GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

2007-2012まで運用していた旧はてなダイアリーの倉庫です。新規記事の投稿は滅多に行いません。

ゲーム研究における道具論、作品論

 今のところ考えているうち、もっとも抽象度の高い話を投げてみます。
 全体として統一感があるわけではないので、節ごとに全然別の話をしている、というくらいの気持ちで読んでいただければと思います。

設計・運用・受容

 自分がTRPGについて書く時、いつも念頭に置いているのは「設計/運用」という二区分です。
 〈システムデザイン〉を褒めるためには、それを運用して現場に〈ゲーム〉を実現する〈マスターリング〉の技術について考察する必要があると考えているのは、その「設計/運用」の分類があるからです。
 そんなことを考えながら今日iPhoneのFlick式入力について話していたのですが、そこではたと気がついたことがありました。私がTRPGを通じて考えていることというのは、要するに「インターフェイス、ツール、道具」と「人間、集団、社会の関係」なんだな、ということです。モノと人とのかかわり、あるいはモノづくりの人と、モノを扱う人のかかわりといいますか。*1
 そういう風に考えて、さらに抽象化を進めると、道具の運用によって作られたサービスを受容するエンドユーザを含めて

  • 〈設計〉design
  • 〈運用〉mastery
  • 〈受容〉reception

 という区分が考えられます。もう少し言葉を補うと、

  1. 特定の人にとって有用な道具・ツールを〈設計〉する。
  2. 特定の人にとって有用なコンテンツやサービスを〈運用〉によって生み出す。
  3. 〈設計〉あるいは〈運用〉によって提示されたコンテンツ、ツール、サービスを〈受容〉する。

 という風になります。
 ここで〈受容〉がごちゃごちゃとしているのは、

 のどちらも一応ありうるからです。人がある対象を「ツール」と見るか「コンテンツ」と見るかは、モノによっては規定されず、人それぞれの解釈に依存してしまいます。
 いずれにせよ、設計・運用・受容に関わる人たちが自然発生的に(あるいは仕掛けられた設計にのっかって)コミュニティを立ち上げ、そこでエコシステムを形成するというのが、私が今、「クリエイティヴである」とされる社会行動について考える際の単純なモデルになっています。

 ここでTRPGのより良い遊び方について考えると、氷川霧霞がアプリケーションの設計を比喩にして論じた「TRPGの苦労は買ってでもしよう」で、大方の議論は解消してしまいます(皆さん、ぜひ読みましょう)。しかし、TRPGにおける〈運用〉の担い手であるところのゲームマスターの話だけではなく、ほかのさまざまなコミュニティにおいても、氷川さんが指摘したようなことは見出しうるのではないでしょうか。

ニコニコ動画の場合

 たとえば、最近のウェブサービスの例に即して書いてみます。
 『ニコニコ動画』を「動画受容の場」として見るか、「作品発表の機会を得るツール」として見るかは、どちらも可能でありながら、どちらか一方だけしかないとは断定できません。むしろ「運用者」と「受容者」とを取り結んだり、入れ替わったりするようなプラットフォームを構築することが、新種の〈設計〉と見なされているということでしょう。個々の趣味判断はおくとしても、そうしたメディアの変化が、従来の「作品論」の成立を困難にしていることは確かです。このような社会的変化については、濱野智史が『アーキテクチャの生態系』の前半で述べていたことが参考になります。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

ゲーム文化における設計と運用

 デジタルゲームにおけるMODカルチャーの流れもまた、プログラムレベルの改造が(専門技術を持つ人たち以外には)不可能だと思われてきたものが、エンドユーザにも改造の余地が与えられるようになったという意味で、画期的です。これはいうなれば、これまでとは比較にならないほど、デジタルゲームのエンドユーザが〈運用〉の領域にも関われるようになったということです。*2
 しかし、そういう流れはMODが最初だったわけではなく、『RPGツクール』や、スチュアート・スミスの『アドベンチャー・コンストラクション・セット』(Adventure Construction Set)の頃から試みとしてはありました。また、一九六ニ年のSpace War!からずっと、コンピュータ・ゲーム*3は大学のコンピュータ・ハッカーたちによって改造されることが当たり前でした。アナログゲームでも、1950年代から米国で本格的に始まったボード型のウォーシミュレーションゲームは、「戦史をゲームとして再現する」というコンセプトワークに賛同しながら、ユーザー側がその実装や可能性についてさまざまに文句をつけながら波及していったという流れがありました。
 そしてようやく70年代になって、明確に「ダンジョンマスター」というアマチュアゲームデザイナーを定義し、商品化したのが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(Dungeons & Dragons)でした。「プレイする楽しみを売る商売」に、「デザインする楽しみを売る商売」が付け加わった(あるいは、分化した形で明示された)のが、D&D以降のTRPGというホビーのもっとも特徴的な点でした。ですから私は、「明確に商業化されたアマチュアゲームデザイン・ツール」の起源を、ひとまずD&Dが登場した1974年に置きたい*4と考えています。*5

物語消費論に分け入るためのハッカーカルチャー

 二〇世紀後半のサブカルチャーを駆動していたのは、単に「与える/与えられる」関係だった作者とその受容者とのあいだのコミュニティだった――こう言うだけなら、より過去の歴史や、ほかの文化の諸相にも当てはまる、ぼんやりした議論でしかないかもしれません。「設計に介入する」という行為それ自体を消費として捉え、意図的に商品化された時代が二十世紀後半である、と言う指摘は、大塚英志が1989年にビックリマンシールコミックマーケットを事例に述べたこととほぼ同様で、新しさがありません。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

 しかし、より詳細に個々のジャンルに分け入っていくと、そうした「設計に介入する」という遊びに参与していくための技法があることに気づきます。少なくとも、ハッカーたちがPCゲームの開発に勤しんだ1970年代後半においては、「コンピュータでゲームを作ること」はそのまま「コンピュータプログラミングの可能性を試すこと」とかなり近い意味で捉えられていました。この介入ゲームに参加するためには、まずコンピュータプログラムの知識というリテラシー獲得に向けた努力が、前提として必要になります。言ってみれば、その敷居を越えた人たちが中心になって、デジタルゲーム開発の黎明期を支えたわけです。そしてそこには、現在では今のオープンソースコミュニティにおいて言われるような「名誉」に関する感覚があります。Rishab Aiyer Ghoshの編纂した、以下の論文集などが示唆的でしょうか。(彼の議論は、ここでも読むことができます。)

CODE: Collaborative Ownership and the Digital Economy (Leonardo Book Series)

CODE: Collaborative Ownership and the Digital Economy (Leonardo Book Series)

 このようなことを考えていくと、20世紀以降のゲームデザインについて語ろうとするのであれば、コンピュータとその開発者コミュニティとの類似性についても注意を払わなければならないかもしれません(幸い、スティーヴン・レビーの『ハッカーズ』は、原語であればプロジェクト・グーテンベルグで無料で読むことができます。)

道具設計の要件

 しかし、そうした話は、まだまだ私個人の手には余る問題です。頭の片隅においておいて、私が今考えている「道具としてデザインを評価する」ことについて、簡単に整理してこのエントリを終えます。

 本当ならば具体的なインターフェイス論の先行研究を押さえてからでなければいけないのでしょうが、今考え付く範囲で書くなら、私が今考えている道具の評価軸は、4つです。

  • コンセプト≒性能要求(concept)
  • 実装・開発(implementation or development)
  • 個人の身体的相性(compatibility)
  • これまでに学習したリテラシー(literacy)[井上2009: 154-161]*6

これに加えて、環境要因として

 このあたりを押さえていれば、道具(a tool)の評価はできるかなと思います。そして、こうした分類のもとでモノを評価するということは、それを一つの「作品」(piece of work)あるいは「コンテンツ」(a content)として見るのとは、どうしても違う見方になります。

道具と作品の境界線(TRPGの場合)

 しかし、道具であることと、作品であることの境界区分はとても曖昧です。たとえば、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の世界観サプリメントを「作品」として見なすか「道具」として見なすは、どちらでもそれなりの評価が可能である以上、結局どちらか一方にだけ還元できるものではありません。もしD&DShadowrunあるいはRunequestといった、背景世界それ自体が読み物として優秀だったTPRGシステムを「作品」として評価するのであれば、文芸批評が構築してきた作品批評からのアプローチだけでなく、TRPGシステムを徹底して「道具」として考察可能な分析概念についても、ブラッシュアップする必要があるでしょう。その方向性で論じていくことは、おそらくゲームというジャンルの元で提示されてきたさまざまな製品を「作品」として解釈する際にも、有用な概念整理になるだろうと私は考えています。
 あとは、実践的なものいいをするならば、「道具」として優れているから「作品」として優れているわけではなく、また「作品」として読みでがあるからといって「道具」としても優れているとは限らない、ということでしょうか。もちろん、それぞれにおいて優れたパフォーマンスをしている「道具-作品」もありうるとは思いますが、一応評価については区分した方が筋がよさそうです。この辺りについてはもう少し詰めることができそうですが、まず先に道具設計の話を整理してからでないと、大きなことは言えなさそうですね。

今後のRPG作品論

 TRPGにおいては、1980年代の安田均が、作品論としてのデジタル/アナログRPG批評の仕事を積極的に行っていましたが*7、九十年代以降そのような流れはアナログゲーム側ではあまりされなくなりました。もちろんそれは国産ゲームシーンによる物語りの新天地がデジタルゲーム(特に、コンピュータRPGやテキストアドベンチャーなどの、テキストを含むゲームシステム)に移行したからですが、国産コンピュータRPGが国内においても徐々に勢いを失っているという言説が徐々に一定の支持を得つつある今、アナログとデジタル、双方のRPGをつなぐ作品論が再び出てもよいのではないかと思います。そしてそうした作品論が出てくるとすれば、そこには二十世紀中盤からの半世紀余りの文化的潮流に「ロールプレイング・ゲーム的なるもの」を位置づける、確固たるパースペクティヴが用意されてしかるべきでしょう。
 私自身は、文芸批評に対する技量や才覚が欠けていることもあって、そうした仕事に貢献することはほとんどできません(なにしろ、その道の方に比べて読書量が圧倒的に足りてませんし、個々の作品に対する分析の訓練も低い水準に留まっています)。ですから今は、自分の関心の及ぶ限り、「設計・運用・受容」の三つにまたがって行われる社会的相互作用について、論理的に取り組むことで、支援できればと考えています。

*1:そして、そこで生成される作品(コンテンツ)のことについては、自分のカバーできる範囲や議論傾向を分析するに)あんまり関心がないみたいです。

*2:これと「やりこみプレイ」との境界線は、引きにくい。やりこみについての先駆的な論文としては、中沢新一が書いたゼビウス論「ゲームフリークはバグと戯れる」があるが、単に「やりこみプレイ」の可能性を示すことでデジタルゲームを論じるだけでは、中沢の功績を超えることは難しい。

*3:PCゲーム、と書きたいところだが、1970年代にAppleIIが普及するまで、「パーソナル」なコンピュータは常識的ではなかった。

*4:もちろん、ウォーゲーミング自体について言えば18世紀から、兵棋演習のデザインについての視点はあったわけですが、デザインする楽しみに主眼を置いていたわけではないため、除外しています。

*5:そして八十年代以降のコンピュータゲーム開発史、Adventure、Zork、UltimaWizardryRoguelike、『スーパーマリオブラザーズ』、『ドラゴンクエスト』、その他コンピュータRPG、ツクールシリーズ、チート、マイコン文化、同人ゲーム、FPS、MODなどの話へと繋がっていくわけですが、それらについて網羅的に語るにはまだ全然調べが進んでませんので、今後の課題とします。

*6:これは私の概念ではない。ここでは、井上明人が2009年04月号の『ユリイカ』で述べた概念を意識している。

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

*7:『SFファンタジィゲームの世界』(青土社,1986)など。