GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

〈真偽〉と〈当否〉の違い――論理と現実の一致の度合いについて考える

 先日紹介したVampire.Sさんとの対談について、石頭さんから質問がありました。それは、

「Vampire.Sさんの言う〈当否〉というのが、いったい〈真偽〉と何が違うのかよくわからない」

 というものでした。

 Vampire.Sさんご本人に確認をとったわけではないですし、また『ルーンウォーズ』を遊ぶ前からこうした「設計思想」の話ばかりしてもむしろマイナスプロモーションになりかねないかも、という側面はあるのですが(笑)、RQの皆さんの中でも「うーむ、むずかしい」と言われている中、少なくともこの説明でけっこう石頭さんには納得していただけたようです。
 もし質問・疑問・誤りの指摘などありましたらどうぞコメントお寄せください。私もできるだけ丁寧に書くよう心がけていますが、時に説明をはしょったり、言い忘れや誤解などがあるかもしれません。

 元の記事はこちらとなります。

■高橋志臣,2008.09.16「仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080915/1221483369

 また、少し科学的な思考とは何か、という話もしています。参考となる過去エントリとして、お手すきの時にこちらも読んでみてください。

■高橋志臣,2008.09.02「ありうる、の基礎――説明としての科学」
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080902/1220322548

 経験科学とは何か、という話は、むしろこちらの方がわかりやすいかもしれません。今回の『仮象論のパラドックス』をめぐる話が〈真偽〉の話だとすれば、こちらは〈当否〉の話になります。言ってみれば、『〈真偽〉と〈当否〉の違い』を論理学編、そして『ありうる、の基礎』を経験科学編とした場合、この2つは1枚のレコードのA面とB面のようなものになっているのではないかと思います。Vampire.Sさんの〈メカニズム〉と〈テーブルの合意〉の2つの関係についてとも、かなり重なってくる話ではないでしょうか。

 では、どうぞ。

石頭 :ふーむすみません、〈当否〉の意味って教えてもらえませんかねえ。
高橋 :確かに、ふつうは〈当否〉と〈真偽〉を日常用語で区別することは少ないですよね。私も一寸わからなかった。
 えっとですね。まず、「存在」があります。これは、「原子」とか「土」とかそうした一般的な存在ではなく、「この水素分子」とか「この瓦礫」とか、そういう風に1つ1つ数えたり、観察できたりする、「個別な存在」のことです。
 そして私たちは、その「存在」が把握できるなら「それに対して名づける」という作業をしますよね。
 これを、「対象」と「命題」と、そういう言い方で区別しましょう。
石頭 :ふむ。
高橋 :で、私たちは、「○○はある。そして、それは正しい」っていうとき、「○○という対象は確かに、わたしたちの住む現実に存在する。そしてそれは正しい」っていうことを考えますね。
 つまり、私たちが「真偽」と聞いたときに思い浮かぶのは、〈経験命題〉(=私たちがこの観察可能な世界において認識し、考えた結果、ある思考されもの・認識されたものを表した文)に関する真偽、「対象」と「命題」が合致するものとしての“真偽”なわけです。――ところが、論理学はそうじゃない。
石頭 :ほう。
高橋 :「命題」と「対象」の一致を確かめるよりも以前の世界、単に命題しかない世界でも、私たちは「真偽」を考えることができるんですよ。
石頭 :へえ。
高橋 :どういうことか。つまり、こう言い換えてもいい。「○○は存在するかどうかわからない。しかし、それぞれの命題同士が矛盾してないかどうか(真か偽か)を、命題同士の組み合わせの適切さの水準から判定することはできる」。
 これが、論理学の重要なところなんですよ。
 たとえば、「石頭は存在する。かつ、石頭は存在しない」という言葉を考えましょう。
 これは、石頭さんを実際に知らない人が読んだとしても、この文章が「対象」を適切に名指していないこと、「あ、まちがってるなこれ」っていえることが、わかりますよね?
 つまりこれは、科学以前の、私たちの論理法則にまつわる「偽」なわけです。もっと精確に言うと、これは石頭さんの存在に関するあらゆる場合において「偽」になるので、端的に〈矛盾〉といいます。この逆が〈トートロジー〉、どんなケースでも常に真になる命題です。*1
 いっぽう、ただたんに「石頭は社会人である」というフツーの命題、しかも組み合わさったものではなく、独立した1つの命題の正しさを考える時、それは自然科学、社会科学的に検証されないと分からないんです。
 そうなると、論理学ではない。論理学は〈分析命題〉(=「論理記号で分析しただけで〈真偽〉が問えるようにつくられた命題」)の束しか扱いません。しかし、私たちの日常世界との対応関係を、論理学は保証しないんです。論理学だけじゃだめで、具体的な「対象」と「石頭」との関係を観察する必要がある。〈経験命題〉というからには、〈経験科学〉が――つまり、自然科学や社会科学、実証的な研究がこれに対応しなければならないのです。
 そして、経験科学のむずかしさを知っている人なら、「経験命題に真偽を割り振るなんてそんなにかんたんなことではない(少なくとも、人類には完璧にはできない)」ということは、どんな方にも少し考えていただければ分かるような話だと私は思っています。日常的な、箸の上げ下ろしレベルでも同様です。蓋然性は高いけれども、絶対確実とはいえない。論理学では普通の二値原理(白か黒か)を、〈当否〉の判定においてはそのまま適用できない。「経験命題には真偽を割り振ることができない」というのは、こういうことです。
 したがってVampire.Sさんは、「対象」と「命題」の一致関係も含めた真偽に関しては、論理学的な意味に限定した〈真偽〉とは分けて〈当否〉と言ってるんです。
石頭 :〔存在について言う前に〕それ以前の問題を検証しないといけない、ってことなんですかね?
高橋 :そうですね。小説の人物が時にリアルに感じるのは、現実に何が対応するか関係なく、「真偽」についてそれなりに厳密な考察をしているからという場合が多いでしょう。完全に支離滅裂な筋の文章というのは、不条理文学でもない限り、「ストーリー」としては認められにくいものです。例外はあるでしょうが、矛盾は少ない方がまあ真面目に受け取りやすいし、想像もしやすいでしょう。しかしだからといって、無矛盾な、内的に論理的一貫性を保っているように見える命題の束があるからといって、それが「存在」のレベルでまで実在するとは限らないのです。「命題」と「対象」は、相変わらず対応しない。
 私たちが何かについて「リアルだ」と感じるかどうかは、形式論理の世界ではなく、経験科学の領域です。しかし一方、小説の作者は経験科学の世界に確かに所属しているでしょうが、小説の登場人物や、演じられるハムレットという対象などは、――「書かれたテクスト」「演じている身体」はありますけれど――、そこから喚起される概念も含めて考えた時には、無前提で「経験科学の世界にいる」とはいいがたい。そもそも、論理学は「経験命題の〈当否〉を(究極的には)扱えない」んですよ。
 だって、たとえば論理学が経験命題を語れると仮定しましょう。
 と、するならば、「石頭」という名前は、「(本名X)という個体」と1:1対応している必要がある。しかし、これはもう既に矛盾でしょう。同じ個体に、「石頭」という名指しと、「(本名X)」という名指しがある。
 その複数の名指しの交差点にある、「誰か」が存在するかどうかを、名前同士の関係からだけじゃ、確かめようがないんですよ。
石頭 :神さまとかですか(笑)
高橋 :そう!(笑)プラトンでもいいですが。私たちは、1対1対応を望む時、イデアみたいなものを暗に想定しちゃってるわけです。つまりこの場合、石頭と言うイデアがあるんですよ、イデア界に(笑)そして、石頭と言う存在と石頭と言う真なる実在は一対一対応していて……でないと、「ただひとつの、精確な、無矛盾の説明体系」なんてできないわけですよ。*2
石頭 :ふーむ なんとも凄い話ですね 魔術というか。
高橋 :はい。「真の名」みたいなものですね。ところが、科学的に、そんなの説明できないんです。「あるかどうかは別として」。
石頭 :はー、だからライトノベルとかでも出てそうな話なんですね、型月の作者はここらへんを勉強したんでしょうねえ。
高橋 :特に典拠があるわけじゃないんですが、この人間の経験世界では、少なくとも4つのレイヤーが考えられます。

  • 存在(物理)のシステム
  • 認知(感覚)のシステム
  • 思考(心)のシステム
  • 説明(言語・記述・描写)のシステム

これを「存在/認知/思考/説明」と仮に名づけて、わけましょう。
 で、論理学が問題としているのは、実は基本的に言語、つまり「説明」のレイヤーです。
 論理学の立場に立つとき、存在は、ぶっちゃけわからん。実在が1つあるか、2通り以上あるかなんてわかんないんです。
 しかし、キリスト教圏では、神が複数いると困るので、1つの存在を前提したいという欲望も出てくる。しかし一方で、私たちの認知は、「1対1対応の世界」を観察することに限界があるんです。たまに原子とかクォークとか見つけられるけれど、それだって本当に「命題」と「対象」の真なる一致かなんてわからない。ほぼ近似であるかもしれませんが、それが「説明」である限り、保証はできない。
石頭 :ほうほう。
高橋 :そして、私たちの名指し、「説明」にも、そしてその一段下にある「思考」においても、限界ありまくりんぐなんですわ。
「説明のレベルが、存在のレベルと1対1対応する」?
「経験命題に真偽値は割り振れる」?
 神? イデア論? 霊能者?
 突き詰めると、そういう話なんですよね。こういうことを素朴に主張できる人は、言葉を信用しすぎといってもよいかもしれない。この立場は「科学的実在論」と言って、批判対象になっています。私は、「うまく説明しきれない、なんらかの実在は必ずあるんだろう」という留保つきで、反・科学的実在論の立場をとります。人間の認識の限界が分からない限り、そんなの断定できないからです。
石頭 :ふーむ。いや、いずれそういう「超人」ってのは現れる……わけがない(笑)
高橋 :で、本当に論理学を「現実に適用すると」なんなの? って問題なんです。私が虚構文うんぬんと言っていた問題です。
「命題」と「対象」。あるいは「描写」と「肖像」*3。ことばと存在はどう一致するのか。一致したとして、それはどれだけ正しいのか、間違っているのか。
 ところで、これにも二つのレイヤーが考えられるよねって言ったのが、Vampire.Sさんの話しにも出てきたゴットロープ・フレーゲです。
 彼は、わたしたちが扱う意味には、「意味(Sinn)」「指示(Bedeutung)」の2つがあるとしたのです。
石頭 :ふーむ。それって言語学、英語と日本語では多少意味合いが異なる、とかってないの?
高橋 :Sinn/Bedeutung(ドイツ語)を「意義/意味」と分けたりしますが、その辺は専門家の間でもまちまちなので、私は野矢茂樹さんの考えにできるだけ学ぼうと思いながら話しています。
 ちょっとわかりやすくするため、さっき出た例をさらに拡張しましょう。

  • (本名X)
  • 石頭
  • スーパーウルトラなんたらかんたらストーンヘッドだぜべいべ子猫ちゃん

石頭 :べいべかー(笑)
高橋 :この中の、3つ目が「真の名」だとしましょう。
石頭 :えー(笑)
高橋 :そうすると、経験科学が相手にするのは、3つのうちどれ? という話になりますね。
高橋 :科学は「存在」を相手にしますよね。となると、存在に一致してそうな唯一の名を選ぼうとしないと――まあ、そんなのがあるかどうかはさておき、気まずいわけです。
 つまりスーパーウルトラなんたらかんたらストーンヘッドだぜべいべ子猫ちゃん、だけが、〈真偽〉だけでなく〈当否〉、つまり存在/非存在を論じる対象となるわけですね。
石頭 :ふーむ。なるほど。
高橋 :これをフレーゲは、綺麗な喩えで説明しています。*4

  • 明けの明星
  • 宵の明星

この2つ。「科学の研究対象」として、ふさわしいでしょうか? 
石頭 :「対象」にはならない、と。
高橋 :はい、そうです。少なくとも、この2つの現象を理解するためには、不十分といえるでしょう。ではさらに質問です。この2つについてすでに科学的に導かれている「対象」、すなわちたった1つの意味とは、はなんでしょうか?
 どっちも結局はおなじものを名指してますよね。
石頭 :金星かー。
高橋 :はい、そうなんです。フレーゲは、

  • 明けの明星
  • 宵の明星
  • 金星

 この名前のうち、論理学の対象にすべきは「金星」だけだという主張をしたとされています。それをうまく語るために、〈意味/指示〉を分けて、ただ一つの〈指示〉に着目したのです。そして、真偽を問えるのは、さまざまに言い換えてもなお指差さすことができるたった一つの名辞、 Bedeutung すなわち〈指示〉だけだと。ほかの呼び方はそのときどきの、示し方のバリエーション(Sinn)なんだ、と。*5
 ところで、フレーゲ自体は、「存在」についても着目していました。ところが、フレーゲ以降の論理学は、数学のように「とりあえず、対象を問わない」推論体系の一つとしても発展してます。こちらはちゃんと調べていないのでよくわかりませんが、数学や情報科学集合論的な論理学などは、こうした「形式そのもの」「命題そのもの」の無矛盾なシステムを追求して「対象」との関係をすえおきするような方向性の発展もあった。これが、Vampire.Sさんのいう「形式」ってやつです。
 論理的なシステムと、実在との一致・不一致との関係については、こうした議論の背景があるんですね。もちろん、一つに収束しているわけではなく、今でも実在論唯名論のあいだで争いがあったりしますが*6、私はだいぶ唯名論プラグマティズム寄り*7です――今のところは。したがって、私はフレーゲのような意味で Bedeutung があるとは……まあ「真の実在」とかそういうものではなく、わりと「習慣的」なものなんだろうな、くらいに思っています。*8意味として把握できないような意味での実在はあるんだろうと思いますけれどね。うまく説明できないだけで。

以上

*1:これは、『仮象論のパラドックス』でも説明したものです。

*2:さらに、クルト・ゲーデルの議論を参照すると、このような前提の下ですら完全な説明体系はつくれないという事が証明されたりしている。これについては私はうまく理解できていないが、興味があれば調べていただきたい。

*3:ビアズリーによる区別。

*4:

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集

*5:sakstyleの指摘を受け、文献を読み直した結果、この部分を書き間違えていたことが判明した。すみません。Sinnを「意味内容」、Bedeutungを「指示対象」とした場合、真偽に関係あるのがBedeutung。真理条件(真偽を付与する際のその真偽の決定の仕方)に関係するSinn、となります。調べた結果はもう一度エントリにまとめる予定。

*6:

*7:

プラグマティズム (岩波文庫)

プラグマティズム (岩波文庫)

*8:

現実の社会的構成―知識社会学論考

現実の社会的構成―知識社会学論考