形式的自由度と認知的自由度
- ベン,2003,「一本道かどうか、それが問題ではない」『Scoops RPG』(http://www.scoopsrpg.com/contents/mistery/mistery_may03.html)
- 井上明人,2008,「自由度――ゲーム関連資料」『Critique of Games』
この2つの記事を意識した、簡単なメモ。
筆者の著作「文芸批評家のためのルドロジー入門――ゲーム定義のパースペクティヴ」([2008]2009,http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html)において、ゲーム・プレイ経験の分析には「形式的アプローチ」と「認知的アプローチ」の二つがあり、その両方を念頭に置いた議論が必要であることを確認した。
ゲームを語る上でのマジック・ワード“自由度”にも、こうした観点が見いだされる。ゲームデザイナーが意図して埋め込んだつもりの“(形式的)自由度”が、プレーヤーの側には“(認知的)自由度がない”というような発言を引き起こす。“自由度”を提供したつもりが、“自由度”がないとクレームをつけられる、こうした意識のズレとして巻き起こる。
こうしたズレを解きほぐすためには、まずマジックワードとしての“自由度”には「形式的自由度」と「認知的自由度」の二種類の自由度をその都度別のものとして参照する必要があるだろう。
次に、形式的/認知的の区分を行うことの有用性について論じる。(ベン 2003)は、形式的にTRPGシナリオが「一本道」であることは、実のところそれほど問題ではない、むしろプレーヤーの側に選択の自由(=筆者が述べた「認知的自由度)が感得されることの方こそ、デザイナーの関心事項であるべきである……ということを指摘している。
このベンの論は、「認知的自由度を考慮した、形式的自由度の制御」としてひとまず捉えることができるだろう。そしてベンは、認知的自由度の制御のために考慮すべき点を三つ採り上げる。
- 「選択の制限(明示)」
- 「すべての選択肢を選択させない」
- 「選ばれなかった選択肢の結果を明らかにする」
(ベン 2003)
ところがこれには、追加の前提が必要になるだろう。どんな前提か。
- 「選択の分岐を俯瞰することができるようなシナリオ構造があらかじめほぼ決定・記述されていること」
- 「同じシナリオ構造を利用して、繰り返しプレイが可能であること(プレーヤーが同じである必要はない)」
- 「同じシナリオ構造を遊んだ結果、プレーヤーの選択によって異なる状況がシミュレート可能であること」
(筆者による)
先ほどのベンの三条件を「認知的自由度の三条件」とするならば、今筆者が述べた三条件は「形式的自由度の三条件」である。
そしてベン氏の理路によれば、「形式的自由度の三条件」がたとえ決定されていたとしても、それは「認知的自由度」を提供するための必要条件でしかない(=プレーヤーに、マジックワードとして流通する“自由度=楽しい!”を感じさせるようなデザインとしては、十分でしかない)と言える。
しかし、ベン氏の「認知的自由度の三条件」を全て遂行するためには、あらかじめ形式的自由度が設計・提供されていることを、プレイ後にプレーヤー自身によって確認できるようになっていなければならない。そうしなければ、プレーヤーは「手応え」や「もっとこうすればよかった」と、“ifの思考”を働かせる契機を失う。
「形式的自由度」と「認知的自由度」。この3+3の6条件を満たすようなゲームデザイン(TRPGの場合、シナリオデザイン。筆者の語用では、ギミックマニュアル・デザイン)を一つ一つ、丁寧に行うのは、簡単なことではない。しかし、だからこそ、量的・質的に、こうした丁寧さをゲームデザイン・マスタリングの技巧の評価軸として彫琢していくことは、一定の価値を持つと思われる。
(本来ならば追加で、「なぜ形式的自由度がその三条件に集約されるのか」とか、別の展望についても書いて置くことが望ましいだろうが、今回はここでひとまず措く。)