕生当時から持っていた特徴的な楽しみ方──「ゲーム開発環境ツール(MOD)を扱う楽しみ」──を意識して捉えなおすことも、重要になってくるのではないでしょうか。*10


(補遺)

 2007年08月06日に、id:kilica(氷川霧霞)さんからのご指摘を受けて、定義が本来の用語とかみ合わなかったミドルウェア」の語を「MOD」あるいは「(ゲーム)開発環境キット」にすべて改めました。氷川さん、ありがとうございます。

*1:芝村2004「TRPGとは? Aの魔法陣編」http://www.alfasystem.net/A/trpg.htmlhttp://www.alfasystem.net/A/trpg.html

*2:この件については、id:hiyokoyaさんからの示唆にかなり影響されています。しかしながら、この立論それ自体の責任は、全て私に帰属します。

*3:そういった意味では、〈MOD〉を持ち上げるということは、我々が長らく親しんできた任天堂SONYのしたたかな“囲い込み”戦略を批判することと等しくなります。いやはや、諸刃の剣ですね。

*4:コンピュータ・プログラムに対して不正な操作を行うこと。ゲーム用語としては、製品としてのゲームソフトのプログラムに干渉して、データを書き換えたり、ゲームバランスを崩してしまうこと

*5:これは『ニコニコ動画』で、7ステージぶんまで公開されている。どれも難易度は非常に高い。

*6:ニコニコ動画の用語で、「動画をUPLOADした当人」を意味する。2ちゃんねる文化からの流入が多いニコニコ動画では、UPLOADを2ちゃんねる風の「うp」という言い回しで表現するのがほぼ常識化している。

*7:この場合の〈解釈〉とは、もちろん「相手はどんなゲームデザイン/ゲームプレイが面白いと思っているのか」です。互いにその推理に基づいて面白いゲームを提示し、行為し続けることで、ゲームの授受が行われます。

*8:少なくとも、そのように想定するよう誘導している。

*9:もちろん、『カウンターストライク』の世界的大ヒットがなければ、このことが省みられたかどうか、怪しいものですが

*10:このような議論が確立すれば、「このTRPGシステムは、MODの使い勝手を保証するものとしてどの程度の性能を持っているか」という議論が初めて可能になるでしょう。昨今のF.E.A.R.製品に共通したセッション運営法は、その方法に則ってセッションを運営しさえすれば安定したマスタリングが出来るという点で優れたミドルウェアである一方、セッション運用について確固とした別解を打ち出したいゲームマスターにとっては無視したくてもできない、大変使い勝手の悪いものに映ります。問題は、「GM個々人にとって手になじむMOD(=TRPGシステム〉は何か」という問題であり、その際に論じるべきはF.E.A.R.社の製品それ自体の質ではなく、GMのデザイン思想と関連付けた上で考察されるべきでしょう。F.E.A.R.社が真に批判(考察)されるべきは、元々、なるべくGMの自由なデザインを支援するために提供される〈MOD〉に対して、そもそも批准しなければ製品を扱うことすら難しい「セッション運営ノウハウ」までルールとして記述してしまったことです。これによってF.E.A.R.社は、優れたゲームメカニズムを持つ製品を次々と提示しながらも、これまで独自の運営ノウハウを築いて来たハイエンドなユーザーに対するフォローが不十分なまま、自社製品のプレイ環境からはじき出してしまっているというジレンマに陥ってしまっています。このF.E.A.R.社の運営ノウハウを一旦リセットした場合のF.E.A.R.製品の可能性について考察する人がもっと多く現れれば、まったく違った展開も待っているのだろうと予測してはいるのですが……。なおこの註釈は、「RPG日本」の鏡さんから頂いたトラックバック先の議論に対する、暫定的な回答となります。