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武道と心身についての2つの仮説を確認する(だけの話)

 今日は、合氣道における〈氣〉ということばが暗黙のうちに前提とする、ある2つの考え方についての小論を書いてみました。*1


 私たちは、〈気〉ないし〈氣〉と呼ばれるものを、うまく定義することができない。社交術として“読む”ものだったり、上司に対して“使う”ものだったり、真空波動拳の“素材・エネルギーになる(かもしれない)”ものとして考えたりするといったことはあるが、では全体としてどうなのか、と考えると、統一した見解は特にない、といえる。
 だから、〈氣〉という言葉を見聞きする時、それは必ず、特定の文脈、特定の専門用語としてどう使われているのかを念頭に置きながら、理解しなければならないだろう。分厚い辞典を引いたり、百科事典を引いても、〈氣〉という言葉が使われる時の正確なコンテクストを理解することは困難なのだ。

 今回私が取り上げるのは、「合氣道」という武道において使われる〈氣〉についてである。
 合氣道は、「氣に合〔がっ〕するの道」と書くように、〈氣〉という単語を非常に重要視する。また、指導者クラスの人々が指導の際に「氣を導く」とか「氣を出す」「氣が止まる」としばしば表現するほど、〈氣〉が動作の中にあるかどうかが、とても肝心なものとして考えられている。
 そんな風に、合氣道においての〈氣〉とはとりあえず、なにがしかの実体を伴うobject(対象)としてしばしば名指されていることは間違いない。そして、〈氣〉についての先達者は、できるだけ後続にむけて、その〈氣〉というobjectに対する理解を増進させようとつとめる。
 しかし残念なことに、〈氣〉について計量的な何かを算出するような測定器があるわけではない*2。これは、〈氣〉について何事かを伝えようとする武道家にとって、はなはだ不都合なものであろうと思われる。教えられる側の私も、〈氣〉が客観的に観測できないために、大変苦労している。誰の目にも簡単に見えるのならば、6年目になってこんなヘボいレベルに甘んじていないはずだ。ショージキがっかりである。
 もちろん、「数値化できない」というただその一点を取り上げて「非科学的だ(したがって考慮するに値しない)」と言いだす人は、科学がどんな営みであるかを本当に理解しているかどうか怪しいので考慮の外においておこう。問題は、ある文脈において言われる〈氣〉は、実のところ私たちが知る「なに」を名指しているのか、である。それがわからなければ、実在について問うこと自体がナンセンスである。
 さて、名だたる合氣道家や武術家が〈氣〉は存在する、という時、それは心と身体の関係について、特殊な考え方を述べている、と考えるとわかりやすい。
 私たちは、心と身体を異なる2つのものとして捉える考え方に慣れている。たとえば、身体を一生懸命鍛えても、それで心が強くなるとは限らない。あるいはその逆に、心が深く傷ついたからといって、身体から出血するわけでもない。もちろん、体調を崩して心が塞がったり、あまりに心が病んでしまった結果自殺したりするようなことはあるかもしれないが、よほどのことがない限り、私たちは「心の問題は心の問題、身体の問題は身体の問題」だと割り切る。「体調が悪いわけじゃないなら、ちゃんと学校に行かなければだめですよ」とか、「肉体ばかり鍛えても気持ちが弱いと大会本番で結果を残せないよ」とか──そのような「心身をべつべつに捉えることば」には、枚挙にいとまがない。
 ところがそれに対して、〈氣〉ということばは、武道的な身体動作について私たちが考える際、その心と身体を分離するような常識的考え方とは異なるアプローチを提示する。すこしむずかしくいうと、心身をべつべつに捉える考えに待ったをかけ、その代わりに「心と身体は繋がっているのではないか」という解釈を積極的に呼びさますような特殊な概念として、提示される。
 少なくとも合氣道において「氣を出しなさい」という時、そこで言われる〈氣〉とは、だいたい「武道的に適切な動作を行うにふさわしい心がまえ・気持ちの使い方」のことを指していることが多い。そして合氣道家や武道関係者が〈氣〉という言葉を介して武術のうまい・へたを論じる時、そこでは、「心が、身体を(に)、動かす(干渉しうる)」という見方を提供し、そのもとで指導を行うのである。
 さて、あまり合氣道について詳しくない方も含めて、以下のことについて考えていただきたい。

  1. ほんとうに、「心は身体を動かす」のだろうか?
  2. ほんとうに、「心が身体を動かす」ことが、「武道的な身体動作の熟練」に関係するといえるだろうのか?

 この2つのうち、どちらかだけでも否定されれば、〈氣〉という言葉が与えるアプローチは、単なる妄想というしかない。多くの人は、「強い人間」を「身体(だけ)を鍛えた人間」として理解するだろう。「心」という見えないものを鍛えたとして、それで強くなれると考える人は少数派である。
 しかし、驚くべきことに、合氣道という武道は、「心は身体を動かす」ことを認め、その原理を利用した身体動作を学習することが、武道的な強さと直結するという仮説を、支持するのである。
 「1.心が身体を動かす、という考え方を肯定し」「2.そのもとで武道的動作への熟練に向上すること」。これが、合氣道において〈氣〉の概念が用いられる文脈である。
 最初に提示した質問に戻ろう。「氣が出ている」とはどういうことだろうか? 上述した議論を踏まえた上で、あえて非経験者にもわかるようなことばに“翻訳”するのであれば、こう言うことができるだろう──「武道的な身体動作に適した、特殊な心の使い方が(その瞬間、あるいは一定時間、あるいは常時)うまくできている……これが『氣が出ている』ということだ」と。
 だが、このような整理は、〈氣〉という不可思議なことばについてほとんど何も語っていないとの誹りを免れない。確かに、この文章は、「1.心が身体を動かす」という考えの正当性じたいについて何も保証していないし、また「2.武道的動作の上達基準」についてもまだ何一つ説明を行っていない。したがって、読者は私の言っていることの正しさを、文章レベルで検証することができず、困ってしまっていることだろう。
 しかし一方で、「心と身体が完全に無関係である」とする立場からは、このような仮説に基づく身体訓練のアプローチは生まれてこないということについては、おおむね認めていただけるのではないだろうか。
 そして、実にこの文章は、「心身をべつべつに捉える考え方から、〈氣〉という言葉で何か身体的な動作の熟練を志向させるという発想は決して出てこないし、〈氣〉が暗黙に前提とするような仮説から出発する武道理論も構築されることはなかいだろう」という、ただそのことを確認していただくためにのみ(ひとまず)書かれたものである。
 〈氣〉にどう熟練するか──すなわち、「合氣道に上達する」という目標──について、少しずつ語っていくためには、まずこの確認からはじめなければならないのではないかと思い、取り急ぎ書き連ねた次第である。

*1:流派についてのバイアスがかかっているかもしれませんので、合気道全体の統一見解を示したわけではありません、と前置きしておきます。

*2:万が一あったとして、それが果たして合氣道的な〈氣〉を指し示すものなのかについて膨大な議論をする必要があるだろうと推測される。