共感/理解/誤解をめぐって――問題関心を処理する時の、個人的感覚
acceleratorさんからコメントを戴きました。
個人の興味、一般の興味 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100830/p1
コメントありがとうございました。前回の記事も、そして今回の記事も、ともにとても参考になり、助かります。
一連の助言から、どうして僕がしばしばこういう事態を招くのか、反省してみました。
この文章は、「自分がふだんどういう風にこのブログで問題関心を提言しているのか」ということを正直に述べつつ、「会話型RPGにおいて、ほんとうに“読者の問題関心”について書く」ということはどういう風景にまでたどり着けばよいのかを、考察してみました。
acceleratorさんのコメントについてはほぼ全肯定のつもりなのですが、いろいろ総合して考えると、「おや、こりゃどうもむずかしいぞ」と思ったので、ここは正直に書いて、意見を伺ってみようかなと思います。研究という狭い領域での言葉とその他の領域をつなぐ言葉を作るという点で、今感じた「困難さ」を、言葉にしてみたかったのです。
自分の問題は、「個人的興味」すら書かない、ということにある
当ブログの基本的スタンスをあらためて明言するとすれば、それは結局のところ「個人的な研究ノート」という位置づけになるでしょう。ひとまず思いついたことを思いついたままにメモし、本格的に他者に向けた記述は後で改めて仕上げる、という方針で、このブログは運営されています。そのことは、玄関口での基本方針(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20501224/1203071409)や、先日書き下ろした言及の際のお願い(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100827/1282872423)として、示されています。
そして、本格的な議論の背景は、書いた後に読んだ人が、ポジティヴな反応を下さった人が出てきた後でもかまわない、と考えています。こうした態度は、(acceleratorさんが「かけだしの研究者にありがちな話」として挙げられていますが(笑))少なくとも短期的には、10人くらいしか関心を持たなくても、特に問題ないとすら感じているわけです(そして――驚くべきことに――僕の周りには、10人近くは、ある程度まで関心を共有・理解してくれる人がいるようなのです。これは、小難しいことを考えてばかりの人物にしては、極めて異例の、幸せなことだと思います。)
その上で、僕という人間が何かを書くにあたって抱えている致命的な問題点は、「『プレイングの内実』および『演技に関するメモ』について、個人的興味を導入とするどころか、個人的興味についての論述すらバッサリと切ってしまっている」ということにあるんじゃないかと、今回思ったんですよ。
エントリを書いた経緯については「会話型RPGにおける〈プレイング〉について考えます。以前の論をリライトします」と述べてるだけで、思考した経緯と、暫定結論のみポンと置いてしまったので、先の文脈補足エントリを書くまで、個人的興味の所在も確定できなかった方が多かったのではないでしょうか。
acceleratorさんは、
という2つの助言を僕に下さっています。けれど、この2つの助言を組み合わせると、僕はその2点だけではカタのつかない、ややこしいスタンスをTRPG論において維持していたのだと思います。
つまり、
- 関心の方向性が、多くの人が考えるようなTRPG論とは異なるように見られるため、短期的には、共感を期待しない。
- 一方で、たまたま関心の似た人が気付いてくれればよい。個人的興味について述べることも、できるだけなしで済ませたい(したがって、文面からだけでは、何に興味をもってるのか、よくわからない)。
こういう態度が、僕のブログには蔓延していたわけです。なんかこう書いてみると、ものすごくムカツク奴ですねwww
けれど、僕はこれが別に不遜な態度とは特に思ってなかったのです。
どうして不遜な態度だと思わないのか? という話を、次の節で述べます。
「理解できない」ならまだしも、「誤解(=筆者が想定できなかった理解)をされ続ける」ことについてどう責任を取ればいいか?
前段の話を続けましょう。僕の態度というのは、「読者の側が個人的興味を推測せざるを得ない」という、きわめて不親切な文章を作るのに向いてしまっている、ということになります。
そういう観点から見れば、僕の文章は「悪文」と言って差し支えないと思います。「読む人によって挿入可能な解釈の幅が広すぎ、その結果として読んだ結果の利得がてんでばらばらになってしまうような設計がなされてしまっている文」は、悪文だという発想です。
そして、そういう意味での悪文を量産するくらいなら、(acceleratorさんやVampire.Sさんのアカデミックな助言には背きますが)個人的見解を最初に書いてしまう方が、価値は下がるでしょうけれども、害はなくなると言う点ではマシなのではないか、と思います。
ところが、僕は実のところ、こうした「悪文」を書く自分を、少なくともこのブログにおいて否定していません。なぜなら、
- 自分が関心を持たない高橋のテーマに、皆さんがわざわざ時間を掛けて付き合う必要はそもそもまったくないはずだ(論じる価値がないことに時間を掛けるなんて、なんてもったいないんだ!)。
- 高橋が想定しない別の見解でもって、高橋の文から問題点・批判点を見いだし得た(それはきっと、あるだろう)として、僕がそれに付き合う必要もまたない(相手がその方向性では論じる価値がないと思っているはずのことに、僕が付き合うのは、相手の不幸を単に後押しすることになる)。
というようなスタンスを、僕が持っているためです。
僕のこうした考えは、以下のような要素を「考慮の外」に置いてしまうことで、はじめて可能になるものです。
- 読者なりの理解をした結果、高橋の論はなんとしても批判・否定しなければならない(なぜならそのように読みうる限り、彼がそうした方向の誤った・有害な見解をまき散らす可能性がゼロではないからだ)
僕は、意図するにせよしないにせよ、「ああ、それはまったく予測のしない、ネガティヴな解釈でした。けれどその解釈を生んでしまったのはほかでもない自分の書き方の甘さだったから、自分の側が申し訳ないことをしたなあ。あるいは、どれだけ論旨を精確に述べ直したところで、結局のところ本当に自分の方がどこかで決定的に間違っているのかもしれない。相手はそのことを不愉快に思って、訂正を求めているのかもしれない……」と後で筆者自身が思ってしまうような理解のことを「誤解」と、ひとまず呼んでいます。もっと短く言えば、僕にとっての「誤解」とは、「少なくとも読み手とのあいだに、テキストを通じて見解の相違が発生していると、書き手の側に把握されている状況」のことです(僕の「誤解」は、書き手から読み手への一方通行的な誤解ではなく、双方向的な見解にズレが生まれているような状況を念頭に置いているものと、イメージしてください)*1。
僕個人に関して言えば、(先ほどのスタンスにより)もともとの文章のねらいがはっきり読み取れないことが多いので、おそらく沢山の読み方が発生しているはずです。その中で、「こう読んだよ」とサラッと言われれば、「ありがとうございます。そういう読み方もあったのかあ」と、新しい発見があります。著者の意図していない理解や解釈も、それが何かの利得を生み出しているなら、それでいいかな、という考えが僕にあります。これもまた広い意味で「誤解」かもしれませんが、読み手にとってなにかポジティヴなものが発生していれば、僕はポジティヴな誤解もまた、肯定的に考えています。
けれど、「こんな読み方をした。お前はけしからん奴だ」と言われたら、それは「すみません、そういうつもりではなかったのですが」と言わなければなりません。そして、そのように応答した後でも、そのことを信じていただけず、読者なりの見解によってその議論を進めるのであれば、「これは……僕には想像もつかなかった、その人にとってきわめて切実で新しい問題が、その人の考えを推進させているのだろう。おそらく僕には協力する能力がないけれど、問いの方向性が異なっている以上、僕なりのスタンスを説明しても意味がないことは明白なので、とりあえず協力できないことは先に謝っておかなければならない」と考えてしまう。
僕は、こういう状況が、安定的・持続的に続いてしまうことを、「誤解が発生している」とします。
ここで重要なのは、そこで僕の論を批判している人の方が、よほど優れた問題を立てている可能性が大いにあることです。その人にとってみれば、僕の論は、「自分にとっての問題関心」とは異なる問題を立てたものとして映っているはずです。そして、僕がスタンスを変えない限りは、その論を何としても論破しなければ、その人の思考は推進されないことになることすらありえます。それはその人にとって明らかに「やり甲斐のある」ことですから、僕はそれを止めることができません。
ところが、僕はその人の問題関心がわからないことが、往々にしてある。「誤解を生んだ」状況は、なかなか僕の方からは解決できないわけです。なので、「協力はできませんが、その問題は価値があるものと考えます」と伝えて、その後はべつべつに進めていくのがもっとも互いにとってよいだろうというところに、着地点を求めます。理解しきれない申し訳なさとともに。
僕は、こういう発想で問いの領域を分け、べつべつの道を探し求めることを(ビジネス等で分科会を形成する際、同じ課題を共有するグループを区分することから)「ワーキング・グループ思考(WG思考)」、あるいは「ワーキング・グループを分ける」と勝手に呼んでいます。要するに僕は、「僕の議論にもし問題があって、しかし僕がそれを懸命に努力しても理解できないようであれば、僕の見解など放って独自のWGをつくって戴くのがもっとも効率的であって、僕に直接関わるのは、ご本人の心の平寧のために、諦めた方がよいのではないか」と、素朴に思ってしまう人間なわけです。
僕は個人レベルで、こういう発想でものごとに接することにすっかり慣れきってしまっているのですが、なんだか今回の件を通じて、「そういうスタンスは、あまり一般的じゃないのかなあ」と思ってしまいました。
やっぱり
- 読者のニーズを事前に想定した上で、「こういう読者に向けて書いてますよ」ということを明確に述べる。
- どのような解釈をされても、結論が一緒になるような、堅牢な文章を書く(相手の理解の志向性に決して委ねない。「これはなんとしても批判しなければならない文だ」と思われたら、それは書いた側の責任として引き受けなければならない)。
というようなスタンスに切り替えた方が、お互いに面倒がなくていいのかなあ……と思ったりするわけです。
そして後者の方は、acceleratorさんのおっしゃるような「〔職業意識を保った〕研究論文」のアプローチだと思うんですよ。そして、確かに僕が当ブログを「研究ブログ」としている以上、たぶん後者のような書き方をした方が、職業意識的には正しい、ということになると思います。
そういう見地から、acceleratorさんの仰ることは、言論のスタンスへの提案としても、また研究という行為上の示唆としても、もっともな指摘だと僕は受け止めております。
会話型RPGのワーキング・グループのカタチはどうなっているのか?
でも――僕の文章がどこに向けて書かれているのかが見えにくいことは承知の上で正直に告白すると(笑)――研究論文のアプローチって、そもそもが事前に「学会」というかたちでワーキング・グループを分けているためにある程度有効なのではないか? と思えることも、実はあるんですよね。究極的には「あれ、私たち、問題共有してなくね? じゃ、別れよっか」みたいなことを、個々人でやっていかなきゃならない。そして別れてしばらくした後、「あ、また関心が似てきたかもね。じゃ、付き合おっか」みたいな節操のない感じの事態が、何度繰り返されてもいい。その結果、学会同士で喧嘩をせずに済んでいたり、棲み分けていたりする。アカデミズムという領域は、そもそもが果てしなく分化していったワーキング・グループの群だというような理解を、僕はしています。
そして、会話型RPGについての議論って、たぶん「プレイの役に立つtips」という話が一番わかりやすいと思うんです。僕もしばしば、「そういうtipsを提供することこそがTRPG論であって、あなたの議論はそういうものになっていない」と言われることはあります(笑)。でも、「じゃあ、何がプレイの役に立つtipsなのか?」とゲーマーに尋ねてみたとしたら、それこそ千差万別の答えが返ってくるはずなんです。
つまり、「プレイの役に立つtipsを書けばよい」というような問い/解決のセットは、実のところ、具体的なTRPG論を書くための最大公約数として、それほど強い紐帯じゃないんじゃないの、と僕は思っちゃうんですよね。――だから大上段に議論をぶち上げるのが正しい、とかではなくて(笑)――「プレイの役に立つtipsを書こう」というのも、ある意味で幅が広過ぎて、大上段な議論とほとんど変わらない問題共有しか生まないのではないか、と感じるわけです。
そして僕は、「それだけバラバラなら、自分なりに関心を編んでいくところから始めてもいいんじゃないか」と思うわけです。何度か「TRPG学会みたいなのはないんだから……」と僕は書いてますし、僕の書いていることが何か権力的・押し付け的なものともあんまり思っていない。
もうこの辺から、「高橋志臣の個人的関心はいったいどこにあるのか」という話すら、共有してもらうのはむずかしいんじゃないか、と思っているわけです。だから、個人的関心にもあまり言及しない。しかし、言及しなさすぎると、僕の文章を読んで怒りに駆られてしまう読者の方が混乱してしまう。かといって、個人的関心は、説明しようとしても相当に入り組んでいるし、そもそも文脈を編纂するにあたって参照できそうな言説(アカデミズムにおける先行研究)も、人によってイメージするものがばらばらです。
こういう状況では、研究論文としての体裁を整えながら、まだほとんど誰も聞いたことも理解しようとしたこともない先行研究の文脈を述べなければ、話が始まらないわけですよ。そんなことを考えると、「やっぱり、ワーキング・グループ思考がいいなぁ……」なんて、怠惰な自分は思ってしまうわけです。
将来的な展望、あるいは祈り
こうした考えをめぐらせて、結局何が言いたいのかというと、こういうことです。
acceleratorさんの「望まない方向で自分の文章を読まれて、読者に混乱や怒りを招いてしまうことはできるだけ文章家として避けるべき」という提案には大いに賛同する。けれども、acceleratorさんの助言を実践しようとした時、実際の多くの議論の前提となっていることが多い「アカデミックな言説の相互区分」をサポートする主体というのは、見渡しても見つからない。その結果立論の初動コストが(ほかの議題について論じるよりも)ものすごく掛かってしまう。どんな主張が誰にとっての地雷であり、何が誰にとって役に立つ主張なのか、先行研究もまだ出揃っておらずそれを担保する共同体もない、そんな状況で、自らの主張の前段で、主張の背景を網羅的に解説するということ(=acceleratorさんの言う「論文として成立する条件としての、『読者の関心』なるものを発見し、解説することを互いに要求すること」)は、既存の会話型RPGの言説状況において、実際のところ極めて困難な、その要求基準さえ定かではない営みになっていないか――特に高橋のように、tipsみたいな部分とはまた異なる視座から(も)論を立てようとする人間にとっては。
もちろん、この話は「考えすぎだよ」とか「もっと簡単なことに取り組めばいいじゃんwww」とか「そんなことよりゲームしようぜ」と笑われてしまうだけのことなのかもしれないです。僕もそれでいいんじゃないか、とはちょっと思います。Vampire.Sさんが示唆したように、僕は解決不能なアプローチで問いを立てて、その問いに迷い込んでいる可能性すらあります。それ以前に、これがもし「社会学」という自分の学問領域であれば、「単に同業者の関心を分析しきれてないだけじゃない。精進しな」で終わりでしょう。あるいは、「会話型RPGを研究事例にしているだけで、実際はゲーム全般について論じようとしているから、会話型RPGのtipsを求めている向きの方の需要には、究極的にはお応えできません、すみません」と言って、以後そのように割り切ってしまうのも、アリなのかもしれません。
でも、acceleratorさんの提言を、僕がほかでもない、会話型RPGという領域に対してシンプルに実行しようとする時、こういう言説状況を取巻く圧倒的な困難を取り払う冴えたアイディアというものが、まったくみえてこないんですよね……個人的な感覚として。これはものすごく、暗い感覚として、あるんです。その感覚を払拭できないから、このエントリを書いたと言ってもいい。
前回のエントリで、誤解させてしまった方に謝罪しましたけれども、こういう謝罪は、今後何度もしなければならないと思います。「僕の個人的な関心」が「〔潜在的な〕読者の関心」とどれだけズレているのかは、書いて、応答を戴かない限り、わからないからです。そしてもちろん、僕はTRPGゲーマーを怒らせることを目的で何かを書いていることなんて全くありえない(そんなのに労力をそそいでいる人が居たら、凄いです。羅刹か何かです)。そのありえなさが、それでも怒ってしまった時、僕はとりあえず謝って、「少なくとも、こういう主張をしたわけではなかった」ことを述べ直さないといけないと思います。
ただ一方で、僕の問題を、まだ明瞭とは言えない段階から、奇跡的にわかって下さる方、代弁して下さる方すらいるわけです。その落差が、個人的にすごく受け止めにくい。「これだけ分かってくれているなら、このままでもいいかな」という「個人的関心」の充足がある一方で、「少なくない人たちが、僕の発想に思いがけず苛立っている」という哀しさもある。そして、僕は僕の考えたことをできるだけ率直に(しかし、意図はほとんど捨象されて)切り出しているわけで、ほとんどそれは――ポジティヴな理解にせよ、ネガティヴな理解にせよ――“奇跡”、としか言いようがない感じすら受けます。
アカデミックな言説としてのTRPG批評というものがもし担保されていれば、僕はこういう“奇跡”に惑わされずに済むのかもしれません。そういう努力は、僕よりもずっと優れた人がエイヤッとやってくれれば、数年で整ってしまう程度のものかもしれません。
でも、そういう環境は、少なくとも今はあるとはとても思えないし、あったとしても共有されているとは信じられません。だから、「個人的関心」も、「読者の関心」もうまく言葉にできないまま、僕は僕なりに「何が自分と他者のワーキング・グループを区別しているのか」ということを、逐次判断していくしかないと思っているのです。
「共有できない/理解できない/誤解を生む。だから、もう少し巧く書けよ」という気持ちと、「共有できない/理解できない/誤解を生む。それは、たぶん(まだ)仕方ないから、その都度誠実に書いていくしかない」というのは、行動指針としてはほとんど同じことになります。僕は結局のところ、もう少し巧く書くべきだし、巧く伝えるべきなのでしょう。
けれど――それが伝わらなかった時、「これは鼻持ちならないことを言っている」と判断されてしまった時、そのネガティヴな解釈を打破しようと足掻く虚しさを、感じてしまいます。
たぶん、銀の弾丸はないのでしょうけれども。
*1:僕はテキストの中に「意図」というものが内在しているという立場を、とって居ません。厳密な書き方を志向すれば、誤解の余地の少ない文章を書くことはもちろん可能であるとは考えていますが、それは「テキストの中に意図を精確に埋め込む」というようなものではなくて、「テキストを媒介として、書き手と読み手とのあいだに見解を調整するような何らかの工夫が埋め込まれている」ために可能である、と僕はとらえています。つまり、意図の伝達とは直接的な現象ではなく、常に間接的だと考えており、しかし間接的なら間接的なりに不可能ではない、という立場を取っているのです。