TRPGの議論における〈自由〉概念を受けて――ゲームデザイン責任の三権
id:acceleratorさんが、RPG日本の鏡さんが使っている〈自由〉概念の曖昧さについて、法学者(法哲学者)である大屋雄裕さんや森村進さんの議論を引きながら整理してくれています。
accelerator,2009,「自由という概念のやっかいさ」(http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090217/p1,2009.02.17).
大屋さん、森村さんのような議論は、まさに法学・政治学・倫理学などが抱えている大問題でもあって、TRPGというミクロな状況に即した議論なのか(別にそんな小難しい用語を使わずとも議論できるじゃないか)――という見方をする人もいるでしょう。しかし、私はそういうナンセンスな論難には基本的に与しません。むしろどんどんやっていただきたいと思います。
それでは、なぜ私が一時期から鏡さんの議論に参加しなくなったかというと、acceleratorさんも指摘しているように、「ゲームデザイン(という機会)の配分」の問題に翻訳することの方がより重要であり、それが私の領分に近いと考えているからです。
つまり、私の見解はこうです。法学・政治学の用語で整理すれば、確かにTRPGにおいてもどういう問題を解決すればよいかは、大体見えてくる(これが、鏡さんの果たした功績の一つでしょう)。ところが、「ではTRPGセッションという具体的状況において、どんな政治力学が(What)どのように働いているのか(How)」という問題についても同時に考えなければ、最終的にすっきりとした議論には落とし込めないのです。これが、鏡さんに対する多くの批判において見出されるロジックでしょう。そして、その批判は概ね妥当だと私も考えます。
TRPGゲーマーがセッション現場で扱うのは、〈ゲームデザイン〉と呼ばれるあいまいな対象です。そして〈ゲームデザイン〉が、〈システムデザイナー〉、〈ゲームマスター〉、〈プレーヤー〉の三者にそれぞれどのように認識され、配分され、互いに行使し合っているのかを具体的に記述するための方法論は、まだ一般化されてはいません(そもそも一般化できるのか、という問題もむろん、あります)。私はそこに一貫して注目しているため、私自身が政治用語で整理することにためらいを感じていたのでした。鏡さんに違和感を感じている人に丸投げしていたわけです。すみません。そんなわけで、acceleratorさんが今回の記事を書かれたのは、鏡さん周囲に出来た議論を一歩前進させるものだったと私は考えています。
さて、紹介だけでもなんなので、私からも一言コメントを。
鏡さんのような問題意識が、具体的にTRPGという現場にどう落とし込めるのかという課題については、私はそれ以前から〈イマジナリィ・ボード〉や〈共同ゲームデザイン〉といった言葉でもって、考えを進めててきました。
たとえば馬場秀和さんは、私の「共通一次」を受けて、TRPGにおけるゲームデザインの特性を、以下のように纏めています。
設問1:
なぜRPGは、「コミュニケーションの遊び」「社交的な会話の遊び」と常識のように言われながら、肝心のコミュニケーション技術に関して、具体的な上達方法がRPG畑から提唱されてこなかったのか、「社交的な遊び」であるはずのRPGがしばしば失敗や崩壊の憂き目にあう問題の原因は、一体どこにあったのか。これらの問題について、あなたの考えを述べなさい。(自由回答)
回答1:
前提となる考察からも明らかなように、RPGにおけるコミュニケーション技術とは、すなわちゲームデザイン技術である。ゲームマスターを含む全参加者は、自由なコミュニケーションを活用して共同でゲームゲザインを行う。このためには、前述した「評価基準(目標)を変える、境界条件を破る、新しいルールを創り出す」といったゲームデザイン技術の、少なくとも基本を、全参加者が習得しているべきである。
参加者の技術不足のためにこの共同ゲームデザインが失敗すると、“ゲーム的状況”は“ゲーム”として編集されないままに放置され、そのセッションは失敗あるいは崩壊することになる。
ところが、RPGが持つこの構造は、充分に認識されてきたとは言えない。実際には、RPGにおけるゲームデザインとは、デザイナーの作品をベースにゲームマスターが補完するものであり、プレーヤーはただそれをプレイする存在だと、そのように考えられてきたのである。
これが、「プレーヤーが習得すべきゲームデザイン技術」に関する方法論が提唱されなかった主な原因だと考えられる。
(馬場2005)
この話を受ければ、「セッション崩壊」を、システムデザイナーの責任として引き受けてきた時に生まれたのが、たとえばFEARや冒険企画局の優れたシステムデザイン、シナリオ記法、ルールブック編集フォーマットです。一方、それをあくまでゲームマスターの責任であると再規定して作られたのが『Aの魔法陣』であるわけです(「セッションデザイナー」と名前を変え、ゲームデザインの責任の所在をゲームマスター役に求めている理由です)。海外の多くのTRPGデザインも、『Aの魔法陣』ほど先鋭化されてはいないものの、基本的にはこのパラダイムのもとで作られていると考えた方が、遊びやすいでしょう。
そして鏡さんの議論は、ほかでもない第三の立場です。現場のプレーヤーの責任であると考えた場合の、共同ゲームデザインの設計について述べたものだと見たほうが、すっきりします。そしてそんな鏡さんの議論は、最終的に「プレーヤーがゲームマスターと同じくらいゲームデザイン技術を習得してゲームに参加する」という、ある程度自発的訓練の必要な楽しみを志向することになります。
このように、「TRPGを設計する」といっても、少なくとも三者間のどこに責任を求めるかで全然異なる設計論が出てくるわけですね。これこそがTRPGという芸能における、もっとも重要かつ、論じる際に見逃されがちな構造であると私は考えています。
鏡さんをめぐる議論は、結果として、「共同ゲームデザインの責任主体」がどこにあるのかを私たちに改めて自覚させるという点で大変有意義なフォーラムを形成したのではないかと私は考えています。これからは、それぞれどのように独自の立ち位置を見つけ、「よりよいセッションを作って行くための責任の果たし方」を構築していくのかが課題となっていくのではないでしょうか。
ちなみに私は、馬場さんが「馬場講座」において中心的に展開した「ゲームマスター責任論」を堅持する人間です(これは、馬場さん自身の立場とも多少異なると思います)。私がplayでもdesginでもなくmodificationという領域について考え、その三者間の相互作用について考察するのは、「ゲームマスターの責任の所在」が、それぞれのシステムにおいてどのように適切な位置を占めるかをうまく言葉にできればよいと考えているからです。
そういうポジションを固守したいからこそ、私は、システムデザイナーだけにボードゲームデザイン技術がもたらす楽しみの全責任を委ねてしまうことを(システムデザイナーの貢献を一つ一つ褒め称えつつ)、最終的には拒否し続けるわけです。
馬場秀和さんが1995年段階で、〈シナリオ作成〉や〈セッションハンドリング〉よりも先に、〈システム選択〉が重要だと主張したのは、システムを選ぶことから既に、ゲームマスターのゲームデザインが始まっているからなのです。
最後にもう一つ。実のところ、私は鏡さんの一連の議論にあまりピンと来ていません。その理由は簡単で、プレーヤーの自由がもっとも発揮される時とは、ゲームマスターの〈システム選択〉にちょっかいを出して、そこで提示される要望が認められることにほかならないと考えているからです。
鏡さんが論じるべきは、「ゲームマスターとプレーヤー同士が、どのようにシステムを選ぶ基準を考えて行くか」というプロセスの方だったのではないか、私にはそう思われてなりません。「管理の遊び方も面白い」と言う言葉がポジティヴなものとして他者に通じるのは、その具体的な話し合いのプロセスが明らかにされた時ではないでしょうか。それが規定された後、はじめて「プレーヤーのデザインに対する貢献」の一部始終が、すっきりと語れるようになるのではないかと、私は考えています。*1
おまけ――自由の政治的議論をする際に叩き台にした方がよいもの
読まなきゃ参加できない、というわけではないですが、煮詰まった時にはこれらを参照した方が、議論はより建設的な方向へと進むと思われます。私はメインで参加するつもりはあまりないですが、もしこれらの本について意見を求められれば、ちゃんと読み込んだ上でお答えしたいと思います。幸い、TRPGに関連する範囲は、それぞれの本の内容のうちほんの一部だと思いますので、そんなに大した作業ではないはずです。
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*1:最後のこの指摘が、多くの鏡さんに対する“いちゃもん”とは異なることを立証するため、論拠を一つ挙げておきましょう。手順1には、管理/自由の区分の両方を〈システム選択〉の対象にするためのアイディアがすっぽり抜けています。もちろんこれは「自由な遊び方」の手順であり、「管理の遊び方」があらかじめ排除されていることは当然だという見方もできるでしょうけれども、あらゆるゲームシステムをmasteryやmodificationの対象と見なす「ゲームマスター責任論」の立場からは、これを認めることはできません。色々サポートの足りてないシステム、趣味や美観から見て個人的に気持ち悪いと感じるシステム、進行管理のガチガチなシステム、自分は好きでも今のプレイグループがほぼ確実に拒否するだろうシステムなども含めた、すべてのシステムを、最初の最初だけは〈システム選択〉の対象に含めなければいけません。そうでなければ、理論上無限に考えられる「プレーヤーのニーズ」に応答する能力を、ゲームマスターから奪ってしまうからです。それを理論家個人の個人的趣味において認めてしまうようなシステム選択の判断基準は、TRPGデザインの“理論”として、認めるわけにはいかないのです。