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多木浩二『べンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』

 

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

 解説付き。巻末に原文の翻訳あり。
 ここでいう〈複製技術〉を超えて、今や〈編集技術〉といっても良いようないろんなものが一回性を失わせている気がするけれど、別に演劇やUSTや音楽ライヴがそれにくらべて〈アウラ〉があるかというと、それだけで褒めるわけにもいかないよな、なんてことを考えている。
 〈アウラ〉とは端的に言えば「一回性」を尊重するための概念だ。

 いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。
 ──ベンヤミン,1933「複製技術時代の芸術作品」(本書p144)

 ベンヤミンがこの文章を書いた1930年代に、どこまで複製技術が発達していたかというリアリティはいまいちわからない。せいぜい写真が登場して、絵画の優位性が失われた程度のことだ(それにしても大事件だったが)。しかし、21世紀初頭に生きる私たちの感覚を代弁させてもらうと、率直に言って、アウラがなくても完成度の高い芸術作品の方が今は尊ばれやすいのではないか。
 たとえば音楽にしてもそうだ。波形編集してでも良い声を出せる方が、ナマで下手な歌を聴かされるよりよっぽど良いという世の中になりつつあるように思う。そんな時代に、素朴に「一回性」を言挙げすることにどれだけの意味があるというのだろう?
 意味がない、とは言わない。私にだってあなたたちと同じように、素朴に信じたままでいたいものは、いくらでもある。しかし、少なくとも私は、もし本当にそうした主張を世に問うならば、そこにいくらでも再演可能なものと対抗するだけの理屈が用意されないと、単なる世迷い言で終わってしまうなと思っている(「世迷い言でもいい、俺が信じているからいいんだ、文句を言うな」、というような、あまりにも他人の目を気にしない物言いだけは、自分には恥ずかしくてできない。そんな逃げを打つくらいなら、最初から信じるなよと思う)。
 「やっぱりナマがいいよね」といった素朴な発言を虚仮にされないだけの理屈は、本当にナマがいいと信じる人が確かに一定数いるのなら、あった方がいいし、ないなら汗水流してでも誰かが説得的ななにかを作るべきだろう──作品(モノ・行為)であれ、批評(ことば・行為)であれ。*1

*1:私が批評を馬鹿にしない理由は、「説得する手段」として有効な両方のうちどちらかを捨てるのは単にもったいないと思うからであって、別に作品の担い手を無視しているわけではない。(優れた)作品やパフォーマンスを馬鹿にする批評家に未来はないし、同様に批評(本来の役割)を馬鹿にするクリエイタにも同様に未来はない、と私は考えている。