「ビールつき反省会」なら自分もよくやります
『RPG日本』で活動中の鏡さんに関するコメントです。
まず、鏡さんに対する自分の意見は概ね伝えてしまったので、また暫く様子見とさせていただきます(したがって、今回のエントリでは、鏡さんに対してお答えいただきたい問題点等は特に何も書いていません。ご了承ください)。
私は道具としてのTRPGシステムを議論の俎上に載せるにあたり、システムデザイナーが打ち立てた〈ゲームコンセプト〉について類推する技量(少なくとも、努力)が必要だという立場に立っています。
その点では、確かにTRPGのマスターリング手法の立論については、鏡さんと袂を分かっているかもしれません。
しかし、鏡さんが目指す「自由」な遊び方が、「許されない」かのような空気があるという鏡さんの問題意識については*1、なんとなく共感できる部分もあります。私は鏡さんみたいな遊び方も好きなのですが、なんだか近年は「新しいシステムは旧いシステムの問題(面白さ、遊びにくさ、プレイヤビリティ)を必ず解消していて、それはすべてのゲームマスターにとって有用である」という“仮説”に過ぎない話が、ろくな論証もされないままに色んな方面に適用されすぎていないかという気がしています。
確かに技術が発展し、プレイヤビリティは上がっているかもしれません。けれど、だからといって元のゲームより「使いやすいかどうか」という問題については、腕も思想もてんでバラバラなゲームマスター個人が個々の掌の上で独自に決めることだと思います。新しいゲームには新しいゲームの、旧いゲームには旧いゲームの良さがそれぞれあって、それをもとに〈システム選択〉をするのが私はいいと思っています。
私は旧いシステムで神がかった面白いゲームを提供するマスターを知っていますし、一方で先日発売したばかりのゲームを非常に巧く乗り回すマスターも知っています。そして私は、「その片方にしか価値がない」という帰結を生み出すような議論には組したくないのです。
私が評価したいのは、あくまで「優れた道具の優れた部分を巧く引き出すゲームマスターの技量」です。「道具の特性」と「ゲームマスターの技量」が巧く噛みあいさえすれば、どんなシステムでもいいんじゃないかと私は思います。
そんなわけで、鏡さんが以下のようにおっしゃるのであれば、特に追加で批判すべき点は見当たらないなあと思います。
私は「進行管理」を否定しているのではありません。その対照概念である「自由」について語っているのです。「A」ではない「非A」を示すのが、「A」の否定では無いように。そうして「自由」を復興、復権させて、「自由」と「管理」とが選択肢として併存することを望んでいます。
(鏡2008.03.11「自由あり、管理の否定には非ず」)
鏡さんの話と完全に同じとはいえませんが、私もまた〈運用〉というキーワードで、ゲームマスター/プレーヤーの独自性を考える路線へと向かってます。しかしその話でも、「ゲームマスターがすべてだ」というわけではなく、あくまで〈システムデザイン〉と〈マスターリング〉の相互尊重関係について論じることが主題であり、どちらがエライという二者択一の話をしているわけではありません。
そういうわけで、TRPGセッションにおけるパワーバランスの問題について考えている、という点では、鏡さんと私との間には類似点があると思っています。そのような点で今後も学ばせていただければ、と思います。個々最近行った2回にわたる批判も、〈ゲームコンセプト〉をめぐる鏡さんとの立場の相違について明らかにしたものと受け取ってくだされば幸いです。
さて、玄兎さんのところで見つけたこの話。
「反省会」じゃなくて「感想戦」って言ったらどうでしょう? という提案ですね。
感想戦ってのは囲碁や将棋なんかで良くやる「検討会」のようなものです。
題材は、直前に行った対局。
その中で「ここに打ったのは良かった」とか「ここはこうした方が良かったかな」とか「ここの手はここに打ちたかったんだけど」とか、対局を振り返ってシミュレートしていきます。
やっていることは反省会と大差ないんですが、どちらかというと「巧手/妙手に着目する」とか、「迷った挙句に打たなかった手を、もし打っていたらどうなってたかをシミュレートする」とか、前向きな姿勢で行うものだと考えてます。
というか、そういう姿勢でなかったら、まずやらない(笑)
どうも「反省」という言葉には、とかくネガティブなイメージが付きまとうようなので、あんまり使いたくないんですね。趣味や道楽の類のような、まず娯しみたいものについては。
(玄兎2008.03.18「提案。反省会→感想戦」)
確かに、「反省会」というよりは、直後にやる「感想戦」の方が、話としてはわかりやすいですね。囲碁・将棋などの文化から類推してイメージしやすいですし。
鏡さんの「反省会」という言葉は、TRPGセッションが終わったあとに「はい、それじゃあバイバイ」ではなく、「場所を変えて御飯でも食べながらあれこれ今日の話でもしようよ」という通常の流れのことを指していると思うんですが(え、違う? そういう読み方じゃない?)。
玄兎さんが提案した「感想戦」の場合、そういう「流れでファミレス/飲み屋へ」というのではなく、まずセッション直後に「判断」の要点だけを話し合うようなイメージになりますね。
これが、場所を変えて酒など入り始めると、それはそれで面白いんですが、議論が拡散していきがちだという難点があります。個人的な経験では、D&Dのセッションだったはずなのに気がつくと『アドバンスド・ファンタズム・アドベンチャー』の財産決定のヒドさの話になってたり、昔の新和版D&Dキャンペーンで自分がいかにヘボプレイをしたかという話で30分費やされたりします。*2そうなると、「今日のセッションの話」にはなかなかなりにくいですね。
というわけで、TRPGの「巧手/妙手」*3や、セッションを通しての総合的な〈マスターリング〉の出来・不出来を話し合うには、「セッション直後」と「終了後の食事会or飲み会」の2回のチャンスがあって、たぶんその「ふだんみんながフツーにやってること」を「感想戦」と呼ぶか「反省会」と呼ぶか、それともただの「帰りのだべり会」と呼ぶかというだけのことなんじゃないでしょうか。つまり、呼び名の問題ということです。
鏡さんの議論で困ったり首を捻ったりしている人は、わりとそーゆー“言語戦略”の部分で誤解したりつまづいたりしてるんじゃないかなーと思います。
鏡さんが「反省会」という言葉を通じて書いていたこと自体には何も悪いことはないと私ははじめから思っていたのですが、以下の文章を書いてもらうまで、「反省会」という言葉はちょっと“言語戦略”としてはまずいかもな、と感じていました。
「反省会」について。草野球ではしばしば、反省会はビール飲みながら、です。「くそ、あの時ホームに投げてりゃなぁ!」「なに、あれで1点で抑えられたのは上々だよ」とか、「くそ、あの時宝の地図を燃やしてなけりゃなぁ!」「なに、悪者の手に落ちなかったんだから良かったじゃないか」とか、プレイをネタにワイワイやるのが楽しくてやるわけです。
(鏡2008.03.16「鏡はどう自由に辿りついたか、他」)
こういう“気楽さ”と「反省会」という単語を同じものとして見ない人が、TRPGのネット議論に参加する人にあまりに多すぎたんじゃないか、と思います。TRPGの議論となると、そのままの自分の言語感覚だと話が通じにくい方も多いですから、大変ですよね。鏡さんの議論をそれなりにじっくり追えば、必ずしも重苦しいノリとは限らないということもわかるのですが、どうもパッと見ではそういう解釈はされにくいみたいです。不思議ですね。
ともあれ、「反省会」「感想戦」「だべり会」「食事会」「飲み会」「後でファミレスでたまろうぜ」なんでもいいと思いますが、ともあれTRPGセッションの最後のところに、鏡さんがそういったものを置いていること自体は、TRPGゲーマーなら「うん、あるよねー」と言えるものなんじゃないかと思っています。
私のBlogに関心のある方は、鏡さんの議論を追っている方も少なくないと思いますので、一応こんな話もしてみました。
ところで、TRPGのキャンペーン打ち合わせのために、セッションを経由せずに飲み会する時とかも、熱いといえば熱いですね。
……もっとも、それで年がら年中セッションしなかったら問題ですけれども(笑)。