GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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特撮作品と表現の完成度について

「スケールがぶっ壊れる」ことによる映像美というものが、どうもあるらしい。
『ヱヴァ破』を観るまで思いも至らなかったのは、私が映像表現の「肌理」にあまり関心がなかったのと、特撮映画に慣れ親しんだ時期が人生で3年くらいしかなかったせいだと思う。つまり私は幼稚園にいるかいないかの頃に、特撮の面白さについて深く考えることもないまま、別の趣味に移行していったのだった。
 私は今まで、怪獣もの、ウルトラマン仮面ライダー、戦隊ヒーローものなどの作品の美についてほとんど関心がなかった。TRPGをマニアックに好む男子にしては、むしろマイナーな部類に属するのかもしれない。それらの作品が嫌いというわけではないのだけれど、自分から進んで日曜朝にテレビの前に坐るほどの嗜好はない。また、それらの作品の面白さを単にアナログゲームデザインという表現で移植することの意義も感じることが少なかった。
 「マルチメディア」で何かを表現しようとする総ての表現形式にも言えることだけれど、ゲームにするなら、そのゲームデザイン自身で題材を語らしめてくれないと、“元々そういう趣味である”人以外にはなかなか響かないものなのだ。そしてゲームデザイン自身で何事も語れなかった場合、そこには「わかる奴にしかわからん世界」が広がる。その商業的広がりには、自ずから限界がある、と私は考えている。
 しかし『ヱヴァ破』は、特撮素人である私から観ても、戦後の特撮ヒーローものの文脈を継承して作られたんだろうな、という気分にさせられた。特に、「街が壊れていくこと」や「普通の人間と巨大怪物との差」が映像のレベルで強調されている。それが註釈なしでも明解にわかるし、その表現はストレートに「おお、すごい」と思える。とても親切である(ちなみに私は、ヱヴァについても思い入れがない。一通り観てはいるが、京極夏彦岡野玲子が自分に与えた影響に比べれば、エヴァから影響を受けたとは言えない)。
 特撮ヒーローが好きな人の心象風景には、こうした「スケールのぶっ壊れ方」を楽しむリテラシーが既に構築されていたのだろう。特撮オタクの庵野秀明が表現を突き詰めたことで、ようやく“もともとそう言う趣味”ではなかった自分でも、特撮の面白さの一端に触れられたということは、これはけっこう凄いことなのではないかと思う。
 今『ヱヴァ破』というカルト映画を中心に、マグニチュード8.0の地震が起きていて、自分はその震源地からは遠く離れている。けれど、僻地にいる自分すら、少しだけ揺れを感じているのならば、災禍の中心にいる人たちの衝撃はいかほどか。そういう感じなのではないかと、想像している。