物語的ゲームの設計と受容に関する覚書――〈ゲーム的選択原理〉について
ここ数日、玄兎さん、紙魚砂さん、acceletatorさんが、TRPGにおける「悲劇」の扱いについて、それぞれの立場から論じているようです。これまでの議論の経緯はacceleratorさんのエントリの後半を参照してください。
ここで私は、玄兎さんが「介入」という言葉をキー概念に使っていることに、共感しました。実は私は、2008年のゲーム学会で〈推理ゲーム〉と〈介入ゲーム〉という二つの概念を使って、『ひぐらしのなく頃に』と『GPM23』*1におけるゲームコミュニティの変化について論じたことがあります*2。
そういうわけで、「介入」という概念は(まだ私自身、どういう定義を与えたら一番適切なのかは判断できていませんが)TRPGに限らず、ゲームデザイン一般においても重要なものだと考えています。
先ほど紹介したacceleratorさんのエントリにて、自身を含めた三人の立場について整理されいてましたが、そこでacceleratorさんが紙魚砂・玄兎とご自身の三者の立場の違いを「物語」「ゲーム(デザイン)」「受容(感動とか、楽しみとか)」という三つの分け目に見出していたのが、興味深いと思います。
三人の共通点は、何であれTRPGというゲームジャンルを「表現形式の一種」と捉えていることです。ただし、
- 「ほかの文芸・物語から着想を得て、TRPGというゲームジャンルに翻案することを重視する。(物語→ゲームデザイン→受容:accelerator)」
- 「TRPGというゲームジャンルが、どういう設計があるためにに物語的な体験を創出しているのか」を分析することを重視する。(ゲームデザイン→物語→受容:紙魚砂)
- 「TRPGというゲームジャンルは、そもそも物語設定に〈介入〉できる部分と〈介入〉できない部分がある、という前提のもとで、TRPGにおけるゲームデザインの設計方法を確立する」ことを重視する。(物語的な設定の介入可能性についての吟味→それにもとづくゲームデザイン→受容:玄兎)
このような立場の違いがあると思われます。玄兎さんのところが一番ややこしいのですが、それは前者二人が、「物語」という言葉を「表現される一連のストーリー(語られたもの)」として前提しているのに対して、玄兎さんの「物語」はそうではなく「変更可能か不可能かがその都度ゲーム的に定義され管理される、架空世界における設定」というような文脈で使われており、厳密には「ストーリー」と呼ぶことができない単位を扱っているからです(そして私は、TRPGと向き合う際、玄兎さんの方向性により近いGMであると自認しています)。
今回夏コミの『筑波批評2009夏』で、馬場秀和がTRPGにおける「物語」をどういう風に考えていたのか、というのを説明する部分がたったの二、三行だけ(笑)出てくるのですが、そこで私は馬場さんの発想を一言で説明するため、〈ゲーム的選択原理〉という言葉を作っています。
馬場さんは、「ゲーム内において登場人物が活躍できるかどうかは、ゲームデザインによって事前にある程度決定されてしまっている」ということを、「選択原理」という考え方をもとに論じています(馬場2003*3・2004*4)。
ただ、馬場さんはそこから先、ゲーム的選択原理がTRPGのシステム&シナリオデザインにおいて具体的にどう作用しているのかについてはほとんど述べていません。しかしそれでも、acceleratorさんの「(コミットメントの)不能性」および玄兎さんの「介入」「介入権」「干渉不能性」の問題は、実は物語の水準ではなく、「物語設定をゲーム的なものと見なした場合、どのあたりにゲーム的選択原理が発生しているのか」という問題として読み換えると、今回の話はかなり見通しが立ってくるのではないかと思いました。馬場さんがあいまいに「キャラクターの活躍」としか呼んでいなかったものを、二人が別々の方向性で進めていると私は解釈しています。
今後このあたりのテーマについて議論を進めていくにあたって、トラップ(=議論のすれちがい)になりそうなところを列挙しておきます。
- 「物語」ということばは、何を指しているのか?
- 「表現されたストーリー」?
- 「背景世界中の設定」?
- TRPGにおいて、「ゲーム」と「物語」の関係はどうなっているのか?
- 「物語」を表現するために「ゲーム」を利用するのか?
- 「ゲーム」という表現が「物語」も同時に表現するのか?
- それとも他の意図があってその2つを並列に論じているのか?
それと玄兎さん・acceleratorさんの二人の議論から出てきそうな論点としては
- TRPGにおいて「介入可能」「介入不能」を分ける際、論点となるのは一体何なのか?
- 「ストーリー(結果的にプレイされたもの全体)としての物語」なのか?
- 「プロット(因果関係の連鎖)としての物語」なのか?
- 「設定(背景世界中の要素定義)としての物語」なのか?
- それとも上記3つそれぞれに対する何らかのルールやパラメータの付与(ゲーム的操作)なのか?
- だとして、それは〈システムデザイン〉および〈システム選択〉が問題なのか?
- それとも〈シナリオ作成〉が問題なのか?
- 〈セッションハンドリング〉や〈プレイング〉で初めて問題になるのか?
- それとも他の点にあるのか?
このあたりをはっきり明確にした上で論じていけば、「TRPGという表現形式において物語を表現するとは何か?」という共通の関心について、面白い議論ができるのではないかと思います。
一番怖いのは、「物語」という言葉に過剰な期待を込めて持論を展開してしまうことですね。今回取り上げた人たちはある程度安心して読めますが、TRPGに限らず、ゲームにおける物語的なものを論じる時、落とし穴になりやすいところなので、話す際にも読む際にも気をつけた方がよさそうです。
余談
『ロールプレイング・ゲームの批評用語』で拾わなかった、馬場(2004)三分類を補記。
- TRPGをゲームとして成立させる三要素
- 〈挑戦〉/challenge:目標達成に向けた有利不利を吟味する。
- 〈模擬〉/simulation:背景世界やキャラクターの〔その世界法則に沿った〕リアルさ・もっともらしさを維持する。
- 〈物語〉/narrative:物語としての完成度を高めようと努力する。
なんかこう書くとD&Dの特技(feat)みたいですね。ははは。
この3要素が〈目標の多層構造〉に含まれる4つの目標(〈課題の解決〉〈役割分担〉〈ロールプレイング〉〈ゲームコンセプト〉)とどういう関係があるのかっていうのは、これまた別に論じていないので、別途使う人が解釈する必要がありそうです。解釈の結果、もはや馬場さんからは用語・分類の発想を拝借するだけで、別の議論になっていくことになりそうですね(もちろん、それが健全というか、それがあたりまえでしょっていうか、そういうところがあるんですが)。
*1:アルファシステムが『高機動幻想ガンパレードマーチ』の設定を使って提示した掲示板ゲーム。
*2:高橋志行・井上明人,2008,「ゲームに参加するとはどういうことか――ゲームコミュニティにおける推理と介入」ゲーム学会第7回全国大会発表.
*3:馬場秀和,2003,「背景世界とキャラクターをつなぐもの」『馬場秀和のRPGコラム』2003年11月号(http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20031106.html,2003.11.16).
*4:馬場秀和,2004,「RPGと物語に関するごく短い断章」『馬場秀和のRPGコラム』2004年01月号(http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20040106.html).