〈ゲーム性〉という言葉はできれば使わないほうが良い
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どうも、高橋志臣です。
本格的に何かエントリを上げるには色々時間が足りなさ過ぎるのですが(CoCとか、ウォハンとか、Shadowrunとか、T&Tとか、D&Dとか、やりたいことがいっぱいあるんですが)、取り急ぎ思ったことだけ。
id:acceleratorさんがまとめられている「きまぐれTRPGニュース」の「ゲームって何?ゲームの定義論〜TRPGはゲームか?〜」を読んで、「今後〈ゲーム性〉という言葉はできれば使わない方がよいかもしれない」と思いました。
その理由は、国内ゲーム研究者の井上明人さんが、すでに「はてなキーワード─ゲーム性」でまとめている通りのことを、私も考えているからです。
以下のリンク先をごらんください。
ゲーム性
〈ゲーム性〉のリンク先と、だいぶ違う話(しかもより「ルドロジー」の主流に拠った発言)をしていることがわかるはずです。
私が〈ゲーム性〉をあえて『ロールプレイング・ゲームの批評用語』に入れているのは、〈ロールプレイング・ゲーム〉における〈意志決定〉と〈目標の多層構造〉を重要視した馬場秀和が、しばしば〈ゲーム性〉という言葉でその2つの“ゲームデザイン上の仕掛け”を指し示したことに由来するものです。そして、このことは私自身が「ゲーム性」を自明のものとして使っていることを意味するものではありません。
もちろん私は、〈ゲーム性〉の方をご覧になればわかるように、〈ゲーム性〉あるいは〈ゲーム〉というタームについては慎重に扱っていますし、またそのような立場に経っていることから、玄兎さんが続けている試みについても、私は基本的に好意的です。
ですが、研究する対象としての「ゲーム性」を定義するためには、TRPGだけでなく、広くさまざまな「ゲーム」の議論を追っていく必要があります。
そして、ゲームの定義論をやっている人が本当に目的もなく漫然と「遊び」ないし「ゲーム」を定義しているのかといえば、まったくそんなことはないと言うことができます。
今思いつくだけでも、
- ゲオルグ・ジンメル
- ジョージ・ハーバート・ミード
- ヨハン・ホイジンガ
- ロジェ・カイヨワ
- ジャン・ピアジェ
- フォン・ノイマン*1
- ノーバート・ウィーナー*2
- ミハイ・チクセントミハイ
- レフ・ヴィゴツキー
- アヴァドン&サットンスミス
- バーナード・スーツ
- アーヴィング・ゴッフマン
- リチャード・D.デューク
- クリス・クロフォード
- グレッグ・コスティキャン
- デイヴィッド・ケリー
- ゴンザロ・フラスカ
- ジェスパー・ジュール
- ラフ・コスター
- エリック・ジマーマン&サレン・ケイト
- 田尻智
- 多摩豊
- 山田敏
- ざるの会
といった人々が、ゲームの定義に触れながら、長年の間、多くの人々の知的刺激を引き出しうるような論文を提出していることは、「ゲームの定義論なんて役に立たない」と主張する人々に対する反証としては、十分すぎるほどだと私は思っています。*3
上に触れた井上明人氏は、また「ゲームの定義論」についてもまとめていますので、どうぞご覧下さい。さらに、ビデオゲームの「ゲーム性」に関する言説分析については、氏による以下のような論文もあります。
■井上明人,2003「ビデオゲームの議論における『ゲーム性』という言葉をめぐって─雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る−」
http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.html
私たちアナログゲーマーも、たとえばこのくらいの慎重さでゲームの定義論を取り扱ったほうが、先に進みやすいのかもしれません。