GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

RPGにおける〈プレイング〉の内実(1)

 TRPGのプレイング・テクニックについて考えた文章です。
 “うまいプレイ”とは何かを論じていきます。

「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」

 私は、TRPGセッションにおける“うまいプレイ”とは、ひとまず以下のようなものだと考えています。

■高橋2007「TRPGセッションにおける〈プレイング〉の課題」

  1. ゲームマスターから与えられた目標にできるだけ近づくこと」。(課題1)
  2. 「背景世界およびキャラクターの役割や性格、他PCとの関係などをできるだけ適切に解釈すること。(課題2)
  3. 1と2、両方の課題をできるだけ無矛盾に解決するようにプレイすること。

 この話をもう少しかみくだくため、前者の「課題1」を「ゲーム的目標」(あるいは単に「目標」)、後者の「課題2」を「文芸的解釈」(あるいは単に「解釈」)と呼ぶことにして、この2つの関係について論じてみます。

 TRPGでは、この「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」をうまく整合させることのうち、前者の「目標」だけに偏ったり、後者の「解釈」だけに偏ったりするプレイを、しばしば“へたなプレイ”と呼びます。
 「目標」を追うだけになってしまうと、その背景世界ならではの設定資料や“らしさ”をうまく活かしていないプレイになってしまい、TRPGが豊富な設定資料で用意している〈ゲーム〉本来の楽しみを損ないます。
 かといって、「解釈」を目指すだけだと、自分の心に思い描いたキャラクターや背景世界を説明するのに夢中になりすぎ、システムやゲームマスターが提供する〈ゲーム〉本来の楽しみを奪ってしまいます。
 「目標」だけ目指しても、「解釈」だけ目指しても、TRPGで「よいプレイ」を行うことができません。
 このような二者択一を行うのではなく、この両方をバランスよく成立させること。これこそ、TRPGにおいて「よいプレイ」だとするのが、私の一貫した立場です。(ここに「表現」という目標が含まれないことに、注意してください。「表現」については、後で〈キャラクタープレイ〉をめぐる読解の問題として取り扱います。)
 さて、「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」の両方のバランスを取る、ということは、それぞれにゲーム的な課題がなければなりません。どちらかが簡単すぎてしまうと、プレーヤーとして「ああっどうすりゃいいんだっ」と思い悩むこともありません。両方、じゅうぶんに難しい課題として突きつけられているのは当たり前で、それらをバランスさせるのはさらに難しい。これくらいの方が、ゲームとして面白いはずです。
 ゲームとして十分に複雑で、プレーヤーにとってじゅうぶんに考える価値が与えられているとき、私はそこに〈意志決定〉がある、と言います。
 〈意志決定〉があるとは、そこに〈葛藤〉*1があり、〈結果に対する責任〉*2があり、〈アカウンタビリティ〉*3がある、ということです。
 ここで気をつけていただきたいのは、この〈意志決定〉が、「目標」にも、「解釈」にも、両方存在するということです。「目標」だけに悩んでも、「解釈」だけを考えても、TRPGは面白いゲームにはなりにくいのです。
 TRPGにおける〈ゲーム〉とは、以下の表にまとめられるような〈意志決定〉によって成立しているということが言えます。

 D&DやT&Tなどの〈第一世代RPG〉は、「ゲーム的目標」に比重が置かれており、「文芸的解釈」の方の整備がすすんでいませんでした。
 しかし、『ルーンクエスト』や『トラベラー』、『シャドウラン』といった背景世界の豊富なTRPGや、FEAR社を代表とする「ハンドアウト」の解釈をゲームの中心的な面白さに据えたゲームは、より「文芸的解釈」を含みこんだゲームとして、TRPGゲーマーに楽しまれてきました。
 (ここで私が、第二世代RPGの「背景世界」と、第三世代RPGに代表される「ハンドアウト」を同じ地平においていることに注意してください。プレーヤーが「文芸的解釈」をかけるべき対象として、この2つは、一見異なるようにみえて、本質的にはほとんど同じ機能を持ちます。さらに「ハンドアウト」は、プレーヤー個人に「個別の目標」を与えられるというオプションをもっていることにも注意してください。目標を同じにすれば、それは単に古くからの「チーム目標」と変わりありません。)

 というわけで、私はこの「目標」と「解釈」のバランスを目指すTRPGが、概ねどのTRPGにおいても大なり小なり存在していると考えています。 
 そしてできれば、私もこれら2つの目標を高いレベルでバランスできるようなプレイテクニックを身に付けたいものだとつねづね考えています。

 次回は、この「目標」と「解釈」、TRPGに共通する2つの課題を、もう少し細分化して説明してゆきたいと思います。
 先に構造だけ示しておきます。

■高橋2007「RPGにおけるプレーヤー4つの課題」

  TRPGとは実に、「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」の両方を尊重し、さらにその双方の矛盾を無理なく整合するというゲーム的営みなのです。そして後者の部分が重要なゲーム性を帯びているからこそ、TRPGは「ロールプレイング・ゲーム」と呼ばれるわけです。
 TRPGのプレイ目標について整理した馬場秀和氏は、ロールプレイを「なりきり」とは区別するために、「広義のロールプレイ」を〈役割分担〉〈ロールプレイング〉(=狭義のロールプレイ)に分割しましたが、結局その「文芸的解釈」(広義のロールプレイ)については一切否定することはありませんでした。そのことを、次回あらためて確認してみたいと思います。

補:〈キャラクタープレイ〉についての誤解

 ところで、この2つの課題のうちの後者──「文芸的解釈」全般──について考えることを〈キャラクタープレイ〉だと考える立場が、どうもあるようです。
 さらに、その立場の人々は、この〈キャラクタープレイ〉という言葉を使って、「なりきり」について徹底的に批判したことで有名な馬場秀和氏を、非難する傾向があります。。
 しかし、私はこの解釈にもとづく馬場氏への非難を二重の意味で間違いだと思っています。
 まず第一に、馬場秀和氏は、「文芸的解釈」を整合させるゲームとしてのTRPGを、まったく否定していません。
 そしてもう一つ、そのようなTRPGの一側面を〈キャラクタープレイ〉だと呼んだことは一度もないのです(むしろ馬場秀和にとっても、「文芸的解釈」はTRPGを支える重要な部分です。否定するわけがありません)。
 馬場が〈キャラクタープレイ〉と呼んだものは、あくまでTRPGをプレイする際の特定の「発言」傾向のことを指します。
 それは単にキャラクターの行動をゲームマスターに申請するというだけにとどまらず、「なりきり」や「裏声」や「アニメや漫画っぽいカッコいい台詞」*4を、表現訓練を経ていない素人が喋ってしまうということを意味します。
 これだけが、馬場秀和氏が自らの著作で示した〈キャラクタープレイ〉の、元の意味です。
 そして、そのような「なりきり」や「気持ち悪い声」さえ出さなければ、プレーヤーの内面で計算される「文芸的解釈」が、アニメや漫画の表現に基づいていようと、演じるキャラクターがうらわかき乙女だろうとサイボーグだろうと緑色の皮膚をした宇宙人だろうとエルフをバリボリにんじんみたいに食べるトロウルだろうと、馬場秀和氏の言う〈キャラクタープレイ〉の文脈からみれば、一切問題ありません。そこには考えるべき〈意志決定〉があるからです。読者の皆さんは、このことにくれぐれも注意してください。*5
 要するに、TRPGにおける「文芸的解釈」がゲーム的な面白さを持っていることと、「その解釈結果を伝える際に、身体のレベルで(俳優と同じ水準で)がんばろうと試みること」とは、別のものなのです。
 TRPGはあくまで、ゲーム的な思考と、創作文芸的な解釈プロセスの両方の〈意志決定〉を楽しむものであり、出力結果としての「表現」の巧拙を過剰に評価するものではありません*6。私が今回のエントリで「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」を等しく尊重したのはそのような背景に基づくもので、そこから「表現」の巧拙は注意深く除外されています。

 (もちろん、そのシチュエーションに相応しい「カッコよい台詞」は言っても構いません。しかし、必要以上に「演技」に注力して周囲の失笑を買ってしまうよりは、無理をせず淡々と言った方が、TRPGがより広く、大勢の人に楽しまれる遊びとして発展していくには適切だろうということなのです。演技がうまくいかなかったからといって、プレーヤーが「解釈」に費やした〈意志決定〉の価値や、それによって生まれるキャラクターの行為のリアリティは、なんら変わらないはずです)。
 「なりきり」を避けつつも、その解釈プロセスを楽しむことは十分に可能です。そしてそのような解釈プロセスがTRPGシステムによってゲーム的に整備されることを、馬場秀和氏は否定したことがありません。これは世代の区別なく──要するに、第一世代、第二世代、第三世代それぞれのTRPGシステムにおいても、十分に成り立つ話なのです。ようするに、「表現」の水準でムリをしなければよいだけの話なのです。
 〈キャラクタープレイ〉を「文芸的解釈」の整合を目指した〈意志決定〉と考える場合、それは一切、否定されるべきものではありません。そして繰り返しますが、馬場秀和氏の言う〈キャラクタープレイ〉とは、そのような意味合いを一切含まない、別の概念なのです。
 馬場秀和氏が〈キャラクタープレイ〉について論じた文脈にはしばしばプロパガンダ的なものがつきまとう、という指摘はしばしばあります。しかし、そのプロパガンダでさえ、「文芸的解釈」部分の面白さそのものを否定しているわけではないということは、指摘してもしすぎるということはないと私は考えています。

*1:=もっともらしい選択肢が複数あって、どれも選びきれないこと

*2:どれを選んでもよい、というのではなく、どれを選んでも重大な結果が待ち受けているような状況が与えられていること。なお、これはゲームのメインとなる課題においてあれば十分で、全ての課題についてそういうものが必要だ、というわけではないことに注意。

*3:=説明するに足るだけの説得的な理由をプレーヤーが見つけられていること

*4:これはアニメや漫画の表現としての質の高さとは無関係である。審美の基準となるのは、あくまで本人の表現力によるものであって、TRPGゲーマーの99%以上はそのような表現訓練を持ち合わせていないし、鍛える必要もない。

*5:とはいえ、アニメや漫画を全く知らない人と一緒にTRPGを遊ぶ際には、「文化圏のズレ」というまったく別の問題が生じるが、それは〈キャラクタープレイ〉とは少し異なる問題である。これについては、また別途改めて考えてゆきたい。

*6:私は、天羅万象エンゼルギアといった「演技」メインのRPGでも、同様のことが言えると思っていますので、この主張はそれらのシステムへの批判を意味しません。天羅で遊んでも〈キャラクタープレイ〉を避けることはできるし、その逆にソードワールドD&Dなどの演技的な誘導のないシステムで〈キャラクタープレイ〉をやってしまうこともありえます。誤解のないよう繰り返しますが、これは特定のシステム批判ではなく、TRPGの課題として相応しくない「身体的能力に依存する表現の問題」なのです。