「自由な遊び方」の理念と鏡氏個人の〈運用〉は区別した方がわかりやすい
表題の通りです。
久しぶりに「RPG日本」の鏡さんの議論にコメントします。
なぜなら、彼の唱える「自由」がどういう意味範囲を指しているのかが、実践レベルまで公開されたために、ようやく考察できるようになったからです。
■鏡2007-8『卓上RPGを「自由」に遊ぶ 理論篇』
http://www.rpgjapan.com/kagami/rpg/rpg_1/
今回は誤解を招かないよう、私が読解した結論だけ述べます。
私は鏡さんと同じく〈運用〉を尊ぶ立場なので、基本的な立場としては、鏡さんに好意的であるべきだと感じるようになりました。今後ともよろしくおねがいします。
詳しい議論が見たい方は以下の続きを読まれることをおすすめします。
■鏡氏に対する批判(箇条書き)
- 鏡の主張は、まずシステム批判ではない。現場の〈運用〉に対する批判である。
- ところが一方で、鏡氏は、この世のすべてのゲームマスターの一人である自身の〈運用〉と、理念型としての〈運用〉モデルとを混同している。
- 鏡氏の主張は確かに、現場の〈ゲームマスター〉と〈プレーヤー〉の相互作用によって生まれる新しいゲームの面白さを追求するものである。
- そしてにゃあ氏の指摘によれば、それはTRPGにおいてよく知られる〈運用〉の一種である「箱庭型TRPG」*1のモデルに近い。
- 「箱庭型TRPG」が面白いことは事実だが、それ“だけ”がTRPGにおいてもっとも面白い〈運用〉とは言うことができない。箱庭型TRPGは、腕のよいGMによる〈アクロバティックな運用〉の一種に過ぎないからだ。
- 鏡氏の主張は、「進行管理」*2系の〈システムデザイン〉や〈シナリオ記法〉*3をいったん否定した上で、ほかの面白さを追求するタイプの、どちらかといえば玄人好み(あるいは「進行管理」が整っていなかった旧い時代のわれわれの)遊び方を推奨している。
- しかし、「1.アイデアは面白いのに、肝心の進行管理がへたなゲームマスター」「2.進行管理系のシステム・シナリオによって独自の〈運用〉を提供したいゲームマスター」にとっては、むしろ「進行管理」系によって〈セッション〉を統御することはゲームコンセプト的にも必要な場合がありうる。鏡氏の「進行管理」の否定は、そのような方向性での〈ゲーム〉が面白いことを(たとえ鏡氏自身の意図がそうでないとしても)*4排除しかねない。
- 鏡氏がほんとうに「自由な遊び方」を理念として尊ぶならば、自分個人が面白いと思う〈運用〉だけでなく、「進行管理」が整ったシステム・シナリオ選び取られる「自由」もまた認めなければならない。
- したがって、鏡氏の提唱する「自由な遊び方」の理念それ自体と、鏡氏個人が目指す「進行管理を必要としない〈運用〉」の肯定は、区別した方がわかりやすいと考える。ゲームマスターの「自由」とはむしろ、そのようなシステム・シナリオも、ゲームマスターの腕や提供したいコンセプト、プレーヤーの要望によって選び取ることが確保される「自由」であると私は考える。
以上です。
*1:ある架空の状況に関する「時間」「空間」「人物」「事件・モノ」などを設定し、その中で起きる事件をシナリオ無しで自由に歩き回ってもらうことで状況シミュレーションを楽しんでいくタイプの〈運用〉。システムやシナリオに「進行管理」のコントロールは(あったとしても指針としてしか)含まれておらず、すべては〈ゲームマスター〉と〈プレーヤー〉の合意によって営まれる。それゆえに、腕のよい〈ゲームマスター〉と〈プレーヤー〉が遊ぶ際には非常に面白い〈共同ゲームデザイン〉&〈ゲーム〉が成立する。ただし、「沢山の時間が必要」「進行管理がないため、セッション参加者の腕が悪いとグズグズになる危険性をはらむ」などのデメリットがある。
*2:〈ゲームマスター〉や〈プレーヤー〉の腕が劣っているせいでセッションが崩壊することを防止するために、「指針」以上に強力なシステムデザイン・シナリオ作成レベルでのゲームデザイン的工夫。あるいは、そのような工夫が施されているTRPGの著作物。システムデザインとしては高度な部類に属するものだが、これがあると、ゲームマスターの〈セッションハンドリング能力〉を発揮する機会が失われるという欠点がある。もしゲームマスターが特定の〈セッションハンドリング〉をゲームコンセプトの中心に置きたいと考えている場合、このようなシステム・シナリオを選び取ることは難しくなる。しかし、進行管理系があったとしても、現場が志向するゲームコンセプトがほんとうにそのシステムに沿ったものであるならばゲームは十分面白くなるため、鏡のように「進行管理系があるとゲームマスターに対する自由が失われる」、ということは必ずしも言えない。私が喩えば、この進行管理系がもっとも発達しているF.E.A.R.の製品を「初心者用」と呼んだことがないのは、システムレベルの進行管理系を否定しなくても十分にある種の〈アクロバティックな運用〉が実践できるからにほかならない。多くのF.E.A.R.系TRPG批判者は、F.E.A.R.を肯定するにせよ否定するにせよ、この2つの立場の両方のニーズの片方だけを見て、もう一方の側面を見落としている。F.E.A.R.製品の個々のシステムでこそもっともよく実現しうる〈ゲームコンセプト〉と、F.E.A.R.の個々のシステムではなかなか実現しにくい〈ゲームコンセプト〉の両方が存在し、それらは場合によって使い分けなければならないという、ただそれだけのことを私は主張している。鏡氏が目指すような箱庭型TRPGの運用などは、「シナリオクラフト」などの発想が登場するまで、F.E.A.R.のシーン制システムでは実現しにくい(少なくとも、TRPGの初心者がそれを基本ルールブックから想定することが比較的難しい)遊び方だった。
*3:あるゲームコンセプトを満たすために選び取られる、〈シナリオ〉の記述方法のこと。マップ・データ・進行管理・背景設定などによって成るが、〈ゲームマスター〉の腕によっては記述しなくても構わなかったり、あるいは現場でセッションをつまらなくさせないために必要だったりする、可変的なものである。
*4:というのは、「批判」とは決して「中傷」のことではないからである。私は真摯な問題意識に基づいて何かを論じている人の人格を否定するようなことをもっとも忌み嫌う。なぜならそれは、営々と知を積み重ねていくという人間の基本的な営みを突き崩す、もっとも忌むべき行いだからである。