080722_赤い数珠、虹の軌道
(1)麗子の夏
どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが、目指す“ちびっ子ハウス”である。
梅雨も明けようかという夏の日差しは、清々しいとは言いがたい。坂の途中に樹木など日除けになる類のものは何ひとつとしてない。ただただ白茶けた油土塀〔ブロック〕らしきものが延々と続いている。この塀の中にあるのが集合住宅〔コンド〕なのか、寺院〔テンプル〕や療養所〔サナトリウム〕のようなものなのか、私は知らない。あるいは公園か庭園のようなものなのかもしれない。冷静に考えれば、建物を囲うにしては面積が広すぎるから、やはり庭園か何かなのだとも思う。
坂道に名前はなかった。
いや、あるのだろうが知らない、というのが正確なところだ。ちびっ子ハウスに向かうのはMARO〔ボス〕の指令〔コマンド〕を実行〔ラン〕するためであり、私はほかの情報というものをすべて戦略的〔ストラテジック〕に判断停止〔エポケー〕している。つまり完全な遮断〔カットオフ〕。類い稀に理由もなく平伏すというわけではない。私はいつもそのようにしている。そのようなわけで、私が今朝いたホテルからこの坂道に至るまでの街並みも、途中にあるあらゆるものの様相の記憶も私には判然としない。坂道の名前はおろか、このあたりの地名住所の類までも私ははっきりとは知らない。いわんや塀の中に何があろうと私には元より興味がなかった。
急に陽が陰った。気温は変わらない。
坂の七分目あたりで私は麗子号〔マシン〕を降り、ため息をついた。
(2)Tantramancer
マローラモは天狗面〔ゴブリンズマスク〕を額に付けたまま、回転翼機〔ヘリ〕の座席に腰掛けていた。霊的視覚〔アッセンス〕で透視し俯瞰する“ちびっこハウス”の片隅では、彼女の秒読み〔カウントダウン〕が進行中だ。
仏教徒〔ブッディスト〕が麻薬〔ドクペ〕をやらないのは、しょせん肉用の玩具と見なしているからだ。マローラモが使っている面も、廃人が飲むドクターペッパーも、基本的には同じだ。唯物論的本質直観だって、少なくとも表象の点では、人間の感覚の余分な増大だとわかっている。ちょびっと私用でチベット修行に行っただけで、何か俗人と別のものになれるなどとは思ってはいなかった。けれど、ドクペそのものに関しては、肉体入力のよけいな増分と思えて仕方がない。肉に神は宿らない。そんなところに神は宿らないのだ。
助手のパイロットが「二秒前」という警告音を発した。
霊的投射〔アストラルプロジェクション〕は四方から、滑り込むように展開した。なめらかだけれど、いまひとつ。もう少しうまくやるようにしなければ――
そこで仮面を活性化〔アクティヴェイト〕し、思考を麗子に切替えた〔フリップ〕。
(3)本能の剃刀女
私は“ちびっ子ハウス”の敷地内に侵入して屋根に飛び乗った。
屋根が、窓が、悲鳴を上げ始める。電子警報だ。増幅した鼓動のようで、メトロノームのように規則正しい。建物が心臓を持ち始めたかのようだ。
建物のあちこちが強化繊維で保護されていた。武器を打ち付けても、窓の幾つかは細かい傷跡を創るだけだった。
私は胸に隠した赤い数珠〔ルシャプレルージュ〕をライダースーツの外側から握りしめ、光明真言を唱える。
――おんあぼぎゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん――
数珠から流れ込む呪力を感じる。私は息を吸い、目の前の窓に向かい跳躍した。
突破〔ブレイク〕。
安全靴で保護された脚が強化硝子を蹴り破った。後は、戦場の倫理〔エートス〕に従って身体に身を委ねるだけ。
“ちびっ子ハウス”が可塑性をもった粘土のように無残にその形を変え始めた頃、その瓦礫の中から教団の戦闘員四名が身をかがめて飛び出てきたのを視認〔サーチ〕する。
「失礼ですが」
冷静さを失った一人が覆面の中でもわかるほどに眉をつり上げ、間の抜けた質問をする。
「あなた、教団関係者〔グルグル〕ですか」
「いいえ」
言いながら、右手指の二関節目まで男の鳩尾にたたき込む。男が上体を折り曲げながら、ベルトの電子警棒に手を伸ばそうとするところを、横ざまに釘バットで強打し、“ちびっ子ハウス”の外壁にたたきつける。
「約束など、別に要らないでしょう……」