〈日常〉をTRPGで扱う際に解決すべき3つの課題
acceralatorさんが、私の前のエントリ「〈一意的描写〉と〈意志決定〉の対立─『Aのネットラジオ』で語られた演劇論からTRPGを考える」を受けて、次のような解説記事を書いてくださいました。
■acceralator, 2007.08.22「英雄でも勇者でもないただの人が織り成すエンターテイメント」
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20070822/p2
外面的なものと内面的なもの、演劇論の二つの立場を紹介し、今までのTRPG界は外面的な演技と想像力に支えられたヒロイックなTRPG作品を作ってきたが、内面的な演技と想像力に支えられた、自然主義的なTRPGがあまり生まれてきてないという問題点を指摘したエントリーでした。
(acceralator 2007.08.22)
まとめていただいて、ありがとうございます。
『Aラジ』に触発されて、色々とそれまで考えていたことを思いつくままに書いてしまった記事なのですが、論理構成に配慮してまとめてみると、この記事は以下のような箇条書きにもできると思いました。
- まず、「TRPGは演劇に向いている」と仮定してみる。
- もし「TRPGは演劇に向いている」が本当に正しいならば、現代演劇が扱うような日常に近い出来事を再現できるTRPGがあってもおかしくないはずだ。
- しかし実際にTRPG市場を見てみると、演劇で用いられるような「生き死には関係ないが人間として問題を抱えている」ような、地味な状況をうまく再現できるTRPGがなかった。*1
- ということは、最初の仮定は間違いであり、むしろ「(少なくとも、現行の)TRPGは構造面・ゲームデザイン面で、リアリズム演劇的な状況を再現するのに向いていなかった」と考える方が自然である*2。
- したがって「TRPGは演劇に向いている」というのは、もっと限定的な話みたいである。(でも、〈架空の状況〉を推論・再構成する脚本家的な能力が必要という点では、かなり役に立つかもね)。
こういう論旨を展開しているので、まだ読まれていない方はぜひ読んでみてください。
なお、コメント欄でちょっと問題になった以下のような点についても、コメントしておきますよ。
ここでggincさんが挙げている例がチェーホフの『桜の園』だったり、純文学に寄っていますので
(acceralator 2007.08.22)
あそこではあくまで、演劇畑の人の論旨に合わせて書いたつもりだったので、多くのTRPG畑の方々には「?」な内容だったかもしれませんね。すみません。あれは、スタニスラフスキーが「モスクワ芸術座」で行った成功例で有名なのが、たまたまチェーホフの公演だってだけの話なのですよ。
それ以外の作品も、「スタシスに当てはまりそうなリアリズム演劇」を出しただけで、私がそれらの作品に実のところ、ほとんど思いいれがないことは、ここに補足させていただきます。私にとってのスタシスが、それだけ純文学寄りの演劇を髣髴とさせるものだったってことですね。今、改めてスタシスを研究してみれば何か違った明るい作品も出てくるかもしれませんが、私のとりあげた事例は、それなりにスタシスの古典的な適用例に基づいています。その文脈からご理解いただければ幸いです。
さて、ここからが本題。
僕はggincさんの疑問をこう言い換えます。
犬夜叉はTRPG化できるのに、めぞん一刻はTRPG化できないのはなぜか?
(acceralator 2007.08.22)
簡単に言い直していただきまして、たいへん助かります(笑)。
お礼に再整理させていただきますと、『犬夜叉』が遊べて『めぞん一刻』が遊びにくい理由は、私が今思いつく限り、3つ考えられます。
- 【課題2】〈目標〉以外のゲーム的要素、すなわち〈制限〉〈障害〉〈ゲームトークン〉〈管理資源〉〈葛藤〉〈決断の根拠〉〈結果に対する責任〉*4などを提供できなければ、ゲームとしてまともな体裁を取らないまま終わってしまう。
- 【課題3】TRPGという営みは、〈現実の状況〉で学んだ〈常識〉の力を〈架空の状況〉に拡張・応用することでなんとか成立しているのだが、〈現実の状況〉には実はさまざまなヴァリエーションがある。そのためTRPGでは「お互いの〈現実〉のズレを見せ付けられるよりは〈架空の状況〉の方がまだ認識を共有しやすい」という不可思議な問題が出てくる。
これらをそれぞれ便宜的に
- 〈日常ゲームスケール問題〉(課題1)
- 〈日常ゲームデザイン問題〉(課題2)
- 〈日常リアリティ問題〉(課題3)
と呼んでしまいましょう。
以下、これら3つについて具体的に説明していきます。
【課題1】──〈日常ゲームスケール問題〉──は、すでに『Aの魔法陣』が部分的に解決しています。芝村さんは、システムレベルでは概念のスケールを定めず、成功要素を概念そのままに把握させることで、この〈特異点問題〉をなかば強引に解決しました。*5
けれど、「日常の状況を数理化できていない」という点で、システム自身には安定性を望めません。そういうゲームだと諦めて、うまく活用するしかないのです。
しかしそれでも【課題1】は、『Aの魔法陣』だけでなく、『月夜埜綺譚』の「カレンダーシステム」などによって一部デザイン的に解決されてきているようにも思います。私が先日「リアリズム演劇」を例に取りながら、リアリズムにもとづいたTRPGデザインについて言及したのも、この方向性でのTRPGの進化・発展の兆しがすでに出はじめていることを背景としています。
一方、〈日常ゲームデザイン問題〉と呼んだ【課題2】は、システムだけでなく、「現場のゲームデザイン技術の不足」によっても起きる問題です。システムが日常的な状況をゲームデザインすることを保障していても、プレイグループがその利点を十分に理解していなければ、まともにゲームとして機能しません。日常のディティール描写を詩的にそらんじるのは確かに楽しいかもしれませんが、ちゃんとその行動自体が、ゲーム的な各要素を通じて把握可能でなければ、何をやっても手ごたえが感じられず、いずれ飽きが来ます。*6
『Aの魔法陣』は、ゲーム的な要素のうち、〈目標〉〈制限〉〈障害〉等は「M*〜〜書式」*7が自動的に提供してくれる構造になっていますが、それより先は、もっとSDが入念にセッションデータをいじらなければ、すぐに飽きが来てしまいます。裁定の基準を日々SDがプレイヤー向けに言語化していかなければ、『Aの魔法陣』で日常をゲームとして楽しみ続けるのは、難しいでしょう。逆に言えば、“そこから”が『Aの魔法陣』SDの腕のみせどころというわけですね。
また、日常のキャラクターをロールプレイするという点でも、〈日常ゲームデザイン問題〉があります。これは俵ねずみさんも指摘しているのですが、「キャラクターのロールプレイ」は、プレイグループ内での厳密な相互承認手続きとその遵守という体制づくりがなされていなければ、まともな〈ゲーム〉として成立しません。相互承認がなければ、〈葛藤〉と〈決断の根拠〉の基準がなくなるからです。「キャラクターのロールプレイ」をゲームとして成立足らしめる要件は、(一部のロールプレイ支援系システムも含めて)システムではなく、プレイグループによって提供する場合の方がとても多いです。*8
このうち、「日常の人間をどう演じるか?」で、プレイグループ内で理解に差がある場合は、そのすりあわせをうまくやる必要があるでしょう。これは、課題3の〈日常リアリティ問題〉にも通じる話ですが、ゲーム性を保つという点でも大事な話です。
キャラクターを演じることのゲームデザイン的問題については、詳しくは俵ねずみさんの論考(2.4.2)の(3)、「キャラクターのロールプレイ」の定義]をご覧下さい。
ちなみにAマホでどうギミックを用意するかは、こちらのページにある程度のヒントがかかれてありますので、こちらもあわせてお読みください。
【課題3】の〈日常リアリティ問題〉については、ひょっとすると何のことだかわかっていただけないかもしれませんが、実はこの3つの中で一番重要かつ本質的な問題です。昨日書いた私のエントリでも、この重要性について少しだけ論じています。『月夜埜綺譚』のはるをさんは〈リアルリアリティ問題〉と名づけているようです。*9ググったところ、若干違う意味だとは思いましたが(笑)、〈リアリティ〉とは何か、というのはTRPGではしばしば頭を悩ませる問題ですよね。
つまりは、私たちが考えている〈現実〉というのも一筋縄ではいかない、ということなんですよね。私はこの危険性を、TRPGデザインを考える上でけっこう本気で問題に思っていて、そのために「まずウソを想像力として楽しむ〈常識〉の力」について考えなければならない、と思っているところです。そっちについては、まあ暫く地道にやっていこうかと思っています。
これらの3つの課題をエレガントに解決できれば、私たちが「それっぽい日常」をうまくゲームデザインできる日が来るかもしれませんね。
たとえば、わりとこの手の話で失笑となりがちな事例に、馬場秀和さんの「マンション理事会RPG」というものがあります。
■馬場秀和,2003.05.13『マンション理事会RPG』Scoops RPG2003年06月号初出.
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20030513.html
確かにこれは「状況としてはくだらないし、面白みもない」かもしれません。実際、これを読んでると、マンションの理事なんてやるもんじゃねえと思います、はい(笑)。
でも、〈ゲーム〉というものが何かを本当にわかっているベテランのゲームマスターなら、その〈ゲーム〉の中に設置すべきゲーム的要素*10をキッチリ整備できるようなシステムさえあれば、「つまらない」なんてことを言わせるはずがないですよね。状況さえ揃えば、熟練ゲームマスターは、嬉々として「マンション理事会RPG」でプレイヤーを楽しませてしまうでしょう。
そういう意味では、TRPGはある〈架空の状況〉をそのまま生の状態で楽しんでいるのではなくて、その〈架空の状況〉を〈ゲーム〉として料理したものを、楽しんでいるわけですね。*11この意見は、2004年の終わりに、次のような意見を書いてから、何も変わっていません。
RPGは、そのゲームの材料となる要素として物語性、演劇性を持っているために、それら二つの要素がゲーム性として編集されずに、そのままボード*12の上に載せられてしまう場合がある。物語性のナマの発露は「吟遊詩人GM」「一本道シナリオ」となり、演劇性のナマの発露は「なりきり」「キャラクタープレイ」になってしまう。
ここで私が指摘したいのは、一つの考え方である。つまり、否定されるべきは、物語性でも、演劇性でもない。真に否定されるべきは、その物語性/演劇性を、RPGのゲーム要素として料理しないままに楽しもうとする、非ゲームデザイナー的な態度にこそある、ということだ。*13
挑戦/模擬/物語といったものが、ゲームとして編集され、一つの強大な意志決定を迫るものとして組みあがった時、はじめてゲームとして楽しめる、というのが、コラムによって補強された馬場理論の現在の立場であろうと私は読んでいる。逆に、設定それ自体がどれだけ物語性、演劇性に溢れたものであっても、それがゲームとして編集されないままでは、RPGの面白さの範疇に入れるべきではないのである。*14
(白河堂2004.12.11「イマジナリィ・ボードの提唱(4)編集編─先天・後天モデルの再起草」)
ですから、この「マンション理事会RPG」みたいなものだって、それが〈ゲーム〉としてきちんとデザインできる可能性があるのであれば、否定してはいけないと思います。実際、今ならこれをこのまま『Aの魔法陣』で再現可能でしょう。これまで否定したら、「めぞん一刻RPG」も出来やしません。それはとてももったいないことです。
TRPGは確かに想像力のゲームですが、その想像力は実のところ、高度な〈ゲームデザイン〉の技術によって正しくデザインされているからこそはじめて楽しめる想像力なのだと、私は思っています。
*1:よくよく考えると『アサイレム』なんてのがありましたが、あんなの代表にできない。
*2:その理由づけとして、そもそもTRPGが戦闘シミュレーションゲームの転用から生まれた、ゲームスケールの異なる出自のものであること、また〈一意的描写〉を追求しすぎるとそれは「何か一つの正解」を仮定することになり、〈意志決定〉によって支えられているTRPG本来の面白さが損なわれること、などを紹介した
*3:ウォーゲームで言うところの「戦術級」「戦略級」「超戦術級」のノリで、数値的なスケールをどの規模に合わせるかという、ゲームデザインの基本的な問題。人間個人を能力値で表すにも、どれくらいの幅で人間のスケールを想定するかをまず把握しないと、どうにもできません。極端なことを言うと、「ありんこ同士」(超ミクロ)の勝負とか「銀河系を巻き込む大爆発」(超マクロ)をTRPGでデザインしようとした時も、この〈ゲームスケール〉の問題はついてまわります。
*4:つまり、〈意志決定〉の3要素。ここでは〈アカウンタビリティ〉を〈決断の根拠〉と言い直している。私としては〈葛藤〉〈根拠〉〈責任〉と短く言った方がラクなんですが、そうすると意味が通りにくくなってしまうのでしょうかね。
*5:Ver2.5以降は「判定単位」という〈ゲームスケール〉変数を置いて、ゾウリムシから宇宙霊魂まですべて綺麗に表現できるシステムには(一応)なったのですが、残念ながらそれをガシガシ切り替えてもついて来るほど鍛えられたプレイの例は、芝村系ゲーム・コミュニティ以外ではなかなかみかけません。今後このスケール変換を駆使したプレイ例,「竜と鼠のゲーム」が、もっと出てくるといいなあ。
*6:詩吟を習えばそのプレイは続くかもしれませんが、TRPGは別にそんなことしなくても長く続ける方法がありますので、詩吟に行ってしまう必要はありません。この「TRPGは、〈ゲームデザイン〉の技法に習熟さえすれば、その他の分野の才能がなくとも、十分に楽しんで続けられる」という話は、私が日ごろ大事にしている主張でもあります。
*7:これは以下のような記述のことである。「M*目立ちたがりの彼を生徒会長選挙に勝利させる:難易度40:判定単位100:制限時間5週間(選挙当日まで):1ターン1週間(つまり5ターン):公立鮎川高校の一生徒の場合:抽出条件は鮎川高校生徒会長選挙法に抵触しない範囲ならなんでも」。これで、最低でも〈目標〉〈行動回数制限〉〈一元化された障害(=難易度〉の3つは確実にきまってしまうため、とりあえず〈ゲーム〉として成立してしまうのである。ここだけの話だが、『Aの魔法陣』が「シナリオ要らずの第四世代RPGだ」と放言されているのは、言い換えれば、ゲームデザインの素人が運営しても、〈意志決定〉を自動的に生み出してしまうような機構がある程度システム内に組み込まれている、ということなのである。うん、こりゃ素晴らしい発明だ。でももちろん、それだけに頼っていては、本当に面白いゲームをデザインすることはできない。この話に興味がある人は、『馬場秀和のマスターリング講座 第三章「セッションハンドリング」』を読むこと。『Aの魔法陣』まんまのセッションデザインテクニックが披瀝されていて、びっくりすること請け合いだ。
*8:このあたりの難しさは、id:mallionさんのロールプレイに関する記事のコメントで述べた、「ロール調整を楽しむという方法は、サークルがベースというのが前提」という言葉にも端的に表れています。コンヴェンション会場では、事故=喧嘩を起こさないために、どうしても点が甘くなりがちで、そのぶんゲーム性を維持することが難しい傾向にあります。けれどその甘さを容認することは、俵ねずみさんが一貫して主張している「キャラクターのロールプレイ」の魅力から外れた、あまり面白くない遊び方であることを理解しておくべきでしょう。「キャラクターのロールプレイ」をゲームとして成立させるには、システムだけでは不十分で、プレイグループ内での不断の努力が必要なのです。『天羅万象』や『エンゼルギア』といったロールプレイ評価を中心としたゲームが、コンヴェンション会場で単なるお世辞ではなく楽しめた場合というのは、この点を一期一会でクリアできた場合に限るのではないかと私は思っています。すり合わせがうまくいくか、それともたまたますり合わせる必要がないくらいウマが合うかのどちらかが成立すれば、〈ゲーム〉として楽しめる確率は非常に高くなります。
*9:2007年夏コミの新作『月夜埜綺譚RPG ver1.5』と一緒に配られた「サバスタ!」の6ページに、〈リアルリアリティ〉に関する記述がある。/ところでここからは、いずれするだろう『月夜埜綺譚』のレビューの肝の肝だけを書き記しておく。『月夜埜綺譚』のゲームデザイン的に優れたところは、今私がここで言及している〈日常リアリティ問題〉を、〈ベット&レイズ〉ルールというゲーム的仕掛けによって、エレガントに解決していることである。日常では“ぶっちゃけありえない”現象を引き起こす努力それ自体を「プレイヤーのゲーム的挑戦」に変換したことにより、『月夜埜綺譚』は〈日常〉の定義についてコンセンサスを取る際に出てくるだろう膨大な苦労の大半を、華麗に回避してしまった。それが『月夜埜綺譚』の、ゲームデザイン的に美しいところなのである。プレイヤーの自由意志とそのための〈資源管理〉に日常描写のほとんどをゆだねることによって、「プレイヤビリティ」と「郊外の日常描写」の両方をうまく記述した『月夜埜綺譚RPG』は、プロ・アマ問わず、〈日常〉を真正面から扱ったTRPGの成功例として末永く記憶されるべきだと私は思う。
*10:〈目標〉〈障害〉〈制限〉〈管理資源〉〈ゲームトークン〉〈葛藤〉〈決断の根拠〉〈結果に対する責任〉など。
*11:Vampire. Sさんの語彙を借りれば、TRPGゲーマーは〈ポリシー〉だけでゲームをやるのではなく、〈メカニズム〉を利用することによって〈架空の状況〉をゲームに仕上げるのですね。ポリシー“だけ”で面白いゲームを提供することは、人間の共感能力をもってしても、原理的に不可能です。
*12:これは〈イマジナリィ・ボード〉のことです。定義は「〈架空の状況〉をボードゲームの技法でデザインして楽しむために、その〈架空の状況〉に見出される諸要素をコスティキャンが定義する〈ゲーム〉の諸要素にできる限り変換し、参加者全員で共有するに至った共通認識,ルール,データ,世界設定の集合」です。これは〈架空の状況〉を名指しているという点で、後にVampire.Sさんが提唱した〈メカニズム〉より実はだいぶ狭い意味で使われています。〈メカニズム〉はTRPGシステムとプレイされる状況を切り離して論じることができますが、私の〈イマジナリィ・ボード〉は、内輪のキャンペーンセッティングも含めた、実際に共有される〈架空の状況〉において適用されます。この〈イマジナリィ・ボード〉がまったく共有されていなければ、私たちは〈架空の状況〉を1つのゲーム盤=1つの状況として認識することができないので、これはTRPGセッションの成立にとって致命的な問題です。
*13:私が究極的には物語や演劇をTRPGの中心に置けないのは、それよりも常に「ゲームデザイナー的思考」が優越しないとTRPGは破綻すると考えているからです。
*14:しかしながら、俵ねずみさんのロールプレイ論のように、演劇や物語を〈意志決定〉の要素として変換するノウハウさえ利用されるならば、この限りではありません。