「3者関係」構図の違いと〈段階的な運用〉について
「意図」について鏡さんからさらにコメントを戴きました。
■鏡2007.09.22「意図は命令、理想的な遊び方可能説」『卓上RPGを考える』
http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/09/post_96.html
何度か読ませていただくうちにだいぶ理解できたのですが、私が想定していた「意図」の概念とはまた違った利用法(=ベンリさ)を、念頭においていらっしゃるようですね。
■鏡(2007)の用語まとめ
- 意図(鏡式):決断し、命令すること。
- 決断(鏡式):セッションにおいて各々が自分の行動を決定すること。
- 命令(鏡式):セッションにおいて各々が自分の良かれと思う行動を他人に提案すること。
- 自由(鏡式):運用に段階を設けず、とにかくプレイグループの好きなように運用する自由が確保されていること。
私はあくまで〈意図〉を、「システムデザイナー」「ゲームマスター」「プレーヤー」の3者それぞれが考える“ゲームの面白さ”を、セッションの場において実現させようとすること」だと考えていました。これはほぼ鏡さんの考える「決断×命令」に一致しますね(「ゲームの面白さを考える」のが「決断」、「ゲームの面白さはこうだ、とセッションの場で他人に提案する」のが「命令」。どちらもセッションにおいて必要不可欠な行為です。)
さて、その後に色々と補足していただいたのですが、特に私からは批判すべき点はありません。
ここから先は「目指している立場の違い」といいますか、私と鏡さんがそれぞれそういった概念を定義して、何を実現しようとしているか、という違いになりますね。
鏡さんが指摘してくださったとおり、私は
- システムデザイナー
- →ゲームマスター
- →プレーヤー
という伝達関係を想定しています。一方で鏡さんは
- システムデザイナー
- →プレイグループ*1
と
- ゲームマスター
- →プレーヤー
の2つの伝達経路を想定していますが、おそらく私ほどには
- システムデザイナー
- →ゲームマスター
の流れを、それほど重視していないのではないか。
しかし私は、「システムデザイナーからゲームマスターへの情報伝達」*2と「マスター自身の運用能力の上達」*3こそが、RPG全体の質を決定すると考えているのですね。
では、どうして
- システムデザイナー
- →ゲームマスター
の流れをまずしっかり論じなければならない、と私が考えているのかといいますと、それは「ゲームマスターに技量の巧拙があること」と、「システムデザイナーに“システムデザイン”で*4十分にお金を支払う価値があると証明する」ことを、うまく両立させるためなのです。
ゲームマスターが増えないと、プレーヤーはゲームを遊ぶことができません。したがって優秀なゲームマスターが沢山増えて、彼らが中心となってシステムを購入することが、システムデザイナーという商売が成立する大前提となります。ですから、「システムデザイナー→ゲームマスター」だけでも十分に潤うような商業形式が確立されなければならない、と私は考えているのです。正直、ゲームマスターのセッションが面白いと思った瞬間に、その場でシステムが直販で売れるような販売体制ができれば言うことないくらいですね。*5
だから、私は実は、システムデザイナーの権威を確保しつつも、ゲームマスターの実力と、それに伴う権限の増大が保障されるような市場が健全だと考えていて、そのためのゲームマスターの実力の評価軸をはっきり定めるような批評が必要ではないかと思っていたわけです。(そのかわり、プレイングの技法については後回しにしてしまっているのですけれど)。
今の市場は、システムデザインも運用も全部プロのシステムデザイナーが最高権力を握っているので、結局「システムデザイナーと一緒に遊ぶ」のが最高、みたいな発想になってしまうのです。でもそれは、RPGの本質を考えれば、別にそんなわけないですよね。システムデザイナーより優秀な運用をするゲームマスターはいますし、しかしそういう運用ができるゲームマスターが作るシステムデザインが優秀だとも限らない。RPG市場は、「システムデザインがよければマスターもうまいはずだ」とか「マスターがうまければシステムデザインもうまいはずだ」とか、そういった基本的な誤謬をわりとあっさり認めてしまっているところがあるように思います。
しかしどっちにしろ、全国津々浦々の「初心者」プレーヤーは、「優秀なゲームマスター」さえいればゲームを遊べてしまうわけです。
つまり、システムデザイナーがいくらがんばったところで、「優秀なゲームマスター」がいなければ、誰もRPGなんか遊ぼうと思わないんですね。
RPG文化の発展のために、ゲームマスターを増やすために「システムデザインのレベルにデチューンをかけて誰もがマスタリングに挑戦できるようにする」のと、「人が人を育て、運用に熟達したゲームマスターを輩出する」の2種類が考えられますが、私は後者の立場を取るためにあれこれ考えているわけです。
そういうわけで、「大きさ」で重要度を、市場の大前提となる商品と情報の流通を「矢印」でそれぞれ示すと、私はこういう風にRPG業界が発展するべきだと思っています。
■高橋(2007)によるRPG三者関係の整理
つまり、多くの優秀なゲームマスターが賞賛される代わりに、彼らの知を支えるシステムデザイナーが今の何倍も儲かる世界。そういう業界になることが、私の理想なんですね。
たぶんこの辺の問題意識になると、おそらく鏡さんとは共有できていないと思います。しかし、今は特に共有しなくても問題はないかと思います。おそらく、鏡さんの術語でしかたどり着けない三者関係の理想像があるように見受けられますので。
ただ、私は私の定義した言葉を、こういった業界関係図に変更させるための道具として使おうとしているのだ、ということをご理解いただければと思います。
あと、「理想的な遊び方(運用)」については、私の定義だと「唯一絶対な遊び方があると考えること」ですので、鏡式「自由」を認めません。したがって鏡さんが、私の定義での「理想的な運用」を認めると、鏡さんの議論が成立しなくなります。ですから鏡さんも、「理想的な運用」を認めない方がよいのではないかと私は思います。
おそらくここで議論がかみ合わないのは、〈典型的/アクロバティック〉の背景になっている「段階的な運用」と言う発想を、鏡さんがRPGにとって重要なものでははないと考えているからではないかと思います。
しかし私は、RPGには、実力やプレイグループの傾向に合わせて「段階的な運用」を意識するべきだと考えています。なぜならば、そうしないと、RPGにおいて「適切な遊び方」を論じ、RPGにおいて「それなりにスジの良い遊び方」を伝達するための適切な言葉が築けないからです。それはRPGの競技人口を増やす役に立ちません。
私は「RPGにおける教育」は、〈典型的な運用〉と〈アクロバティックな運用〉の両方にあるべきで、〈理想的な運用〉を前提にしてつくってはいけない、と言っているのです。つまり、「プレイグループ内で、RPGの遊び方を教える基本的な教育方法」を念頭において喋っているわけですね。
ところが鏡さんは、意識的にせよ無意識的にせよ、「RPGにおける教育」や「上達の方法論」といった発想を認めてないのではないか。だから私の〈運用〉にまつわる術語がどれもしっくりこないのではないかと思います。
私のこの立場は「絶対的に正しい」と言うことが原理的に不可能であるため*7、特に同じ意見になっていただかなくても構わないものです。しかし、鏡さん自身の議論を進めていくにあたって、私のこの「段階的な運用」への意識とは区別してご自身の議論を展開していくことは、きっと鏡さんの議論の進展にメリットをもたらすのではないかと考えております。おそらく鏡さんは「段階的な運用」などない方がよい、と考えているはずです。
念のため、もういちど私の「理想的な運用」の定義を示しておきます。
- bold;">〈理想的な運用〉:〈典型的な運用〉〈アクロバティックな運用〉の2つの段階的な〈運用〉とは異なり、実際には実現不可能な遊び方。文芸批評における「理想的な読者論」の誤謬と同じく、「特定のシステムには唯一にして絶対のルール解釈がある(あるべきだ)」と信じ、その通りにゲームを運営すること。この方法で面白いゲームを提供することは不可能ではないかもしれないが、システムデザインに対する解釈の多様性を根拠なく否定しかねない。考え方として、認めるわけにはいかないものである。
以上です。
*3:「システム選択」「シナリオ作成」「セッションハンドリング」のそれぞれに熟達すること。これに「プレーヤーへの指導」と「啓蒙活動」への貢献が加わると完璧。
*4:マスターリングが下手な人のためのサポートで儲けるのではなく。
*5:これが実現すれば、「ゲームマスター副業化計画」というビジネスモデルが成立したことになります。出版としてのRPG産業から、興行としてのRPG産業へのシフトです。
*6:しかし、国内リプレイでこのプレーヤーの層が商品価値を持ちつつあるのを見逃しているわけではない。田中天、力丸乃りこなど、公式リプレイで商品価値を持つ名物プレーヤー個人の存在は少しずつ登場しつつある。その分野でどう「うまいプレーヤー」を確立するかは、他の人にゆだねたいが。
*7:教育に「唯一にして絶対的なもの」なんかありませんし、そもそも「教育」という発想それ自体をも疑わないといけません。しかし、「教育」と言う名のもとに自分勝手な意見ばかりを押し付けてくる“えせエリート・ゲーマー”を排除し、RPGに興味を盛ってくれた人々を最低10年以上RPGに関わらせるための方法論は、今後どうしても必要になってきます。それは結局、「教育」というカテゴリに属する知識のはずです。