RPGにおける〈プレイング〉の内実(2)――ウォーハンマーリプレイにおける高橋の〈意志決定〉プロセスを事例に
以下の文章は、『ウォーハンマー』リプレイ紹介において膨らみすぎてしまった注釈7を切り出して、大幅に加筆・修正を加えたものである。
読者の手元に、リプレイ収録雑誌『GameJapan』2008年04月号があることを前提として論じる。
また、この記事は「RPGにおける〈プレイング〉の内実(1)」の続編でもある。
GAME JAPAN (ゲームジャパン) 2008年 04月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: ホビージャパン
- 発売日: 2008/02/29
- メディア: 雑誌
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今回は、TRPGにおける行動申請とその裁定のプロセスを、グレッグ・コスティキャンおよび馬場秀和によって論じられた〈意志決定〉の側面からレビューしつつ、その中で〈キャラクタープレイ〉と呼ばれてきたTRPGの演技的側面がどのように位置づけられるかを整理したいと思う。
これまでに主張してきたことと重複する部分もあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
〈キャラクタープレイ〉をやる前に果たすべき〈プレイング〉
さて、私は『GameJapan』2008年03月号から連載が始まっている『ウォーハンマー第二版』リプレイの中で、比較的多くの〈キャラクタープレイ〉を意識的に行っている。特に第二話が収録されている04月号以降はその傾向が強く、紙面上では、「やい田舎っぺ」だの「お坊ちゃん」だの「ミドンヘイムの田舎者と聞いて遺憾に思った次第であります」とかいった台詞をかなり楽しんでいるところがわかる。そして、少なからぬ「感情移入」*1の楽しみを得ている。
つまりここで高橋は、TRPG議論活動の中で馬場秀和を何度も肯定的に取り上げているそのくせ、“あの馬場秀和が強烈に否定した”と巷間で言われている〈キャラクタープレイ〉を平然とやっているわけである。 これはどういうわけだろう?
しかし私は、このことを特に問題に思っていないし、恥を感じてもいない。なぜならば、〈広義のロールプレイ〉である〈役割分担〉と〈ロールプレイング〉の2つをキッチリと念頭に置いていれば、そこに〈キャラクタープレイ〉を余興として混ぜてもよいと考えているからだ。
一例を挙げよう。この〈セッション〉でエックハルトは、家庭教師として指導しているエーデルライヒ家のお坊っちゃまくんを利用して黄金学府の情報を聞き出すために“スパルタ教師を演じる”という行動申請をした。その結果、エックハルトは貴族と黄金魔術師の密会現場までたどり着くことができただけでなく*2「仕事中の手違いを装って調査を進める」という物語的一貫性をも持たせることができたわけである。*3
いつものように視覚化しやすいよう構造表を示すと、以下の通りになる。
■〈目標の多層構造〉(旧式)
■〈目標の多層構造〉の細分化─「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」の観点から
ここで重要なのは、〈役割分担〉がゲームの〈管理資源〉に、〈ロールプレイング〉がゲームの〈制限/情報〉に、それぞれ関連していることである。馬場秀和がロールプレイング・ゲームを語る際に、当時まったく聞きなれない言葉であった〈役割分担〉を持ってきたのは、広い意味でのロールプレイが「〈資源管理〉としてのロールプレイ」と、「〈制限/情報〉の遵守・活用としてのロールプレイ」に細分化できることを彼が強調したかったためである。
馬場秀和がコスティキャンの「ロールプレイ」とは別に〈役割分担〉を設定した理由
ところでグレッグ・コスティキャンは「ロールプレイング」の楽しみについて(これはもちろん、ゲーム一般における演技という意味ではあるが)語った際、〈役割分担〉という言葉は一切使っていない。
そして、実はこのことをもって、「馬場秀和の一連のTRPG論文は、コスティキャン論文を馬場が都合よく解釈したに過ぎない。したがって馬場の議論はメチャクチャで、考慮するに値しない」という批判が一部に存在する。
しかし、その読み方をする前に、そのコスティキャンが記している「ロールプレイング」の段落が、コスティキャンが「ゲームにとって本質的」と定めた項目の外にあることを、読み返して確かめるべきだろう。*4馬場秀和は、コスティキャンが「ゲームを魅力的なものにする他の要素」として論じた「ロールプレイング」の方ではなく、〈ゲーム〉の本質とコスティキャンが読んだ7つの〈ゲーム〉要素*5に、TRPGの各要素を落とし込んだ。その結果、馬場が2つの要素に要約したのが、〈管理資源〉としての〈役割分担〉と、〈制限/情報〉としての〈ロールプレイング〉なのである。
そしてその観点から、〈役割分担〉は〈ゲーム的目標〉に、〈ロールプレイング〉は〈文芸的解釈〉に、それぞれ割り振られると考えられるのである。
以上が馬場秀和の、コスティキャンのゲーム論を踏まえた〈ロールプレイング・ゲーム〉議論の隠れた前提となっている。
(なお、ここで論じたことは、馬場秀和によるあらゆるTRPG論の中核をなす思想であると私は考えている。私が馬場秀和について触れる際、この話は今後も繰り返し参照していただくことになるだろう。)
〈キャラクタープレイ〉を含んだ、TRPGにおける〈意志決定〉プロセスの提示─エックハルトの屋敷内での行動を例に
再度エックハルトに登場してもらい、このモデルを適用すると、以下の3点が、〈ロールプレイング・ゲーム〉における〈意志決定〉のプロセスになるだろう。これもまた、今後私がTRPGにおける〈意志決定〉を論じる際の詳細なモデルとして何度も参照する予定だ。
■TRPGにおける〈プレイング〉の認知的プロセス─高橋によるエックハルトの〈意志決定〉事例
- 〈ゲーム的目標〉の達成:「よし、エックハルトには、黄金の学府の連中を屋敷の中から探し出してもらおう。」
- 〈文芸的解釈〉:「どうすれば『オールドワールド』らしく、また『エックハルト』らしく行動を申請できるだろう。」
- 〈ロールプレイング〉:「よし、お馬鹿な坊ちゃんをしごき倒して、自発的に部屋から逃がしてしまえば面白い。我ながら酷いね。うんうん」
- 〈狙いの再現〉:「ふだん貴族に言いように使われている魔術師が、ここぞとばかりにこそこそ屋敷の中を嗅ぎまわる。『オールドワールド』の世界らしい振る舞いだ」
- 上記2点(細分化して4点)を考慮した〈意志決定〉
- 〈葛藤〉:「バレたら命の危険があるかもしれないが、今ここで何もしないのも解決にならない」
- 〈アカウンタリビティ〉:「行動の叙述については、〈文芸的解釈〉の内容をキッチリ伝えれば納得してもらえるはずだ」
- 〈選択肢〉:「動くか、動かざるか」
- 〈決断〉:「よし、考えたとおりに動こう」
- 〈ゲームマスター〉による裁定→「げー、幸運点を使ってもバレてしまった!(笑)」
- 〈結果に対する責任〉:「パーティに巧く情報を伝えたいし、死にたくもない。ここは社交判定でとぼけるしかないぞ!」
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ここまでのプロセスを過不足なく満たして、初めて〈キャラクタープレイ〉は「味付け」として機能する。そして、〈キャラクタープレイ〉が上記〈意志決定〉プロセスの1部分である限り、それはTRPGを遊ぶ際の程よい味付けとして参加者全員を楽しませるだろう。
こういった「味付け」としての〈キャラクタープレイ〉の効能については、馬場秀和のコラム『キャラクタープレイのすゝめ』などを読むとよいだろう。それを読めば、馬場秀和が否定してきたのは〈キャラクタープレイ〉ではなく、〈キャラクタープレイ〉の楽しさに浸るあまり、上記すべてのプロセスをバランスよく考えて〈意志決定〉することを放棄した、ごく一部の、筋の悪いプレーヤーだけであることがわかるだろう。
以上のことは、2004年の頃から、拙いながらも何度も言っていることである。しかし、言うたびに多少はマシな言い方になってきていると思うので、また何度でもめげずに語りなおしたいと思っている。
*1:コスティキャンによれば、ゲームの本質ではないが、あればよりゲームを面白くするものの一つであるという。
*2:これを私は「ゲーム的目標」と呼ぶ。全部で4つある〈目標の多層構造〉のうち、〈課題の達成〉と〈役割分担〉がこの「ゲーム的目標」にあたる。
*3:私はこれを「文芸的解釈」と呼び、全部で4つある〈目標の多層構造〉のうち〈ロールプレイング〉と〈狙いの再現〉を達成するための目標として捉える。なお、この「ゲーム的目標」と「文芸的解釈」の詳細については、2007年12月の拙稿「RPGにおける〈プレイング〉の内実(1)」を参照していただきたい。詳しい説明がある。
*4:TRPGの価値が「ロールプレイング」にあることを真剣に主張したいという人が、なぜ「本質的ではないほうのロールプレイング」を説明する項目を持ち出してまで馬場秀和の議論を無効化してしまうのか。果たしてそれはTRPGにおいて本質的だと誰もが思うはずの「ロールプレイング」を支持したことになるというのだろうか。私は、そのような論法が、TRPGを愛しすぎるがゆえの自家中毒に陥っていないかを、冷静に確かめていただきたいと思う。
*5:つまり、〈参加者〉〈目標〉〈障害〉〈管理資源〉〈ゲームトークン〉〈制限/情報〉〈意志決定〉である。
*6:リプレイには収録されていないが、このような発言をした。ちなみにエーデルライヒ坊ちゃんはとてつもなくおバカさんという設定。