鏡さんの〈管理〉概念を評価する─「セッション運営」の政治学
『RPG日本』の鏡さんから再度お返事をいただくことができました。毎度お付き合いいただきまして、どうもありがとうございます。
今回のお話で、ようやくすっきりと理解できました。鏡さんの〈自由/管理〉説は、私とけっして無関係ではなく、むしろかなり本格的に関わってくる考え方だったんだな、と気付かされました。
私も、「遊び方の多様性」を確保しようとする点では鏡さんとまったく同じ姿勢なんですね。私の議論には市場論も若干入っているので、それと鏡さんの議論はどうしても別枠になってしまいますけれど、この「遊び方の多様性」を確保するための議論という点については、かなり共通していると私は考えています。
〈理想〉に関する高橋の解釈ミスと、鏡による〈理想〉の捉え方について
とりあえず、鏡さんが定義されたまとめをみなさんにもご紹介。もう私の方から用語を定義せず、鏡さん自身の定義に準じます。鏡さんの整理のおかげで、鏡さんの言葉のまま、私の方からうまくコメントできるようになりました。
■鏡(2007)の〈自由/管理〉論における概念定義
- bold;">〈決断〉:セッションにおいて各々が自分の行動を決定すること。
- bold;">〈命令〉:セッションにおいて各々が自分の良かれと思う行動を他人に提案すること。
- bold;">〈意図〉:各種情報の中に込められた命令。また、各種情報の中に込められたと思われる命令。
- bold;">〈自由〉:運用に段階を設けず、とにかくプレイグループの好きなように運用する自由が確保されていること。
- bold;">〈管理〉:プレイグループ内に上下関係を設け、上位者の命令に下位者が従うことで、運用の確実さを確保すること。
この「行動」というのは、おそらく“ゲームの面白さはこうだ”という何らかの主張を意味しているのだと思います。それを「情報」の水準で〈命令〉されたときに、それに対して疑わず唯々諾々と従うのが〈管理〉という状態なのですね。
たぶん、鏡さんは、システムデザイナーなり(自称)ベテランゲームマスター/プレーヤーが持ち出す〈管理〉の権威に対して「待った」を掛けたいのではないでしょうか。そしてその後に、「3者どうしの最適なパワーバランスとはどういったものか」ということに答えを見出そうとしている。「上下関係のないセッション運営」が、鏡さんにとっての「理想」なんですね。私にとっての〈理想的な運用〉*1は、あくまで「作品解釈」における「理想」の取り扱いについて取り上げているのですが、なるほど確かに、鏡さんがこの意味で「理想」を言っているのなら、確かに理想をポジティヴに捉えているのもうなずけます。
文藝論における「理想的な“解釈”」と、政治における「理想的な“状態”」は違います。鏡さんの言っている理想は、つまり「平等は誰もが望む」という意味での「理想」だったんじゃないかと思います。政治的にRPGセッションを見ていたわけですね。多分その見地からみると「理想なんてない!」という私の発言は、かなりズレたものに聴こえたんじゃないかと思います。
その証拠として、私は「シナリオクラフトが理想的な運用である」という鏡さんの主張をまったく理解していませんでした。今ならなんとなく理解できますが、食い違いはそもそもそこにあったのですね。どうもすみません。
さて、こういう認識修正のあとに改めて鏡さんの議論をみると、たしかに「RPGセッションにおける〈政治的理想〉は、論じられるんじゃないかと思います。鏡さんが追求しているのは、セッション現場における「自由と平等」を、(まずは「理念」として)保障することなのでしょうね。私には「セッション現場を政治的に解釈する」という視点が欠けていました。すみません。ですがそのぶん、「よりよいセッション=政治を運営するための法思想」については、うまく論じられたのではないかと思います。〈判例主義〉と〈法律主義〉は、鏡さんの問題意識とは若干ズレますが、「システム解釈」と「セッション運営」の間をまたがる「ルール運用」の領域に属する議論でしたね。
ここまでで一読者の私から鏡さんの〈自由/管理〉論の“うまみ”を要約させていただくと、「システムデザイナー/マスター/プレーヤーそれぞれの〈意図〉をどう評価すれば、もっとも柔軟に面白いセッションを模索する〈自由〉を確保することができるだろうか」という議論のための、しっかりした足場を築けるところが、鏡さんの〈自由/管理〉論のよいところではないかな、と思います。
ちなみに、その問いに関して私は、
という予測を立てています。「鏡さんの目指す〈自由〉はこの〈アクロバティックな運用〉の方で保障されていれば、ま、いいかな〜」などと考えているのでした。
私は「遊び方の多様性」を初心者が追求するタイミングについて待ったをかけるかわりに、傲慢なえせエリートゲーマーがよくやるような「このシステムはこう遊ぶべきだ!」という偏った主張を論駁するという二正面作戦を取りたいと思っています。そういう風に「遊び方の多様性」を確保すれば、別に「完全な平等」が保障されずとも、まあなんとかやっていけるんじゃないかと考えているのです。「あくまでこれは典型的であって、まあこれが出来たら、もっと自由に遊んでいいよ」。これが私の考える〈典型的な運用〉の立場。さっさと後輩には上達して欲しいだけで、あまり権威的に動こうとはしません。
ですが、おそらく鏡さんの〈自由〉は、「それですらぬるいぜ」という立場なのだと思います。(そして、そんな私のぬるさは、私が「ゲームマスターがゲームデザインについてバランスのよい考えを持てるなら、その政治体制が封建主義だろうと立憲民主主義だろうとあまり重要ではない」とどこかで考えてしまっていることから発しているかもしれません。ゲームマスターが常に偉いのは、ゲーム性が保障されている限りであって、別にゲームマスターがルールによってエライと決められているからではない。「徳(=ゲーム性)のない王(=GM)は王権(=GMとしての名声)から外れる」状態さえ保障されていればいいのです。こんな風に私は割り切ってしまっています。
ですが、おそらく私のこういった安易な立場や姿勢も含めて、今後鏡さんが明快に批判してくださるでしょう。この点については、やはり私は考えが及んでいないことを告白します。
そして、しばらく互いにトラックバックしてお互いの議論を引用しあった感覚としては、多少立場の違いこそあれ、かなり建設的なアイディアの共有ができるだろうなと感じています。さらに鏡さんは、「遊び方の多様性」を論理で保障するという難題について、近い将来、きちんと明らかにしてくださるんじゃないかなという感じもしてます。そのための議論の肥やしになるのであれば、そのために私の文章を取り上げたり批判されたほうが、むしろうれしいくらいに思ってます。
鏡さんの今後の議論展開を、お世辞ではなく、一読者としてとても楽しみにおります。たぶんそこには、私も知りたい「何か」があると感じています。