GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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死んだシステムと、〈マスターリング〉の商品価値

〈ロールプレイング・ゲーム〉を「社会的営み」として考えた場合、それは数ある「娯楽」「趣味」の中の一つであると同時に、プロにとって「商売」である。
 ゲームデザイナーが書籍媒体を通して「ゲーム」を出版し、ユーザーがそれを買う。そのようにして、私たちは個々のRPG作品を消費し、その消費行動の結果として支払われる代金が、出版社とゲームデザイナーの懐に入る。
 このようなわけで、まずRPGは「一つの趣味に金銭的価値を置いた上での経済的やりとり」として成立している。
 ところで、〈ロールプレイング・ゲーム〉には、しばしば「商品流通からは死滅したゲーム」がある。
 たとえば、新和版『ダンジョンズ&ドラゴンズ』や『トーグ』、『蓬莱学園』、『アースドーン』などは、(海外展開で進展があるものも一部にはあるが)少なくともすべての日本人が商品として「購入」できるような確固たる流通基盤を確保できないまま、死んだゲームとして扱われる。
 しかしながら、一部のRPGゲーマーにとって、それはまったくの嘘である。なぜなら、十年単位で新和D&Dを、トーグを、アースドーンを、『メガトラベラー』を、『ルーンクエスト』を、『ウォーハンマー』の文庫版(初版)を、5版『トンネルズ&トロールズ』を……とにかく、日本語書籍として流通が止まった商品をひたすら遊んできた人々にとっては、間違いなくそれは「生きた」ゲームだったと認識されているはずである。どこが「死んだゲーム」だというのか。
 TRPG市場においてなぜこのような齟齬が起きるのか。それは、ロールプレイング・ゲームにおいて商品・サービスの中心となっている〈システムデザイン〉が、本質的に不完全な商品・サービスだからである。その不完全さは、〈ゲームマスター〉によって埋められなければならない。
〈システムデザイン〉の不完全さを埋めることそれ自体を趣味として楽しむ〈ゲームマスター〉が、流通が止まった後も、さまざまなテクニックを駆使して遊び続けさえすれば、少なくともその〈ゲームマスター〉が関わる範囲では、そのゲームシステムが「死んだ」「遊べなくなった」などとは見なされない。(したがって、しばしば私たちは、古典名作システムが「死んだ」と言われれば憤激する。この議論の流れを読めばお分かりの通り、私の言葉にそのような含みはない。達人の方々には安心していただきたい。)
 にもかかわらず、このような「死んだシステム」のゲームマスターは、次々と新しい製品を出版し続けるTRPG市場の経済発展には貢献できない。なぜなら、システムデザイナーが売るのは、流通上「死んだゲーム」ではなく、新たに流通させるべく開発した新しいゲームシステムだからである。 
 ここに食い違いが生じる。
 〈システムデザイン〉〈マスターリング〉が歩調を合わせなければ、現在のTRPG市場は適切に発展していかないことは、〈ロールプレイング・ゲーム〉そのものの性質を考えれば明白である。ところが、多くの既存TRPGシステムは、“あまりにも消費期限が長いために”、そのような市場メカニズムを前提としない、高度かつマニアックな遊び方をプレイグループの間で志向させやすい構造になっているのである。

 出来が良いシステムを作れば、システムデザインの商品価値を無視してまで遊び続けるプレイグループが爆発的に増加する。それがTRPGシステムというものである。良いツールほど使い込み甲斐がある。使い手側にとって、悪いことは一つもない。
 だが、そのような遊び方は、(少なくとも国産のゲーム市場を育成するという観点からは)乖離してしまいがちだ。20年それで遊び続けられてしまえば、システムデザイナーは新しい製品を買ってもらえなくなる。
 そのようなわけで、「システムデザイナーに金が入らないほど良いシステムは、本当に良いシステムなのか」というジレンマが、今のTRPGシステムを設計する際にたちはだかる。それに苦しむよりは、一つ一つのゲームの消費期限が短い代わりに、細やかで充実したサポートを雑誌やサプリメントで次々と行う(その細かいコンテンツから得た収入を企業の収入源と捉える)サービスの方が市場育成にとっては効果的である。そのようなサービス形態は既にF.E.A.R.社によって確立されている。*1コンテンツを売り続けなければならない経営側の判断としては、当然のなりゆきであると言える。
 そしてそれは、実際に一定の成功を収めているのだ。
 私がTRPGを一つの「趣味」として捉え、それをどう豊かに楽しみ続けられるかを考え始めた時に最初にぶつかったのが、このTRPG文化圏における2つの乖離だった。TRPGの多大な恩恵を受けて育った達人ゲームマスターが、現在のTRPG市場と交差せず、埋もれて消えていく。これはなぜだろう。私はそれに違和感を感じてきたし、実際今でも感じている。
そして、「ゲーム的に価値を認めた結果として、システムデザイナーに金が入るような仕組み」をどれだけ意識しているかが、この2つの派閥を分かつ重要な点なのではないかと、私は考える。
 最終的にゲームの面白さを生み出すのは、〈システムデザイナー〉〈ゲームマスター〉の両方である。サービスとして、商品として価値のある「ゲーム」を生み出しているのは、どちらか一方だけということはない。これは自明のことであると言って良いだろう。*2
 しかし、結果的に、「金を支払うことでTRPG市場の発展に貢献する」という方法が通用するのは、今のところ「システムデザイナーに金を支払う」という行為だけである。もう一人の「現場のゲームデザイナー」であるところのゲームマスターに金が入ることはない。

 そもそも、今のTRPG市場はそのような商業形式を前提としていない。流通から「死んだ」TPRGシステムが「死んでいる」と見なされるのも、出版物を買うこと以外に、そのコンテンツが価値ある商品として生き残っていることを証明する手段が、ほとんど確保されていないからである。Web上でいくら熱くそのシステムの良さを語ったところで、それは日々日本でRPGを売り続けなければ生き残って行けないTRPGベンダには無視される。結果として、多くのTRPGゲーマーは、「国内で、自分の好きなゲームの本がたくさん売れること」以外の経済的成功イメージを想定することができなくなる。

 しかし、本当にそれ以外に、「死んだ」ゲームを復活させる手段はないのだろうか、と私は考えている。文化として成長し続けてきたTRPG〈マスターリング〉の世界と、たった今日本で形成されているTRPG市場のビジネスモデルとの間を埋める、新たな解決策は、どこかにあるのではないだろうか?
 どちらかといえば、「死んだ」ゲームを営々と遊び続けてきた達人ゲームマスター達にばかり世話になってきた身としては、そのような人々の知を「出版」に回収していくビジネスモデルではない、別のパフォーマティヴなビジネスモデルがあってもよいのではないかと、そのように考えているところである。

*1:SNEも既に行っていたかもしれないが、メディアミックスなど、事情はもう少し込み入っているため、わかりやすい例を優先させる。なお、この注釈のそばにある別エントリへのリンクは12月11日にF.E.A.R.社の商業戦略について補足したものであり、この記事より後に書かれたものである。

*2:ここにプレーヤーの資質を問う方もいらっしゃるかもしれない。しかし、ボードゲームの場合を考えてみて欲しい。誰もボードゲームを知らなかった場合に、そのゲームは楽しめないと言えるだろうか? 最悪の状況下でも、ルールをしっかり読めば遊べるようになっているのがボードゲームである。TRPGにおいてそのボードゲームコンポーネントにあたるものに、〈プレーヤー〉が含まれていては、TRPGの入り口は酷く敷居の高いものになってしまうだろう。したがって私は〈プレーヤー〉に資質を要求する遊び方は、上級の遊び方に分類し、〈マスターリング〉〈システムデザイン〉がしっかりしてさえいれば誰でもTRPGセッションに参入できると考えることがベーシックな議論の進め方であるとここで考えている。