GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

TRPGの〈改版〉は〈消費期限〉とどう関係するか?─F.E.A.R.の企業戦略分析・完結編

「1989年に発売されたソードワールドRPGが、ようやく2008年になって2.0に改版される」

 そんな話題が飛び交う昨今ですが、今はF.E.A.R.社について続けて言及しています。今回はその最終回です。

 さて、F.E.A.R.の改版戦略は、それまでのTRPG業界の常識とは大きくかけ離れたスピーディなものでした。「電撃作戦」といっても良いくらいでしょう。

 このスピーディさを特徴付けるのが、先のエントリで述べたスキルシステムのTCG的な〈モジュール化〉と迅速な〈雑誌サポート〉、そして今回紹介する第三の戦略、周到な〈改版〉によって生み出される、好循環サイクルです。私はこの3つを「F.E.A.R.三大企業戦略」と名づけました。

 今回、この〈改版〉を含めた3つの特徴でもって、F.E.A.R.という会社の先駆的な点がなんだったのか、そしてそこからTRPG文化のあり方についてどのような問いが成り立つのかを、述べてゆきます。

 当記事を読まれる前に、まず先にこちら2つの記事をご覧になることをおすすめします。
 この記事は、読者からの個人的な質問に返答する形で執筆されていったものです。
 このエントリが、第三回の完結編となります。

■高橋2007.12.04「死んだシステムと、〈マスターリング〉の商品価値」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071204

■高橋2007.12.11「F.E.A.R.の商業戦略について補足」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071211/1197384901

 

〈改版〉とは何か。

 まず、ことばについて説明しましょう。

 〈改版〉とは、たとえば1st Edition(初版)の本があったら、それが2nd Edition(第二版)に。
 2nd Editionがまたモデルチェンジして3rd Edition(三版)になることです。
 ようするに、文字通り、「改版すること」です。
 ふつうですね。何をあたりまえのことを言っているんだという感じです。

 ただし、この〈改版〉は、TRPGシステムのルールブックでは、常に特別な意味を持ってきました。
 なぜなら通常、このようなナンバーが1つ上昇するごとに、「旧版よりルールがリファインされ、“改良”される」か、「新しいルールシステムや設定が採用され、だいぶ手ごたえの違うゲーム性の“変容”」が起きるか、人によっては「ルールが甘すぎたり複雑すぎたりしてまったく使い物にならないと言ってよい“改悪”」になるかの、3通りが考えられるからです。
 もちろんこの3種類は極端であり、だいたいの〈改版〉はこの3つの折衷に落ち着きます。旧版のゲームコンセプトやルール、世界観のうち、いくつかは研ぎ澄まされ(リファイン)、いくつかは気に入っていた設定が通用しなくなり、新しいゲームとなり(コンセプトチェンジ)、さらにいくつかはどう見ても改悪である(デチューン)である、ということになります。

 まとめると、こういうことになります。

  • 〈改版〉(リヴァイズ)
    • 〈改良〉(リファイン)
    • 〈変容〉(コンセプトチェンジ)
    • 〈改悪〉(デチューン)

これら3つの要素をそれぞれ検討した結果、「どのように〈改版〉が達成されたか」を評価することができるはずです。良い部分、劇的に変わった部分、悪い部分。この3点で評価される。そして、どんな改版だろうと、〈改悪〉だけは避けなければならない。

 ここまではよいでしょうか。

〈改版〉を評価するのは誰か。

 さて、〈改良〉とか〈改悪〉とかいっても、それを決めるのは誰だい?という話になります。

 それも大きく分けて二種類います。

「そのゲームの旧版を遊び続けたユーザー」と、「そのゲームをまだ遊んだことがないユーザー」です。

 前者を〈継続購買者層〉、後者を〈新規購買者層〉と、とりあえず呼んでおきましょうか。

 そしてTRPGベンダは、この2種類のユーザー〈継続購買者層〉と〈新規購買者層〉を相手に、もっとも利潤を獲得できるような──もっとも沢山の「製品・サービス」を買ってもらえるような──そんな〈改版〉を考えて、新版のデザインを考えます。商売ですから、当然のことですね。買う、ということは、「その商品には金を払うだけの価値がある」と認めてもらえるということなのですから、何も悪いことはありません。

 しかし、この2つのユーザーの嗜好は、大きくかけ離れています。

〈継続購買者層〉は、既に旧版の製品・サービスを持っています。それは基本ルールブックだけのこともあれば、サプリメント(=追加ルール)、ソースブック(=追加世界観)、公式シナリオ、マスタースクリーン、サポート記事が載ってある雑誌などに既に金を払っています。ある程度、そのシステムブランドでしばらく継続して遊ぶだけの財産はインストール済みなわけです。もし、遊びつくしていないのならば、よほど大きな変更か、よほど基本ルールブック一冊のコストパフォーマンスが良くない限り、「乗り換えよう」「これから新版だ」という選択をしようとは思いません。

 〈継続購買者層〉がもし新版に飛びつかなければどうなるでしょうか? 彼らが新版で遊ばない限り、企業は旧版と新版、両方のユーザーへのサポートを行わなければなりません。しかし、それでは単に、世界観がおなじ別のゲームを作ったのと同じだけの労働コストをかけてしまいます。それをするくらいなら、〈新規購買者層〉も獲得できそうな新作ゲームを作った方が得に決まっています。

 したがって企業は、旧版よりも新版に魅力を感じてもらうようなデザインをしなければなりません。そしてもしそれに失敗したとしても、企業は結局、〈改版〉に納得行かない〈継続購買者層〉を捨てて、旧版のサポートを打ち切ってしまうでしょう。そうしなければ、どんなに旧版のゲームシステムが素晴らしくても、システムデザイナーが食べていくことはできないからです。

 こんな〈継続購買者層〉は、残された財産をカスタマイズし、独自の面白さを構築していくかもしれません。しかし、そのような努力は、新しい版でサービスを始めた企業の利益とは少しずつかけ離れていきます。そして、文化的には大きな達成を迎えられたかもしれないプレイグループは、その成功の程度に関わりなく、徐々にその企業が対象とするユーザーとしての資格を失ってしまいます。

 旧版の商品を愛しすぎたために、お互いがお互いを見捨てる結末を迎える。

 これが、企業と〈継続購買者層〉の間に起きる、最大の不幸です。このことについては、既にこちらで論じました。

 〈新規購買者層〉は、そんな彼らとは逆の悩みを持っています。

 彼ら〈新規購買者層〉は、TRPGゲーマーであるならば、正直、新版を買ってもよいと思っているかもしれません。なにしろ今までの投資額はゼロなのですから、役に立たなくなる旧版の財産など持ち合わせてもいません。迷う必要などあるでしょうか?

 いいえ、実は、そうでもないのです。〈改版〉するほどの歴史をもったTRPGシステムは、各版ごとに膨大な背景設定やルールの変遷などといった、システム独自の歴史を抱え込んでいるのが普通です。〈新規購買者層〉は、もしかすると、そんな膨大な歴史を前に戦き、「今から始めてもよいのかな?」とか「今から買っても、〈継続購買者層〉ほどたっぷり楽しめるとは限らないんじゃないか」と不信感を抱くかもしれません。その不信感を打消すためには、初版から買うしかないかもしれないのです(そしてそうなれば次は、〈継続購買者層〉と同じジレンマを抱えるに到ります)。そして、そんな悩みを〈新規購買者層〉から拭い去れなければ、企業には〈改版〉を決意するだけのメリットが、ほとんどないわけです。

 ここですべてのTRPG企業は悩みます。

 まったく条件の異なるこの2種類の購買層に対して、どんな最適解を打ち出せば、〈改版〉されたシステムはもっともよく売れるのか?

 もうおわかりでしょう。〈改版〉とは、基本ルールブック、サプリメント、ソースブック、サポート記事が載った雑誌などを購入してきた〈継続購買者層〉と、新たにそのゲームに参入するのに躊躇している〈新規購買者層〉との板ばさみの中、どのような〈改版〉を行うのがもっとも妥当かという問題を解決することなのです。それは企業の命運をうらなうわけですから、きわめて精神的にしんどい作業の一つに違いありません。

 もちろん、この購買者層に加えて、TRPG文化圏にまったく興味のなかった、本当の意味での〈ニューカマー〉を対象にする場合もあるでしょう。しかし、新システムならともかく、改版においては、とりあえず上の2つで十分だと考えてよいと思います。

 ここまで述べたことを整理しましょう。

 TRPGにおける〈改版〉には、〈改良〉〈変容〉〈改悪〉の3つの要素があります。

 そしてその要素を勘案しつつ、〈改版〉されたシステムとその後のサポート・サービスを受けることを選択する集団には、〈継続購買者層〉と〈新規購買者層〉がいます。(〈ニューカマー〉は先述した理由により、当面除きます。)

 このそれぞれの顧客集団が〈改版〉について評価した結果、「新版システムが売れるか」、それとも「旧版システムがより栄えるか(しかし新システムは全く売れないか)」が決まるわけですね。

 ここまではよいでしょうか?
 テクニカルタームが多いので、わからなかったら、何度か確認してくださいね。
 厳密に話していくために、これはどうしても必要だったのです。

F.E.A.R.が発見した「最適な改版」

 本題に入りましょう。

 F.E.A.R.は、21世紀を迎えてからの多くのシステムで、このようなジレンマを解消するような、素晴らしい〈改版〉方法を発見しました。

 まず、昨日私がUPした、こちらのエントリを開いてください。

■高橋2007.12.13「主なRPGシステム版上げの歴史を整理した。」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071213/1197557134

 さまざまに改版されたTRPGが軒を連ねていますが、こと国産RPGとなると、今でもリプレイが売れ続けている『ソードワールド』がまったく版を変えていない(19年)のに対し、F.E.A.R.社の多くのシステムが、初版から第2版への〈改版〉作業については、2年から4年のペースで進められていることがわかります。

 この表のずっと下の方では、書き漏らしのあった各種システムも紹介していますが、こと国産TRPGに関しては、これほど自社製品を頻繁に〈改版〉にかけたのはF.E.A.R社だけだということがよくわかります。*1

 海外TRPGの方を見れば、初版から2版への以降がF.E.A.R.と同じくらい短い製品がいくつかあります。たとえば『シャドウラン』などは1stから2ndの移行期間が3年。GURPSなどは3版に到るまでに実に2年しかかかっていません。CoCに到っては3年刻みです。

 こんな表を出して「ほおら、F.E.A.R.は異常な版上げをしているんだ!」と私が言い出すのかと思った方、残念でした。私はこう結論します。

F.E.A.R.社の改版は、国産RPGとしては一見回転率が早いように見えるが、海外を含めて考えればそれほど驚くべきことではない。ぶっちゃけ普通だ」。

 この『ソードワールド』が惑わす〈版上げ〉の誤解については、laeva氏も同じ文脈から言及しています。

 現実に目を戻すと、この位の「版上げ」の方が世に溢れている。我が国でも、米が国でも。先日やっと届いたルーンクエストの新版も、まだ流し読みレベルですら読んでいないがこんなものっぽい。D&Dのアップデートがドラスティック過ぎただけだなぁ。同じレベルの版上げはトーキョーN◎VAくらいしか印象にない。RPGの近代化かくあれ、とか謎な思いを抱いていたのだが、認識を改めなくてはいかん喃。それはそれとしてパラノイアは常に完璧であり版など知らぬ。

 なんだろうな、グループSNEが版上げを「完全版」などと称してシステムを閉じることのように扱っているのを見て、反動意識を起こしていたのかなぁ(これも冷静に考えると、そう称した例の方が少ないのだが……メジャータイトルが主にそうなっているので、印象が強いのだろう。央華がメジャータイトルであったかどうかは議論があるところだろうが)。
(laeva 2006.11.21)

 むしろ、ほとんどゲーム性の変化もなく、リプレイとシェアードワールド展開を中心に発展して、21世紀にはいってからようやく都市系資料のサポートを再開したSNEの『ソードワールド』のほうが、世界レベルで見て特異な位置づけにあるTRPGシステム製品だということが、この表からはわかります。

 海外でこの年数にあたるのは、そうですね、『ルーンクエスト』と『トラベラー』、そして『トンネルズ&トロールズ』です。しかもこれらの製品は、ファン層こそ厚く、信頼できるベテランユーザーが集っている一方で、どれも企業のサポートが“常に”十全だったとは言いがたい、そんな点でも似ています。『ソードワールド』もまた、サポートが何度か迷走しているにも関わらず、多くのファンに支えられてきました。コミックマーケットTRPGコーナーの半分以上が「ソードワールドRPGの同人リプレイ/同人小説」だというのは、もう半ば常識です。

 これに加えて特徴的なのは、次に出るという『ソードワールド2.0』は、世界観も基幹となる判定システムもだいぶ異なるゲームであることがウリだ、ということです。このことを真に受ければ、来るべきSW2.0の〈改版〉は、先ほど定義した言葉で言えばまさに〈変容〉であって、〈改良〉や〈改悪〉といった範疇ではまったく図れないものとなるでしょう。そして、その〈変容〉があまりにも大きかったならば、もしかすると、『ソードワールド』というゲームは、厳密な意味での〈改版〉がない、空前絶後の「代表的国産TRPG」として後世に名を残すかもしれません。

 F.E.A.R.はその点、何度か〈変容〉をせまられたゲームもありますが*2、〈改版〉が必ずしも〈継続購買者層〉を喜ばせないことが分かったとたんに、〈変容〉を極端に防ぐようになります。初版のゲームコンセプトをなるべく維持しながら、サポート済みのデータを使って、ひたすら〈改良〉、つまりリファイン作業に集中するのです。

 たとえば、『アルシャード』と『ダブルクロス』は、基幹システムとなる判定システムや特別ルールにほとんど変化がありません。しかし、データ調整や全体のバランス取り、シナリオのわかりやすさ、ルール記述のフォーマット化など、さまざまな点で「初版ルールブックのパワーアップ版」になっています。さらには旧版で展開されたサポート記事のスキルや情報なども取り入れて、記述がまんべんなく充実しています。まさに完璧な〈改良〉です。そして、〈変容〉は完全に抑えられている。 これで〈継続購買者層〉も〈新規購買者層〉も納得がいくではないですか。
 素晴らしい。何の文句もつけようがありません。
 ところで、この完璧な〈改良〉と、徹底した〈変容〉の排除こそが、私の考えるF.E.A.R.製品の〈消費期限〉を短くしている、最大の原因になっているのです。

F.E.A.R.にとって「旧版」ユーザーは不要?

「完璧な〈改良〉と、徹底した〈変容〉の排除こそが、F.E.A.R.製品の〈消費期限〉を短くしている、最大の原因になっている」
 私は今、このように明言しました。

 〈消費期限〉とは、私がF.E.A.R.に言及した最初のエントリで、次のように発言した時に始めて言及した言葉です。

「システムデザイナーに金が入らないほど良いシステムは、本当に良いシステムなのか」というジレンマが、今のTRPGシステムを設計する際にたちはだかる。それに苦しむよりは、一つ一つのゲームの消費期限が短い代わりに、細やかで充実したサポートを雑誌やサプリメントで次々と行う(その細かいコンテンツから得た収入を企業の収入源と捉える)サービスの方が市場育成にとっては効果的である。そのようなサービス形態は既にF.E.A.R.社によって確立されている。コンテンツを売り続けなければならない経営側の判断としては、当然のなりゆきであると言える。
(高橋2007.12.04)

 「F.E.A.R.社のゲームの消費期限が短い」とは、それはいったいどういう意味でしょうか。今まで言ったF.E.A.R.の戦略評価は、何か間違いでもあったとでもいうのでしょうか。

 いいや、そんなことはないでしょう。〈変容〉したルールブックは売れないし、新旧ユーザーの諍いを招くし、うるさい老害を生む確率だって激増する。なくして悪いことなんて一つもないじゃないですか、そんな、消費期限が短いなんて何かの誤解ではないか?

 ええ、そうかもしれません。企業にとってもユーザーにとってもまったくその通りかもしれません。

 ただしこれには、「新版に移行し続け、商品を買い続けるという決断を下す限りは」という注釈がついて、はじめてうなずけることなのです。

 詳しく説明しましょう。

 まず確認しておきたいのは、F.E.A.R.の〈雑誌サポート〉が旧版を切り捨てたとしても、旧版を構わず遊び続けられるほどそのシステムを気に入っているユーザーならば、ほぼ例外なく新版をこそ手に取るだろうということです。

 なぜなら21世紀以降のF.E.A.R.製品における、旧版と新版のゲームコンセプトは、ほかの中途半端に奇をてらった改版システムとは比較にならないほど、変わり映えがしないからです。スキル内容と記述の親切さとシナリオ、それから幾つかの細かい修正があるだけです。F.E.A.R.は初版から2版のバージョンアップで、あえて新しいゲームコンセプトを埋め込みません。そうではなく、初版のコンセプトがより深く伝わるような、微妙なバランス取りにこそ死力を尽くします。

 〈変容〉がないということは、「まったく新しい、目を瞠るようなゲームコンセプトが提示されるわけではない」ということでもあります。もちろん、すべてがこの法則に当てはまるとは私も言いません。しかしこのような〈改版〉の特徴は、初版から2版で、きわめて短いスパンで改版されたゲームに顕著です。たとえば、『アルシャード』や『ダブルクロス』、『ブレイド・オブ・アルカナ』は、基幹となるシステムに激的な変化は見られません。その代わりに、旧版より確実にバランスが見直されているわけです。

 さて、与えられるゲームコンセプト・基幹システムがまったく同じで、なおかつ「製品+サポート」が商品の価値だとするならば、それまで展開した旧版の製品の価値は、新版と較べてどうなってしまうでしょう?

 ほぼゼロに近くなります。それは、新版のサポートが充実していくにつれて、どんどんと、急激に進みます。必ず新版にそのシステムのすべてがあり、一方で旧版にはすべてのサポートが欠け、時が止まっているのですから、当然のなりゆきです。

 その結果、そのシステムが好きなユーザーは、「旧版で遊び続ける」という選択肢がくだらなくなり、新版の製品とサポートを買い始めるでしょう。それすらしないユーザーは、そのシステムを遊ばなくなります。遊ぶなら、新版が常によいに決まってるからです。雑誌サポートも、ルールの精度も、そのシステム・コンセプトで遊ぶべき環境の何もかもが。

 繰り返します。近年のF.E.A.R.社のルールブックの旨みは、常に「新版」にしかない。相対的に見て、旧版の要素がすべて詰まっている新版があるのに、旧版を選ぶ理由が一切ないのです。それに見合う仕事をF.E.A.R.のすべてのデザイナーは行っており、旧版を選ばせようとはしない。

 したがってF.E.A.R.は、ほかのTRPGと違って、(よほど飽きが来たユーザーでもない限り)旧版ユーザー、すなわち〈継続購買者層〉のすべてが〈新規購買者層〉とほとんど同じように商品を買わなければ、あらゆる面で大損をしたように感じる、そんな商業展開をやっているとも取れるわけです。

 Windowsを使っているユーザーのうち、今Win98を使っているユーザーの割合が非常に少ないということと、それはよく似ています。Win98は、製品としては使えるかもしれませんが、XpやVistaを今使っているユーザーにとっては何の値打ちもないでしょう。ウイルスに相手にしてもらえないだけで、起動も遅く、できることも少なく、グラフィックも汚い。ライセンスによるサポートだってとっくに切れています。そんなOSを使うのは辞めて、新しく最新OSに乗り換える方がいいに決まっている。そしてその最新OSには、素晴らしいサービスと尽きせぬ満足が詰まっている!

 そんな風に、F.E.A.R.も、旧版で出来たことを全部新版で出来るようにし、旧版をサポートする意義をなくしてしまうのです。そして、旧版サポートのコストを限りなくゼロに近づけていく。

 ゲームコンセプトが変わらないということは、実はそういうサービスが可能であるという前提条件となっているのです。ゲームコンセプトが大幅に変われば、旧版ユーザーはそのシステムに居座るでしょう。それは企業にとって時に邪魔になりえる存在です。金を出さないで口だけ出す、そんな“老害”になりかねない。

 F.E.A.R.のような巧みな商法においては、〈消費期限〉は永遠に切れることがありません。しかしそれは「買い続けるユーザー」にのみ許された特権です。「新版が出るタイミング」で新版についていく気をなくしてしまった人は、「それでもそれ以降の展開を一生懸命追うために買い続けなければ」という気持ちになるか、「それすらすっぱり諦めて辞める」かの、二択しかなくなります(旧版を選んで遊び続ける理由があまりないことは、先ほど言ったとおりです)。

 そして、この「変わらないゲームコンセプト」こそ良い、というのがF.E.A.R.の経営方針であり、そしてそれはまさに大成功を収めているわけです。

おわりに─〈変容〉をめぐって

 もし、私がF.E.A.R.に不満を持っているように聞こえるとすれば、それはまったくの誤解です。

 私は、F.E.A.R.がなぜ世紀をはさんで、SNEを圧倒するほどの勢力を築けたのかを私なりに分析した末に、この結論に辿りついただけです。本当に、ただそれだけです。

 そしてF.E.A.R.の経営陣は、こうしたことを全てわかっていて、それでも「変わらないゲームコンセプトを安定して供給すること」こそがTRPG業界のためになると確信しているのではないかと考えています。

 そしてF.E.A.R.が成功しているということは、「何年もゲームコンセプトは変わらないが、そのぶんそれを取り巻くゲームバランスが絶妙なTRPGシステム」を善しとするゲーマー、「買い続けるだけの、サポートを受けるだけの価値がものすごくある」と信じているユーザーが多数いるということです。

 そしてそれは、版ごとに新しいゲームコンセプトを打ち出しては不和の種をまいてきた、TRPG史30余年の多くの名作・迷作TRPGシステムよりよほど安定したコミュニティを築くでしょう。今のF.E.A.R.製品の隆盛を見れば、それは明らかではないでしょうか。

 そのようなF.E.A.R.社の正義がどのような商業戦略に裏付けられているのか、たまたまユーザーが知っていたとして、何か問題があるでしょうか? 何の問題もないはずです。もちろん、私の仮説がまったく的外れでないとしたら、ですが。

 それよりもむしろ、F.E.A.R.製品を好むユーザーが指差して糾弾するべきは、私の言ったことではないのではないでしょうか。そう──そのようなF.E.A.R.社が20世紀の末になってようやく選び取った方針すら取らず、改版ごとにユーザーを戸惑わせ、「あの頃の版はよかった」と金も出さずにのさばる数々の老害を生み出し、「ゲームバランスなんて現場で調整すりゃいいじゃん、君たちベテランなんだし」とでもいうかのような雑駁な製品を市場に出荷してきた、過去多くのTRPG企業と、それを許してきた半端なわれわれTRPGユーザーこそ、F.E.A.R.のかわりに批判されなくてはならないんじゃなありませんか?
 私はF.E.A.R.の企業精神を、間違いなくTRPG業界における「正義の一つ」と確信しています。そして、F.E.A.R.の戦略を行っていない企業は、上に述べたネガティヴな言葉を、実現してしまっているのかもしれないのです。

 そのことを確認した上で、なお私は考えます。F.E.A.R.社とは別の、このような商業展開以外の「TRPGを売るためのよりよい経営戦略」について、考えてしまうのです。そう、F.E.A.R.社の正義が「唯一の正義」ではないかもしれないという仮定に基づいて。

 私が「死んだシステムと、マスターリングの商品価値」を上梓した際に考えていたのも、そのような「別解」に思いを馳せることでした。

 〈システムデザイン〉〈マスターリング〉が歩調を合わせなければ、現在のTRPG市場は適切に発展していかないことは、〈ロールプレイング・ゲーム〉そのものの性質を考えれば明白である。ところが、多くの既存TRPGシステムは、“あまりにも消費期限が長いために”、そのような市場メカニズムを前提としない、高度かつマニアックな遊び方をプレイグループの間で志向させやすい構造になっているのである。

 出来が良いシステムを作れば、システムデザインの商品価値を無視してまで遊び続けるプレイグループが爆発的に増加する。それがTRPGシステムというものである。良いツールほど使い込み甲斐がある。使い手側にとって、悪いことは一つもない。

 だが、そのような遊び方は、(少なくとも国産のゲーム市場を育成するという観点からは)乖離してしまいがちだ。20年それで遊び続けられてしまえば、システムデザイナーは新しい製品を買ってもらえなくなる。

 しかし、そこで唯一ひっかかったことが、F.E.A.R.社のようにはうまくできず、うっかり新版に〈変容〉を求め、新旧さまざまな版にユーザーを分散させてしまった、商売ベタな、とてもかわいそうなシステムたちのことでした。

 私の知り合いには、沢山の、TRPG市場統計から外れた人たちがいます。

──色んなゲームを遊んだあげく、結局『新和D&D』に戻ってしまう人。
──『シャドウラン』第二版のデザインを今でも高く評価する人。
──『大活劇』を日本で誰よりも巧く遊べる人。
──『アースドーン』の初版運用を神業の域にまで高めている人。
──『ルーンクエスト』の豊饒な世界グローランサをいつまでも愛し続けている人。
──『トンネルズ&トロールズ』第五版の達人である大先輩。

 どれも、私にTRPGの楽しさを教えてくれた、素敵な先輩達です。

 こんな豊かなゲーマー精神を持っている人々は、F.E.A.R.そのものとはともかく、「F.E.A.R.型の企業戦略」とは、どうしても相容れない存在です。そのような戦略をとらず、その結果として市場から好きなゲームが出版流通から死んでしまっていても、その人たちが〈マスターリング〉能力で命を吹き込めば、そのゲームの精神は何度でもよみがえるのです。その人たちがゲーマーとして生き続ける限り。

 そのような人たちにとっては、F.E.A.R.の商業展開は、いささか窮屈に見えるかもしれません。「変わらないゲームコンセプト」よりは、むしろ過去の『N◎VA』や『天羅』がそうであったように、改版ごとに劇的にゲームコンセプトを変えてくれた方が、楽しく遊べる人々なのかもしれません。そして、思いもかけないアクロバティックな遊び方で、日本のどこかの幾数人かを、優れたゲーマーとして開花させているのかもしれません。

 ここで明言しておきましょう。
 私はF.E.A.R.のシステムも、それに適した商業戦略も、その両方が、本当に優れていると、掛け値なしに思います。

 そしてその商業戦略は、21世紀に国産TRPGを生き残らせるためには、なくてはならない英断だったと思います。
 しかし、それでも、改版の失敗によってうっかり生まれてしまった〈変容〉の落とし子たち、「商業に貢献するとは限らないが、TRPG文化に属する人々に素晴らしいゲームを提供し続けるヴェテランマスター」──私がお世話になった先輩方の存在──は、F.E.A.R.のような「買い続けない限り、魅力を感じられなくなる」ような商業戦略とは、明らかに別次元のところで成立しています。

 私はその両者を両方認めたい。
 共存繁栄させたい。
 でも、そのための手段が、今、F.E.A.R.や多くのTRPG企業がそうであるように、結局、出版流通で成功する以外にないのです!
 だから私は、F.E.A.R.の商業戦略の問題点の一つに〈消費期限〉を挙げました。

 新版が出た後も、旧版のゲームコンセプトにあまりに惚れこんでしまったために、新サプリがなかろうと、雑誌サポートが打ち切られようと、営々とそのゲームを改造し、夢を振りまき続ける、「金にならないゲームマスター」の存在を、F.E.A.R.は最初から排除しています。

 それは、TRPGが製品として生き残り続けるためには、仕方がないのかもしれません。
 でも、そのための良い方法は、本当に今の、F.E.A.R.型の企業戦略にしかないのでしょうか?

 それについての別解を見出し、もっとTRPG企業も、すべてのヴェテランゲームマスターも、笑顔でTRPGを遊べるような市場を作るために、私は考え続けているのです。

 私がずっとお世話になってきた、市場からはみだしてしまうほどに優秀なゲームマスターたちの居場所を求めて。

断り書き

 F.E.A.R.についての私の分析は、これでいったん終わりとします。このあとしばらくは、どんな質問が来ようと、私の現時点で補足できるだけの実力は残っていないとお考え下さい。正直、いっぱいいっぱいです。リソース欠乏です。もし質問があれば、メールでどうぞ。Scoops RPGにこの3回にわたる連載を要約する日が来るかもしれませんので、その時に繁栄させていただきます。

 ところで、私はもとより熱心なF.E.A.R.ゲーマーとはいえません。ですから、本当はF.E.A.R.をここまで大上段から論じる資格などないかもしれません。

 ですがそれでも、F.E.A.R.のゲームの評価が、シンパとアンチで二分している不毛な状況を、どうにか解消できないものかと思っていました。それは、F.E.A.R.を嫌う人にとっても、そしてF.E.A.R.が好きな人にとっても、どっちも不幸な状態であると、ずっと感じていました。

 その状況を私自身の目で冷静に分析し、なるべく多くの作品を手に取り、自分の感覚で評価した上で、なるべくできる限りの公正な言論によって緩和したいと、そう常々思っていたのです。

 今回の一連の話も、そのような問題認識に基づいて書かれています。

 まずはそのことを、信じていただきたい。

 私がF.E.A.R.の売り上げを減退させるためにこんなことを書いているわけでもないし、F.E.A.R.を嫌いな人に好かれようとしたり、F.E.A.R.ファンに嫌われたいためにこんなことを書いているわけでもない。

 これは、F.E.A.R.を嫌いな人も、好きな人にも、どちらにも向けているエントリなのです(だからこそ、F.E.A.R.に関わる全ての人々をいらだたせる可能性をもっていることを、私は知っています)。

 そんな嫌われるリスクを推してでも、あなたに、この今の私の抱えている問題を、共有してほしかったのです。この記事の内容に大いに不満をもった時、ほんの少しでもそのことに思いを馳せていただければ、私はそれだけで満足です。

*1:なお今回はF.E.A.R.の〈改版〉について論じるため、『アリアンロッド』『異界戦記カオスフレア』『天羅WAR』『アルシャードガイア』『エンゼルギア』『ニルヴァーナ』『異能使い』『ドラゴンアームズ』『スターレジェンド』など、基本ルールの改版(二版にあたるもの)がないものは除きました。さて、今述べた前4者はサポートがまだ活発ですが、『エンゼルギア』以降のシステムは書籍単位で目立ったサポートがないため、「主力製品ラインから外れているために改版に踏み切れていない」と考えてもよさそうです。またこれは興味深いことなのですが、サポートが書籍単位で活発であると同時にまだ〈改版〉を行っていない3年以上の作品はなんと『アリアンロッド』のみです。『カオスフレア』は2005年11月、『ガイア』は2006年8月発売、天羅WARは2007年の商品です。ということは、もしかすると、『アリアンロッド』にだけ、改版しないだけの確固たる理由・戦略が存在すると考えられるのではないでしょうか。それは、19年も改版しなかったおなじみの文庫発TRPGシステム『ソードワールド』を研究した結果なのかもしれませんが……この話は後日また日を改めて。

*2:トーキョーN◎VA The Revolution』と『天羅万象零』は、多くの旧版信者を生み、新版ユーザーと諍いを起こしたという。これについては個別にヒアリング調査を何度か行っているが、提示できる適切な資料がない状態である。たとえば、http://tosblog.at.webry.info/200409/article_6.htmlを参照