GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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デザイン、プレイ、モディフィケーション

 私がゲーム論において関心があるのは、(私的で、まだ意味づけのはっきりしない区分であるが)

  • design
  • modification
  • play

 のうち、modificationである。
 traditional gamesの多くは、playのみが批評の対象となり、designについてはあまり論じられない。*1
 ところが、近代以降のgameは、designも考察の対象となりえる。いったん自明のモノと思われたdesignの出来不出来が、players communityにおいて論じられるようになって来た。
 決定的なのは、アヴァロンヒルなどのWar Simulation Gamesの登場。ルール自体を売るD&Dなど、Fantasy-Roleplaying Gamesの誕生。さらにはデジタルゲームにおけるStar Trekのような、幾つかの非対称性(人対コンピュータ、人対環境、人対ストーリー的状況、などなど)を前提として設計される遊びの普及。これにMUD(Multi-User-Dungeon)やゲームブックなどを入れてもよいかもしれない。
 gameにおいて作品論が発生し得たのは、playの善し悪しを評価するだけで良かった時代から、designの善し悪しも視野に入れられるようになった為である。(ゲームの作品論・作品批評に関する基礎的な議論については、多摩豊『コンピュータゲームデザイン教本』(ビジネスアスキー,1990)などが詳しい。)
 しかし、design/playの間に、さらにmodificationというものを置いた方が、すっきりするのではないか、という話を考えている。これには昨今ゲーム産業界で話題となっているMODだけでなく、これまでさまざまなゲームにおいて存在したhouse-ruleや「やりこみプレイ」、gamemastering,現在のUGC, CGM, 自作ゲームなどのカルチャーを含めた多くの行為が含まれるのではないかと考える。最終的に、このmodificationがdesignやplayに回収されたとしても、この中間領域を仮定した上で考察することには、ゲームの受容論を展開する上で重要なのではないか、と考えている。
(つまり、一旦modificationなる現象を定義した上で、その上でdesign/playの受容が、それぞれどのようにmodificationの受容と関わり合っているのか、そういうことを考察できるのではないかと考えている次第である)。
 このようなludologyの問題提起は、私のsociologicalな関心とも緩く結びついている。というのも、私は、ゲーム理論をアイディアの柱とする、合理的選択理論に関して幾つかの問題提起が出来るのではないかと考えている。
 具体的には、「社会の(静的な)設計」でもなく「個人の選択・選好の反映」でもない、「個人が設計にささやかな介入を行いながら選択する」瞬間とは、どのように保証されているのか。このような課題である。
 それをうまく観察するための理論立てができることで、比較的小規模の社会改良(あるいは改悪)プロジェクトを社会科学的に評価できるのではないか*2
 以上、語彙の定義がうまくないが、ここ最近パラレルに考えているのは、このようなことである。
 ちなみに、1年前に興味があった「架空の状況」というのは、単にsituation(状況)となり、「架空」が外れた。fictionに対する関心が薄れたためである。fictionという概念は(storyという概念もそうだが)magic wordである。何でも言えるようで、巧く使わないとほとんど何も言っていないに等しくなる。また、個人的に私はgameを単にstory(物語)やfictionという概念で語ること自体に、疑問を感じるようになった。*3

課題

  • design/modification/playという概念区分の意味・妥当性・価値については論証可能か。
  • narrative, story, fiction, drama, action, situation, communication, interaction, fun, gaminessといった「何か言ってはいるのだろうが、筆者で定義しないと単なる曖昧な一般語と変わらない」用語と、どのように付き合っていくか。(Juul2005, 井上2008などを踏まえて)
  • MODカルチャー, UGC, CGMと、ゲーム文化におけるhouse-rulesやgamemasteringとの区別(またはそれぞれの区別)について検討されているか。
  • 合理的選択理論,ゲーム理論における均衡や意思決定の概念と、このようなmodificationの関連について考察されているか。
  • 国内ゲーム史として整理されるべき内容は何か(過去に着手したまま未完成のゲーム雑誌研究など)

(随時追加予定)
 

*1:これは歴史的には異論を提示しうるが、伝統的ゲームのデザインの変遷を考察するのが(一部のゲームを除いて)難しくなっていることから、概ねそのように受け取られているとここでは仮定する。

*2:多くはくだらない、些末な問題かもしれないが、私が観察したいのは、比較的microなスケールであることが多い。ただし、社会現象のサイズ、スケールが小さいことが研究対象として重要であるというわけではない。社会的行為主体としての個人が、ルールの生成も含めた選択をすることで、何がどう変わるのかを考えるということが、社会構造よりは行為主体に寄るというだけである

*3:gameにおけるnarrativeを、分析的思考によって詳細に掘り下げることは可能である。たとえば、Jesper JuulのHalf Real(2005)などはその例であろう。また国内では、1980年代の安田均が「SFファンタジィ」という切り口から、近代ゲームと物語的想像力の関連について言及している。さらには今年に入って発表されたのでは、岡和田晃氏の最近のTRPG&文学論などが興味深い。ここで批判しているのは、あくまで、gameとstoryを短絡するような言説についてである。