GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

3者の誰も欠けることがない〈ゲームコンセプト〉尊重の精神─鏡さんへの返答として

 鏡さんに対する考察をさせていただいたところ、昨日トラックバックの返信をいただいたのですが、今回ばかりはちょっと驚いてしまいました。

■鏡2008.03.10「自由は古く、管理が新しい」
http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/03/post_128.html

 鏡さんがそこまで明確に「進行管理」系のゲームデザインを“否定”されてしまうと、*1「ちょっとまって、鏡さんは古今東西あらゆるゲームシステムを公正に批評する基準を作る価値を認めてないの?」と思ってしまいます。

 結論から言うと、私はゲームマスター〈システム選択能力〉を尊ぶ状況が保証されている限りは、鏡さんの「自由/管理」の区別はナンセンスな、意味のない議論だといわざるを得ません。
 そもそも上手なゲームマスター〈システム選択能力〉に秀でています。そのため、自分のやりたいことが阻まれるようなシステムを初めから選びません。
 そのような前提が認められていない議論──つまりイマドキのシステムを選び取っている、新しいタイプの〈ゲームマスター〉には〈システム選択能力〉が望み得ない、というところから鏡さんの〈運用〉に関する議論は出発しているように見えます。*2

 もっとも重要なのは、この一段落です。

「自由」か「進行管理」か、どちらを選ぶのももちろん自由です。むしろ「ゲームコンセプト」の名の下に「進行管理」を強制することこそ、避けられねばならないでしょう。

 違います。そもそも「進行管理を強制する」主体は実は存在しません。むしろシステムデザイナーは、デザインコンセプトの旗本に、そういうものをガンガン提供するべきです。公式リプレイとか公式シナリオとか、ガンガン出して初心者も上級者もサポートしていい。
 しかし一方で、私たちがそうした親切なシステムサポートに過剰に依存することなく、独自の〈運用〉スタイルを現場レベルで構築していれば、独自の面白さを追求できなくなるようなことはありません。

 「システムデザインレベルのゲームコンセプトの提案」は、必ずしも鏡さんが心配するような「ゲームコンセプトの現場への強要」を意味しません。なぜならそこには常に〈システム選択〉という重要な作業がはさまれているからです。
 そして、そのようなかたちで(鏡さんの前提とはかなり異なるプロセスによって)〈システム選択〉の自由が保障されるためには〈システム選択能力〉が現場で十分に成熟している必要があります。
 鏡さんは、「進行管理」系が含まれたTRPGシステムを選び取っている人々に、〈システム選択能力〉がないかのような物言いになってしまっています。しかしそうではない。イマドキのゲーマーのうち、少なくない数の人たちが、“それでしか果たされない”ゲームコンセプトを求めて、自らそのシステムを選んでいる。〈システム選択能力〉へのまなざしはちゃんとあるし、それをさらに各々の努力で成長させることは可能なのです。

 鏡さんが今後最優先すべきは〈システム〉批判でも〈運用〉批判でもなく、「自分の〈運用〉スタイルが確実に面白く、魅力的に思わせられるような明晰なマスター論の確立」、だと思います。もし公平に〈システム選択〉を行う価値を認めず、他人の〈運用〉を否定する不毛な作業に神経をすり減らすなら、それは鏡さんにとっても他のTRPGプレーヤーにとってもあまり建設的ではありませんから、やめた方がいいと提案させていただきます。

 私が言いたいことはすでに尽きたのですが、このことを〈ゲームコンセプト〉という考え方で詳しく説明したものを読まれたい方は、以下の段落以降も読みすすめていただければ幸いです。
 最後に多摩豊氏の貴重なゲームデザイン論も引用していますから、その文章を読まれることもあわせておすすめいたします。

私は鏡さんのような考え方が、〈システム選択〉のための〈システム批評〉にバイアスをかけてしまうことを危惧している

 思うに、ggincさんの理論の根底にあるのは「ゲームコンセプトの尊重」だろうと考えます。私の方は「遊びたいように遊ばせろ」で、「遊ぶ人間」と「遊ぶための題材」だけが重要。

 このあたりから始めましょう。
 まず確認しておきたいのは、私も、鏡さんと同じく〈参加者〉〈共同ゲームデザイン〉が重要だと思っていることです。
 そして、〈ゲームマスター〉〈プレーヤー〉と共同でゲームデザインをしていくことで楽しみが形成されていくことも、おそらく鏡さんと立場は同じでしょう。
 しかし、それよりも前の段階をどう捉えるかが、私と鏡さんとで異なるのです。
 もしこのまま鏡さんの「自由な遊び方」を受け入れると、ゲームマスターは「上達の基準」を持つことが不可能になるし、そもそも「自由な遊び方」の名のもとに、ゲームコンセプトがよく考え抜かれていない、“単に筋の悪いセッション”すら正当化される恐れがあるのです。
 それは、TRPGにおいて〈学術研究〉だけでなく〈ゲーム批評〉をもしている私にとって、どうしても首肯するわけにはいきません。
〈ゲームコンセプト〉を把握した上で、そのコンセプトから外れたカタチでシステムを自由に使うなら、別に構わないのです(私はそれを〈アクロバティックな運用〉と呼びます)。けれど、〈ゲームコンセプト〉の中には、「進行管理」系のゲームデザインもまた、ある種の〈ゲーム〉を効果的に提供するために重要な要素を占めている場合があります。
 鏡さんの〈運用〉に関する議論は、〈運用〉について論じながら、暗にそういった「進行管理系」を含みこんだシステムの〈ゲームコンセプト〉を見誤るような理屈で構成されています。
 そのような観点からシステム批評を行うことは、控えめに見ても、34年の間に蓄積された古今東西TRPGシステムを客観的に評価するにあたり、とても不都合なものです。

鏡氏を反駁する議論の前提─マスターリングプロセス

 ところで私は現在、〈イマジナリィ・ボード〉という考えを中心とした、TRPGの一般モデルについて考えを重ねています。
 そしてその主役は〈システムデザイナー〉ではなく、現場のゲームデザインを主宰する〈ゲームマスター〉であるというのが、基本的な理念です。
 しかし同時に、〈ゲームマスター〉は、プレーヤーの遊びたいゲームのニーズに忠実でなくてはなりません。「自由に遊ぶ」といっても、それがゲームを提供するプレーヤーの口にあわなければ、せっかくのゲームマスターの技量が不当に評価されてしまうかもしれません。FPSを遊びたい人に恋愛シミュレーションゲームを手渡しても、いいことなんかなんにもないわけです。
 どんなゲームを渡せば一番喜ばれるか。それを考えることも、ゲームデザイナーの能力です。だから、現場のゲームデザイナーである〈ゲームマスター〉にも、〈ゲームコンセプト〉を考慮する力が必要なのです。*3
 そういうわけで、〈マスターリング〉──私が何度も言っている〈運用〉と同じです──は、以下のようなプロセスで営まれると考えられます。

■高橋2008「マスターリングプロセス」(現段階)

  1. 〈セッションコンセプトの決定〉プロセス
    1. 〈ニーズの調査〉
    2. 〈システム評価〉
    3. 〈システム選択〉
    4. 〈シナリオ作成〉
  2. 〈セッションハンドリング〉プロセス
    1. 〈参加者〉の招集【1/7,以下〈ゲーム〉の7要素の登場ごとにカウント】
      1. 〈プレーヤー〉の招集
      2. 〈ゲームマスター〉のゲーム開始宣言
    2. 〈イマジナリィ・ボード〉の提示
      1. 採用する〈システム〉の提示
      2. 採用する〈背景世界〉の提示(When, Where)
      3. 採用する〈ゲームトークン〉の提示(Who)【2/7】
      4. 採用する〈管理資源〉の提示【3/7】
    3. 〈シナリオ〉の駆動
      1. 〈状況〉の提示(What, How, Why)
        1. 〈目標〉の提示【4/7】
        2. 〈障害〉の提示 【5/7】
        3. 〈制限/情報〉の提示 【6/7】
      2. 〈プレーヤー〉による〈意志決定〉 【7/7(A)】
      3. 〈ゲームマスター〉による〈裁定〉 【7/7(B)】
      4. 〈裁定〉にもとづいた〈イマジナリィ・ボード〉の内容変更,そして「2.3.1〈状況〉提示」に戻る【7/7(C)】
    4. セッション終了後の〈イマジナリィ・ボード〉の変更記録とその保持

 私が『ロールプレイング・ゲームの批評用語』でまとめた〈ゲーム〉の7要素が、〈セッション〉の現場に次々と召喚され、遊ばれる様子が、俯瞰できるようになりました。
 まあ、しかしこの表も、元を辿ればF.E.A.R.が「プリプレイ」「メインプレイ」「アフタープレイ」と整理していたり*4『Aの魔法陣』でまとめられた簡単なゲームの流れ*5で書いていたりするものとほとんど同じです。
 もっとも、大きな違いはあります。私が上に述べた〈マスターリングプロセス〉は、〈システム選択〉より前にある、大まかな「進行管理」の指針であることが非常に重要なのです。実際のところはゲームマスターが個別システムを選び取るまで、システムの「進行管理」系ゲームデザインの制約を一切受けないのです。
 もし、鏡さんのように「進行管理」系のシステムデザインは、自分個人の運用においては一切不要、と判断するなら(それ自体は何も悪いことではない)、そういうシステムデザインが含まれていなくてもゲームコンセプトが十分に味わえるシステムを選択すればいいのです。
 しかし一方で、鏡さんとは別の判断基準で、F.E.A.R.のシーン制TRPGや『Aの魔法陣』、『サタスペRemix+』や『月夜埜綺譚』といった、ゲームの進行自体がある種の方向に設計されたシステムを選び取る際は、「それを選べばプレーヤーの要望にうまくこたえることができる」とゲームマスターが確信できるならば、ガンガンやるべきなのです。
 そして、鏡さんのような〈運用〉の仕方も、進行管理系があるTRPGシステムを選んだ上での〈運用〉も、〈ニーズ想定〉〈システム評価〉〈システム選択〉以上3つのプロセスに基づいて、ゲームマスターが自らのゲームデザイン能力を信じて柔軟に選び取れるなら、別になんでもいいんです。むしろ、そのうちのいずれかに凝り固まってしまうことこそが、「達人ゲームマスター」への道を阻んでしまう、最たるものではないでしょうか。そのような考え方では、個別のシステムには習熟できても、TRPGシステムすべてを取り扱ってプレーヤーを楽しませられるゲームマスターは生まれてきません。
 D&Dのファイターみたいに、全ての武器に習熟する必要はありません。それはさすがにマッチョすぎます。*6けれど、いざとなればどんな武器にでも対応でき、どんな敵(ゲームのニーズ)も打ち倒せるようなボードゲームデザイナーが、ゲーマーに尊敬されるのは当然のことでしょう。今年3月4日になくなられたGary Gygaxは、まさに「グレイホーク」という己の〈イマジナリィ・ボード〉を駆使して、多くのゲーマーを魅了してきたゲームデザイナー(グランドマスター)でした。だからこそ、多くのTRPGゲーマーが彼の死を悼んだのです。TRPGの達人の一つの目標は、「ゲームデザイナーとしての尊敬を勝ちうるような一人の人間たりうること」だと、TRPGの父は身をもって証明してくれました。*7
 私が「ゲームマスターが主役」と再三言っているのは、特定のシステムしか認めないゲームマスターにも、〈運用〉という発想のもと、多彩なゲームデザイン技法に触れて欲しいからです。
 TRPGコラムニストの馬場秀和さんが『マスターリング講座』の第一章に「システム選択」をおいたことは、このような現在の私の考えと密接なかかわりがあります。馬場秀和さんは、はじめから「システムデザイン」から独立した「自由」な〈運用〉を──それこそ、その後に登場したF.E.A.R.系のゲームコンセプトをも、ゲームマスター独自の判断基準で選び取れるような〈システム選択〉の基本的なアイディアを、12年前に論じていたわけです。たとえば〈キャラクターのロールプレイ〉に挑戦したいプレーヤーや、進行管理系についてあれこれ悩む手間を減らして、そのぶんの労力をストーリー的な〈葛藤〉〈アカウンタビリティ〉〈結果に対する責任〉の設計に置きたいと考えるプレイグループにとっては、進行管理系のゲームデザインは不利にはならず、むしろ有利に働くでしょう。
 それこそ、プレイグループが「今、そのとき」に選び取る〈ゲームコンセプト〉のもとに、TRPGシステムは選択されなければならないのです。
 そしてその最終的な責任は、常に〈ゲームマスター〉に委ねられているのです。
 

なぜ鏡氏のTRPG批評を私は反駁するのか? それは、「進行管理」系TRPGシステムで「面白いゲーム」を提供する人が、現に存在するから。

 さて、私は、進行管理系がしっかりしたF.E.A.R.のシーン制TRPGシステムで、〈ゲームマスター〉として、〈プレーヤー〉としての“自由”をしっかり獲得している人々を知っています。
 「進行管理」系のゲームデザインが施されたTRPGシステムも、ゲームコンセプトの範囲内で適切に〈運用〉すれば、鏡さんが「昔からありえた遊び方」に宿っていた「自由」が失われることはありません。*8参加者全員の合意の下で〈システム選択〉ができたと断言できる限りにおいて、「自由」はなくならないのです。
 なんでこんなにあからさまに鏡さんの意見に反駁しているのかといいますと、その理由は簡単です。私は進行管理系のゲームデザインがもっとも強力に推し進められた、21世紀以降のF.E.A.R.社や冒険企画局などの国産TRPGシステムを、それこそ「自由」に〈運用〉している達人ゲームマスター、達人プレーヤーがいるということ、それをこの目で確認しているからです。
 彼らF.E.A.R.TRPGシステムを面白く〈運用〉できる人々の遊び方を、私は「不自由」な遊び方とは思いません。F.E.A.R.社のTRPGシステムを遊んでいるユーザーすべてが適切な運用をしているとは私は断言しませんし、するつもりもありませんが、少なくとも、個々のシステムのゲームコンセプトをよく理解した上で、その範囲で〈ゲームデザイン〉の技量を磨き、優れた運用をしている人は現に、います。そして私は、そんな彼らの高い技量を、一人のまっとうなTRPG批評を志すものとして擁護するために、鏡さんの「自由な遊び方」の欠陥を見逃すことができないわけです。

 なお、私はこのことを、「ほめの理屈」という言葉で、何度か主張しています。2007年09月13日の記事を、引用させてください。我ながら、よくもまあここまで一貫しているものだと感心します(笑)。

 いくら「よいシステムデザイン」が増えたところで、その使い方をわからずに腐らせてしまうような人々が「購買者」の多くを占めるのであれば、RPGというゲームの“何が”面白いのかを適切に説明できる人は、なかなか増えてはいかないでしょう。
 つまり、「よいシステム」を「よいシステム」として論じ、それによって「よりよいシステム」が市場で支持を得るような状況を作るためには、システムデザインそのもののTIPSとはまた異なる理屈が必要になってきます。これを私は“ほめの理屈”と取り合えず呼んでいるわけです。
 ところでこの“ほめの理屈”は、ゲームマスターにとって必要な技能である「システム選択」と密接なかかわりを持っています。私は“ほめの理屈”を磨き、よりよいシステムを購入するための明確な判断基準を持つことが、ゲームマスターとしての「上達」の基準のひとつであると考えているわけですね。
(以上、強調は引用時に挿入)

 そして、このような問題意識を押さえてもらった上で、「進行管理」がシステムデザインレベルで整ったTRPGシステムについて、もう一度整理しましょう。
 前回の記事の繰り返しになりますが、「進行管理」系が発達したTRPGを受容する対象ユーザーは、

  1. TRPGシステムを適切に運用する技量に劣る初心者ゲーマー。*9
  2. 進行管理系のギミックが整ったTRPGシステムで可能な〈運用〉を必要とする上級ゲーマー。

 以上2種類の“両方”が考えられます。
 どちらか一方だけ、なんてことは絶対にありません。

 鏡さんの「自由な遊び方」の理念は非常にまっとうなものですが、その後の議論の推し進め方は、後者の「進行管理系」ゲームデザインでしか遊べないゲームコンセプトを正しく把握しているゲーマーには、絶対に認められない議論になってしまっている。だから、反発を招いているのです。方向性は正しいのですが、途中の論の進め方に、〈システム選択能力〉の成長をはばむ、致命的な欠陥があるのです。 私は、鏡さんの「ゲームマスターもプレーヤーも好きに遊べるようなシステムがよい」という考えには賛成です(それはぜひ覚えておいてください)。しかし、そのような理念を実現するために、ゲームマスターの能力としてもっとも重要な〈システム選択能力〉の限界を押し下げてはなりませんし、そんなゲームデザイン批評を安易に導入してはならないと考えます。

多摩豊『コンピュータゲームデザイン教本』に学ぶゲームデザイン

 ところで、私が鏡氏に対する批判としてもっとも根っこにあるのが、最初に鏡さんに指摘していただいたとおり、「〈ゲームコンセプト〉をどれだけ重視しているか」ということにあります。TRPGに限らず、どんなボードゲームも、さまざまな〈ゲームコンセプト〉が、またそれに先行するゲーマーの隠れた〈ニーズ〉について考えられるところから始まると私は思っているのです。
 そして、そのような〈コンセプトデザイン〉を軽視して、何が本当に面白いのかについて考え抜かれていないTRPGシステムやTRPGマスタリングは、──「ゲームデザイン」という〈表現技法〉全体を取り扱う批評理論がもし樹立できたとするならば──もっとも素朴な、まぐれあたりのものになってしまうと批評されるに違いありません。〈共同ゲームデザイン〉は、確かに最終的には〈セッション〉の現場で見出され完成するものですが、それは〈システムデザイン〉から〈マスターリング〉へと到る、デザインコンセプトの緊密なバトンリレーによってようやく実現される最後の段階であることを忘れてはならないでしょう(その上で、〈マスターリング〉〈プレーヤー〉を重視した鏡さんのような個別の〈運用〉スタイルは、大々的に認められるべきです)。
 昔はそれでよかったかもしれませんが、TRPGに対するニーズが、全てのゲームを遊びつくせないくらい多様化してしまった今、いまさらそのような、〈ゲームコンセプト〉の発展史を検証する態度を一切持たないような遊び方“以外”を否定するのは、端的に言って効率が悪いものと言えるでしょう。個人的には、鏡さんのTRPG運用(のコンセプト)は好みなのですが、私はそれ以外の〈運用〉が鏡さんの運用に較べて劣っているとはまったく思いませんし、批評的立場から言っても認められません。

 私の立場をさらに整理し、明確にしておきましょう。
 鏡さんが現場で実現されるべきと考えられるゲームコンセプトからは〈システムデザイナー〉の努力(特に、リプレイや公式シナリオ、進行管理系などの工夫)が除外されています。
 確かに、ゲームマスターの意向によっては、鏡さんの否定する要素がハウスルールとして外されてもいいでしょうし、それによって選ばれないシステムも出てくるでしょう。
 しかし、〈共同ゲームデザイン〉に参加するのが、必ず以下の3者全員でなければならないことには、変わりありません。

それは、

 です。
 私がTRPGにおいて「本質的」と言える主張があるとするならば、この3者のどれをも尊重することは、まさにTRPGにおける「本質」であると、自信を持って主張します。

 この3者の〈ゲームデザイン〉に対する思想が反映されないTRPGセッションは、必ず偏ったものになります。
 鏡さんは、〈システムデザイナー〉の思想を重んじるあまり、TRPGセッションをつまらなくさせる〈ゲームマスター〉〈プレーヤー〉を批判しています。それは正しい。
 けれどだからといって、〈システムデザイナー〉が緻密な設計によって考えた(であろう)〈ゲームコンセプト〉を軽視して〈共同ゲームデザイン〉ができると考えるのは、〈ゲームデザイン〉という営みそのものに対する認識が甘いといわざるを得ません。
 確かに「進行管理」の重要性を重んじた21世紀以降の国内TRPGシステム産業は、これまでなら〈ゲームマスター〉が“自由”に考える領分であった領域を、一見侵害しつつあるように見えます。しかし、実はそれも、〈ゲームマスター〉という役割遂行の最初の部分──〈ニーズの想定〉〈システム評価〉〈システム選択〉の3つさえうまくできるならば、何の障害にもなりません実際、イマドキのTRPG製品をブンブン振り回している人のうち、このことができている〈ゲームマスター〉〈プレーヤー〉が、少なからず居るのだということを、私は擁護したいと思います。*10

 最後に、ゲームデザイナーであり、日本でおそらくもっとも誇れるゲーム批評家の一人であろう故・多摩豊氏が、コンピュータゲームデザインについて述べた以下の文言を紹介して終わりましょう。
 私はこの話が、〈システムデザイナー〉だけでなく、〈ゲームマスター〉についてもあてはまるものと考えています。私はこの多摩さんの思想にもとづいて、あらゆるTRPGシステムデザイン、そしてなによりも「ゲームマスター自身の腕前」が評価されるべきだと考えるものです。
 鏡さんだけでなく、TRPGについて論じ続けている人全ての人に対して、18年前に書かれたこの多摩豊さんの文章をどう解釈するべきか。どうぞご検討くださればと思います。
 私は、TRPG文化における、システムに依存しない「上達」の基準は、このような考え方からこそ始まるのではないでしょうか。

 ところで、ゲームデザイン論という立場から見た場合、対象となるゲームのコンセプトを理解することはふたつの意味で重要になってくる。
 まずひとつめの意味は、コンセプト自体の評価ができるということである。
 本当のところ、デザインコンセプト自体には是非を論じる余地はない。どういった層を対象としたゲームを作ろうと、どのような作り方をしようと、それはプロデューサー(デザイナー)の嗜好の問題で、いい悪いをとやかくいう筋合いのものではないのである。
 ただ、コンセプトのたてかた自体に問題がある場合、それは評論の対象になりうるかもしれない。
 たとえば、〈一般的なコンピュータゲーム愛好家〉を対象とした〈RPG〉を〈複雑なシステムを持つロールプレイング・ゲームの完璧なシミュレーションを目指して〉作るというコンセプトは、若干問題があるような気がする。
 逆に〈上級のゲーマー〉を対象にした〈シミュレーション・ウォーゲーム〉が、簡単でわかりやすいシステム〉で作られても評価すべきかどうかはわからない。
 このようなコンセプトを即座に悪いとすることはできないが、コンセプトのたてかただけから見ても評価し難いというようなケースもありうるわけである。
 もちろん、コンセプトに対する〈好き嫌い〉の評価はあるだろう。ただし、これはあくまでも〈好き嫌い〉の問題であってデザイン論とは関係ない。
 また、対象となるゲームのコンセプトを把握しないデザイン論も無意味である。
 たとえば〈一般的コンピュータゲームプレイヤー〉向きに作られたゲームを「上級者には向いていない」などといっても始まらないし、〈RPGの愛好家〉向けのゲームを「マニアック過ぎる」というのも無意味である。デザインを論じる際には、少なくともそのゲームのコンセプトを理解する姿勢がなければならない。
 コンセプトを把握することの第二の意味は、完成された作品との比較である。これはデザイン論の根本を形成する要素であり、コンピュータゲームを評価する上で重要なポイントでもある。
 対象とするコンピュータゲームが良いデザインであるかどうかは、それがコンセプトにそった作り方をしているかどうかによって決まってくる。自分が好きか嫌いか、楽しめたかどうかではなくて、そのゲームがコンセプト通りに作り上げられていれば、それは(少なくともデザインという視点から見た限り)〈よいデザインのコンピュータゲーム〉なのである。
(多摩1990: 147-9)

コンピュータゲームデザイン教本 (Login Books)

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*1:私は鏡さんの進行管理系ゲームデザインに対する評価を、もう少し穏やかなものだと思っていました。しかしさすがに「本来あった『自由』を否定して、後から作られたのが『進行管理」なのです。』と断言されてしまうと、こちらもそう受け取った方が適切だと理解しました。私はシステム批評だけでなく、マスターリングの批評も重んじるという立場上、このような〈システム選択〉の基準を制約する不自由な立論を認めるわけにはいかないのです。

*2:逆に、〈システムデザイン〉にどうにかしてほしい、という話であれば、鏡さんの議論はOKでしょう。ですが、システムデザインに進行管理を依存する考え方も、進行管理をシステムデザインから丹念に取り除く考え方も、「道具としてその時一番適切なシステム」を選び取るのがゲームマスターのあるべき姿だという基本的な考え方から見れば、どちらも正しい立論とは言えません。鏡さんは、自分が批判している当のシステム礼賛者と、実は同じ規範意識でものをみてしまっている可能性があります。つまり、“特定傾向のシステムコンセプトを全肯定する/全否定する”というニ極論に立っているという点については、個別システム信者となんら変わりないのです。(だからこそ、個別システム信者に鏡さんを批判する資格はないわけですが、と一応フォロー入れておきましょう)

*3:例を挙げましょう。ギターのある音色が欲しいのに、エフェクタの仕組みがわからなくてもいいということはありません。私が言っているのは、そういう「道具を巧く使う上で必要な最低限の道具理解」であって、「道具にいいように使われること」ではありません。鏡さんは、ギターを自由に使うことを重視するあまり、エフェクタの仕組みについて押さえておくことを放棄してしまっているような極論に陥っているように見えます。それでは本当に自由なゲームデザインを楽しむことはできません。システムデザインを学び、そして同時にそれを乗り越えてプレーヤーと〈セッション〉していくこと。これが〈段階的な運用〉だと思います。私が鏡さんの運用論を〈理想主義的な運用〉と呼んでいるのは、どうも鏡さんが、システムデザイナーとゲームマスター“二人三脚”を拒絶しているように思えるからです。どっちが欠けても、いいゲームは出来ないと思うんですよ。鏡さんは自分の〈運用〉を自らの理屈で1個に固定してしまうことで、特定のシステムを「遊べない」と思い込んでいる。けれど、本当は〈運用〉にはいくつもの種類があって、それをプレーヤーのニーズにあわせて選び取れる能力を養う方向での「上達」を認めた方がよいと思うのです。

*4:たとえば『異界戦記カオスフレア』p140-51、『トーキョーN◎VA The Detonation』p92-106を参照

*5:書籍版は23ページ左上にまとまっている

*6:このでみさんの「TRPGマッチョ」の話は、TRPGのベテランが陥りがちな、「アドバイスとして役に立たない経験論」を打ち破るものとしてとても興味深い考察です。これと合わせて、回転翼さんの過去のコラム『個別のゲーム感覚を破れ─ゲーム感覚をうがつもの』(2005)の問題意識も合わせて参照すると、私が経験論について懐疑的であり続けている理由の一端を理解していただけるかもしれません。マッチョな人もそうでない人も、両方TRPG文化に参与できる、そんな議論をこそ守り育てたいと思うのですよ。

*7:もちろん、その他の方法もあるでしょう。しかし、一つの模範たりうることは間違いのないところです。

*8:実際に今「進行管理」系を含みこんだTRPGシステムを遊んでいる人々の中には、確かに鏡さんが危惧するような「不自由な遊び方」しか知らない人々もいるかもしれません。しかし、それは多くの、海外TRPGシステムも含めたTRPGシステムを経験すれば、すぐに解消される問題であり、システム批評の理由として採用するわけにはいかないと私は考えています。

*9:ただし、この初心者のためにばかり「進行管理」系のシステムデザインを設計してばかりいると、多様なニーズに答えられなくなる場合がある。もちろん、90年代まではむしろ「TRPGの遊び方は現場で指導してもらうものだ」という、実際にはなかなか実現し難い状況をもとにしたシステムデザインが主流だったのですが、もし将棋や囲碁などのように、教育機関やプレイグループが成熟していけば、必ずしも“すべてのTRPGシステムに進行管理系のシステムが含みこまれているべきだ”という話にはならなくなるでしょう。100年後にルールブックだけ発掘された時も遊べる記述になっているかどうかがこの類のシステムの肝ですが、TRPGの遊び方を口伝で、きちんとした基礎的訓練によって遊べるような制度・人材が100年後に揃っていたとするならば、「読むだけで回るシステム」の需要は相対的に少なくなり、〈システムポリシー〉と〈メカニズム〉と〈ディベロップメント〉の3要素が、その世代のゲームデザイナーが評価されるメインの能力となるでしょう。そのときも〈ルールブックの編纂〉のよさや〈プロの運用サポート〉などは必要となるでしょうが、それ以上に現場での〈運用〉の方が商業価値を持っており、システムデザイナーにそれを期待する必要はなくなっているのではないかと思います。〈運用〉に商業価値が出るということはつまり、システムサポート等をやるのがプロのゲームマスターの役割へとシフトしていくということです。それはおそらく現代のTRPGデザイナーで言えば、朱鷺田祐介氏のような、ゲームコンセプトを独自に設計することに関しては優れているが、その他の〈ディベロップメント〉や〈システムサポート〉等のサービスについてはなかなか手が回らないタイプのデザイナーが、有能なゲームマスター・チームと協力し、二人三脚でゲームを販売していくような、そんな販売スタイルが主流になっていくのではないかと私は想像しています。この場合、ゲームマスターはいわば「営業担当」の役割を果たすことになるでしょう。デザイナーの得意分野とゲームマスターの得意分野をどう補い合って〈イマジナリィ・ボード〉を売っていくか。まあそういう役割分担の商業スタイルが将来的に成立しうるのじゃないかと思います、〈システムデザイン〉〈運用〉の両方の商業的価値が認められた暁には。今はTRPGのシステムデザイナーが、ルールブックの中で「営業」もやっている状態です。国内のアマチュアゲーマーが、協力してその手間を減らせればよいのですが、少しずつ議論を積み重ねていかないと、なかなか大変ですよね。

*10:それだけに、「D&Dしか遊ばない」「SNEしか遊ばない」「F.E.A.R.しか遊ばない」「冒険企画局しか遊ばない」「BRPしか遊ばない」といった言説が、よく考え抜かれないままにまかりとおってしまう今のTRPGシステム産業は、非常に残念です。いくらシステムが売れても、日本のゲームマスター〈システム選択能力〉、特に〈システム評価〉の部分の無知蒙昧やいがみ合いが取り除かれない限りは、TRPGデザイナーがウハウハ儲かるような未来は当分やってこないでしょう。みんな、D&DでもSNEでもF.E.A.R.でもWoDでも骨董品TRPGでも、好きに選べるのが一番TRPGを楽しんでいることになるんですよ。あなたはあなた自身のゲームデザインをしてもいいんですよ? それこそ“自由”に。/というわけで、みんな、新和D&Dの黒本をいきなり読んで、ウェポンマスタリーでイヒイヒやってる場合じゃないですよ。まずは赤箱でちゃんとファイターの役割を果たして、どんな武器でも有効だと考えられるようになってからでも遅くはないんです。(もちろん、〈運用〉に関する比喩です。念のため。しかしこのネタ、わかる人いるのかなあ。)